インシデント~楜沢健の非日常〜

五嶋樒榴

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●愛したのが始まり●

プロローグ

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2000年。

その夜は、雲一つない真夏の夜空だった。
この東京の空でも、20世紀最後の天体ショーが繰り広げられる夜でもあった。

「水島、分かってるだろ?お前はここで死ぬんだよ」

15階建ての廃ビルの屋上に追い込まれた水島弥之みずしまみつゆきは、このビルの所有者、糸坂功一いとさかこういちをキッと睨みつけた。

「俺は横領もしてなければ、お前の娘に何もしていない!俺は、それを全て警察に言うつもりだ!」

身の潔白を証明するのに、時間やお金がかかっても、弥之は家族を守るためには何でもするつもりだった。

「だからお前は甘いんだよ。頭が良くて人望があったところで、汚れ仕事は俺に任せていたツケが回ったんだな。自業自得だ」

余裕の笑みで糸坂は弥之に近付く。
弥之は汚れ仕事を任せた事など一度もない。それどころか、糸坂の暴走を止められなかったことを何度も後悔した。
今となっては全て遅かった。

「安心しろよ。お前の女房もガキも、俺がちゃーんと面倒見てやる。犯罪者の家族だってレッテルを貼られるよりマシな生活を送らせてやるよ」

不敵な顔の糸坂に、弥之は怒りに震える。

「お前は初めからそれが狙いで俺に近づいたのかッ!俺はお前を本当に良いビジネスパートナーだと思っていたのに!」

弥之の言葉に糸坂は苛つく。

「ホント苛つくわ。だからさっきから甘いって言ってんだよ!俺はな、お前と出会ってからずっとこの日を待ってたんだよ!お前の最後はここで死ぬ事で終わるんだよ!……最高だろ?自分の罪を償う機会を与えてやるんだ」

1人で糸坂は笑う。
自分が勝ち組だと弥之を蔑む。

「お前は親友のビジネスパートナーの娘を、自分の横領を隠すために身代金目当てで誘拐したんだ。ここはその最後を飾るステージなんだよ!」

糸坂の言葉に、弥之は崩れ落ちる。
親友だと思っていた男の裏切りで、精も根も尽き果てた。

「ほら、もう時間だ。お前は良く逃げたよ。もう、楽になれよ」

ジリジリと糸坂は弥之に近付く。
屋上の低い手摺りに追い込まれて、弥之は逃げ場を失っている。

「一瞬だよ」

糸坂はそう言うと弥之の両肩を背後から掴んだ。

「ほら、この高さならあっという間にあの世行きさ」

力強い腕に成す術もない。
抵抗しようにもその力は残っておらず、殺される恐怖よりも、弥之は悔しさでもう何も考えられなかった。

「……糸坂……お前……」

僅かな抵抗を試みるが、弥之よりもガタイのいい糸坂に抵抗する力はゼロだった。
糸坂はニヤリと笑って、弥之の体を手摺りの先に押しやる。
弥之は手摺りに掴まって最後の抵抗を繰り返すが、糸坂の力はなんの迷いもなく弥之の体を押し上げ宙に浮かせた。
抵抗してバタつかせた足が、逆に弥之の死期を早める。弥之の体は吸い込まれる様に暗黒へ向かった。

「きゃー!」

摩天楼の中響き渡る悲鳴の先には、無残な弥之の姿があった。
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