浦島

せろり茶

文字の大きさ
上 下
1 / 5

前編

しおりを挟む
あばらやというよりも、既に破壊尽くされ崩れ落ちるばかりか?と言う程の荒れ放題なそこは。

家を守る壁はすきま風どころか、隙間風景が見られる程で、玄関というか出入り口はつっかえ棒一つで鍵というか侵入するときに少し手間取る程度の防犯だが、無いよりはましなのだろう。


引き戸を開けると唯一荒れの見られない土間から、真ん中が窪んだ踏み石で板間へと上がる。

居間の真ん中が囲炉裏ではあるが、そこには鉤もなく、まして鍋も鉄瓶すらも掛かってはいないし、炭も無ければ薪もなかった。

見渡す限り何もないそこ。

奥に元畳の残骸のような蓙が敷かれ、綿なんぞ入っているのだろうか?という薄さの布団が一つ、山になっている。

布団がもぞり....と蠢く。

影が一つ人の形にのっそりと起き上がるのが見てとれた。


首をグキリ、と鳴らし、肘を片手で抱きかかえるように伸ばして強張った身体を解す。

寝た気はしないが、無いよりはマシな屋根と壁に囲まれた程度のここでも、野宿よりは遥かに安心して眠れたのだ。

文句はない。


長い髪を手櫛で解し、細い組紐で一括りに纏める。

晒しを胸に巻き直し、寝乱れた着物の襟を引っ張り調える。

帯も角結びにすると、草履を引っ掻けて外へと出た。


お天道様は高く上がっていて、とっくに朝は過ぎ去っていったことを知らしめている。

腹が減ったな....と土間の甕を思い出してみたが、昨日確認した時、あの中にはヤモリが申し無さげに這い回っているだけで、何もなかった。


仕方がない。釣りでもしてみるか。

井戸の鶴瓶も落ちているので、顔を洗おうにも水は汲めないようだ。

諦めて眼下に見える海岸線にでも出るしかなさそうだ。

荒屋にたどり着く前にあった納屋らしき柱の残骸の影に、釣道具らしき物は見かけた気がする。

海岸に近い元集落....多分『村』といってもいいであろう幾つかの家屋の残骸が、蔦や草にまみれながら黒い小山のような有り様を見せているから、ここは打ち捨てられた村なのだろう。


自分が潜り込んだこの荒屋は小高い丘の影になっていて、海風や砂からの崩落の時期を延ばされていたのだと思う。

往く宛など無く。

ひたすらに逃げ、隠れながら怯えながら夜闇の中を走り昼の明かるさに震えて此処まで来た。

此処が何処か等は些細。

自分には追っ手が係っているのか、もし居るのだとしたらそれは何処で諦めてくれるのだろうか。

この身が知らぬ間に抱えたのは、ただの借財ではなく、心まで蝕む程の恐怖と絶望との引き換えである借金。

父母もなく、頼れる祖父母もなく。寄る辺の無い身であったが。

叔父と名乗る女衒が現れ、野良より良い仕事があると、手を牽いて門をくぐったのは、入ったら二度と出られぬ『花街』とは名ばかりの生き地獄。

食べられる、屋根がある、風呂がある、着るものがある。なんの不自由があろうかと嘲笑われたが、そんな手足枷は自由を風を恋焦がれるだけで。

自分の純潔を散らされる身代が決まったその夜、身一つで花街という息をするだけでも借財が増えていくような底無し沼から逃げた。


船着き場で干してあった男物の着物と帯を盗んだ。

山道で道の安全を願う道祖神から供物の握り飯を盗んだ。

もう、どれだけの日があれから経ったのかも定かではなく。

何故海に何ぞ逃げて来たのかすら理由など無いとしか言えぬが、この人の居ない村の残骸でなら。

ひっそりと生きられるのではないかと思った。


兎に角、腹が減った。

本格的に目が回る前に、何か食べねばならない。

燃やすような材木は見渡す限り、十二分に多い。

釣れるかわからないが、海岸へ降りていこう。










砂浜から更に隠された磯で釣竿を垂れたままにし、磯の窪みで引き潮で残された小さな貝や蟹を捕まえた。

砂浜を掘ればアサリやマテ貝が桶一杯に採れた。

小さな魚も釣れた。

適当な廃屋で見つけた鍋。

荒屋の裏には細々としながらも湧水もあった。

人の絶えたこの場所で幾日か過ごして体力を着けてからまた逃げようと、絶えなかった緊張の日々からの解放を望んだのは仕方がない事だった。

どうにか食べていけそうだとの安堵は、そのままここで生きられるとの安堵にもなる。

湯がいて食べたアサリの味は染み入るようで、焼いただけの魚はほっこりと柔らかく。

ただそれだけで涙が出た。


叔父と名乗った女衒に、前の名は捨てろと言われた。

女将と呼べと言った女からは、屋号の『白柳』と名乗れと言われた。

元より何も持っていない。

名無しでいい。

この場所なら名乗る相手もなく、必要がない。









三回、日が昇った。

四回目の夜が来た。


月が丸く大きく凪いだ海に浮かんでいたのが悪い。

ふと、寝苦しいと外の風に当たるべく海岸へと降りたのが悪い。

後になって思えば、静かな夜が悪いのだとしか言えない。

ひっそりとした夜の砂浜はサクサクと足音でだけ音を立てていて。

静かな波が絶え間なく寄せては引き戻り。ただただ静かな夜だ。

サクサク....と砂が足の指の間に入り込む。

このまま、静かにここで生きられたら幸せという物に近づけるのではないだろうか、と思う。

もう追っ手も無いのか、それともまだ此処までたどり着いていないのかがわからない。

わからないのは怖い。

それでも


もう闇の中の山道を叢の影に怯えながら走り逃げるのにも、他人様の敬虔な祈りを掠めとるのにも、日の光りに怯えるのにも疲れたのだ。


溜め息と共にそろそろ塒ねぐらに戻るか、とぐるり、と弓形の浜辺を見渡すと先程までは見られなかった小さな黒い何かが波にまみれながら砂浜に横たわっている。


眉を寄せてじっくりと、眺める。

海亀、とかだろうか?

鮫にしては小さいような気もするが海亀にしては大きすぎる気がする。

ざわめくのは木々の葉音か、己の心臓か。

恐る恐ると近づく。

人?

人なのか?

体が震えるのを止められないままに、そっと、覗き見る。

「いきて....る?」

己の声を耳にするのは幾日ぶりかも定かではない程、言葉を発していなかった。

掠れるようなそれを絞り出す。

足先でそっと、脇腹あたりをつついてみると着物の冷たさの中に温かさを感じた。

足でひっくり返す。

男だ。

肩口で結わえた髪が顔に張り付いているが、月の明かりでも紙の様に真っ白になっている顔が女の柔らかさを一欠片も併せ持っていないのを見てとれる。



顔に波がかかる。擦りきれた着物の裾を帯にたくし込んで、男の脇に両手を差し込んだ。


やめろ、やめておけ、このまま見捨てろ。

そのうち波が何処かに運んでしまうだろう。

放っておけ、手を離すだけでいい。

倒れている男のことなど忘れてしまえ。



ぶるぶると震えて旨く掴めない。

握りしめた拳も、男の脇に通した腕も、己の物ではないように力が入らないのに曲げたまま強張ってしまうのは、離せ捨てろと叫んでいる己の意思とは反対に助けなければ、助けなければ....と訴えている。

ぐっと腰を屈め、足を踏ん張り、ぐいと持ち上げ、胸に抱き上げながら腰を後ろから抱え、砂の上を引き摺る。


引き摺りながら胸に抱えた男の体温の温かさにすがるように、ただ必死に足を動かした。

後ろ向きに足を動かすのは、己の足なのに思いのままにはなかなか進まず、焦ると鉛のように重く動かなくなるのは何故なのだろうか。

食い縛った。

重みに、消えそうな温もりに、持ち上げる腕の痺れに、食い縛った。

抗って

温もりが徐々に小さくなっているような気がした。

この温もりが泡沫と消えてしまうのは、とても嫌だと思った。






しおりを挟む

処理中です...