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マルコ・ルルリア
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その女性は、春のように暖かく、穏やかな人だった。
私が初めて彼女と会ったのは、3歳の時のこと。
「マルコ、この方は俺に代わり我がルルリア侯爵領地の経営管理をしてくださっている、ミリア様だ。ご挨拶を」
屋敷に着くと出迎えてくれた優しそうな笑顔の女性。父に促され、家で必死に練習をしてきた言葉を紡ぐ。
「おはちゅ…おは、つ、におめにかかります、みりあしゃ、さま。りゅ…りゅ…るりあこうしゃくけがじなん、まりゅ…まることもうします」
当時は舌が足らなかったこともあり、所々噛みながらのその挨拶はさぞかし不格好だったと思うが、それでも目の前の女性は一切笑うことなどしなかった。それどころか、上品なドレスの裾が地に付くことも気にせず、私の目線に合わせてしゃがんだのだ。それは目上の貴族女性としては褒められた行為ではないのかもしれないが、それを十分に知った上で彼女はそうしたのだと今なら分かる。
「ご丁寧な挨拶をありがとうございます。初めまして、マルコ様。私はミリアと申します。これからよろしくお願い致しますね」
「はい!よろしくおねがいいたします!」
元気よく返事をすると、父がそっと頭を撫でてくれる。小さな丸いしっぽがふりふりと動いた。
すると横に立っていた2つ年上の兄、アランが静かに口を開いた。
「…ミリア様、こんにちは」
「アラン様、お久しぶりです。少し見ないうちにご立派になられましたね」
「…もっともっと、父上よりも大きく、強くなります」
「ふふ、楽しみにしておりますわ」
父に似て無口で無愛想な兄が嬉しそうに微笑む姿に非常に驚いたのを今でもよく覚えている。
__________
「リリエル侯爵様、女の子がご誕生されたとのことで。おめでとうございます」
「ありがとうございます、サラン宰相殿」
「そちらは次男のマルコ様でお間違いありませんか?」
「ええ。マルコ、サラン宰相様だ。ご挨拶を」
どことなく、ミリア様に似ている人間の男性。
しかし、その雰囲気はミリア様とは似ても似つかない冷たさだった。
「うちのが役に立っているようで。最近よく侯爵領地のお話を聞きますよ」
「私には勿体ないほど、とても才能に恵まれた女性です」
「跡継ぎのことで君の役には立てなかったことを申し訳なく思っておりましたが、この様子ならリリエル侯爵家も安泰ですね」
「……ええ。では、用事がありますので。失礼します」
「ああ、引き止めてすみませんでした。ではまた」
話の内容は当時はいまいち理解できなかったが、あまり関わり合いになりたくないと、肌で感じた。
見上げた父親の横顔もまた不機嫌そうに歪んでいたが、幼いながら、その表情はただ単にあの男性への感情だけではないように感じた。
__________
衝撃的な事実を知ったのは、男性と出会ってから1年。私が11歳、妹のパトラが生まれた報告をしに皆で領地の屋敷へ行った時のことだった。生まれた報告と言っても、彼女は既に1歳になっていたが。
「ミリア様って本当に慈愛に満ちた強いお方よね」
「そうね…私なら耐えられないもの。運命の番に出会ったとはいえ、それまでは子供はできずとも旦那様からあれほど愛されていたのに…」
「それも、初めての子供は旦那様に似ても似つかないあの忌まわしい熊男に襲われてできただなんて…。その子は流れてしまったけれど、それでもミリア様は涙なんて1粒も見せなかったのよ?」
「それに!旦那様とエカエラ様の間のお子様方にあれだけお優しくできるだなんて!何て方なの!!?私にできることがあれば何でもして差し上げたいし、一生お仕えしたいわ」
「そんなの皆同じよ」
雷を打たれたような衝撃だった。
この国で一夫多妻制が認められていることは知っていた。けれど、運命の番である両親はそれに該当しないと信じて疑わなかったし、自分は両親のように1人の相手だけと添い遂げたいと思っていた。
話の内容から、先に父と結婚していたのは彼女であることは分かった。それならば、母と結婚した父がミリア様が邪魔になってこの地へ送ったというのだろうか?
「そうではない」
「!…兄上」
使用人達が立ち去っても、考えに耽っていた私にそう声を掛けたのは、兄であるアランだった。相変わらず、父に似た仏頂面である。
「ミリア様は、ご自分から父上にこの領地の管理をさせてほしいと頼まれたんだ」
でもそれは、空気を読んだ彼女がそう言っただけで、両親が彼女をそういう立場に追いやったのは確かではないか。
「それほどまでに、運命の番の結び付きは強いの…?」
「…そういうことだ」
獣人の両親から生まれた私達は獣人だ。兄と俺は熊、まだ小さな妹は狼。
いつか、運命の番が現れるかもしれない存在。出会う確率は隕石が自分にぶつかる確率より低いものだと言うのだから、よほどのことがない限り出会わないのだが、両親は実際に出会っている。
社交界では両親は羨望の眼差しで見られている。特に獣人貴族から。運命は多くの獣人達の憧れなのだ。
「仕方のないこと、ミリア様はそう仰っていた。それでも私はダグラス様…父上がどうしようもなく好きなのだ、肩書きだけでも妻でいられるだけで幸せなのだと、優しく笑っておられた」
なんて、なんて女性だろう。……なんて、
「……僕は…私は、ミリア様の後を継ぐ。彼女をお支えする存在になる」
「ふっ…、勝手にしろ」
__________
「…お母様」
「マルコ様、私はエカエラ様ではありませんよ」
「知っています。…本当はミリア様は、父上のもう1人の妻で、それも、母上よりも先に父上と結婚されていたのでしょう?」
「…。ええ、その通りです」
「どうして秘密に?」
「伝える必要が無かったからですわ」
そう言って、もうこの話は終わりだと言うように背を向けた彼女。
「夫婦はただ1人、その相手だけを想うべきだもの。一夫一妻、それが夫婦の正しい形…なんて、矛盾しているわね」
彼女がそう呟いたのを、私は確かにこの耳で聞いた。
__________
それからは度々領地へ訪れ、領地経営のことを彼女から学んだ。
まだ子供であることを理由に、"雷が怖い"と言って彼女の腕に抱かれて眠ったこともあった。幼い頃の記憶にある母上とは全く違う、彼女のぬるい体温。
それから数年が経って、王立学校への入学を間近に控えた日のことだった。
「まだ子供だと思っていたけれど…もう安心してマルコに領地経営を任せられますね。私もそろそろお役御免かしら」
「そんなこと言わないでください。ミリア母様さえ宜しければ、私の卒業後もここに住んでほしいです…だめですか?」
「あらまあ…ふふ、考えておきますね」
年を重ねても変わらぬ柔らかな笑みで、私を見送りに外へ出た彼女は言った。互いの呼び名が変わり、昔よりずっと距離が近付いても、彼女は私と一線を引いていた。
「ミリア母様」
「何ですか?」
「私はずっと、お母様のお傍にいます」
「…ありがとう、マルコ」
この時から、何かしらの対策をしていれば。
__________
王立学校に入学すると、ほとんど領地へ行くことはできなくなり、長期休暇に数日しか滞在できなかった。
その数日の滞在時間は何にも代え難い、宝物だった。
本物の家族といる時間よりも彼女との時間を優先する私に、両親や兄は何も言わなかった。妹のパトラだけはまだ子供であることもあって不満に思っていたようだが、最終的に「ミリア様といると不思議と落ち着くから、一緒にいたくなるのも分かるわ」と納得していた。
「マルコ」
振り向くと、そこには父がいた。初めて見る、切なげな表情をして。
「父さん…?」
「…ありがとう」
表向きは両親を"父上""母上"と呼んでいるが、家の中では"父さん""母さん"と呼んでいる。元平民である母の希望だった。
「何が…ちょっと、父さん?」
何故か礼の言葉を告げ、さっさと背を向けた父を追いかけようとすると、横から現れた母が小さく言った。
「黙って受け取っておきな」
「……分かった」
__________
そして、王立学校卒業を数ヶ月後に控えたある日。それは突然の報せだった。
「ミリア母様が、亡くなった…?っはは、何言って、」
「例の流行病だそうだ。急に症状が悪化したらし、っ待てマルコ!」
「…っ離せ!離せよ兄さん!」
「特急馬車は用意している。まずは落ち着け」
「っ…」
乗り込んだ馬車には既に両親と妹が乗っていて、母と妹は不安げな顔をしていた。父は、いつもと変わらぬ仏頂面。その時、それがとてつもなく憎らしく思えた。
「何でそんなに普通の顔してるんだよ?」
「…」
「全部、父さんのせいなのに、何で…っ!!」
「マルコ」
声を荒らげた私に、腕を組んだままの父は私の名を呼んでこちらを見た。とてつもない威圧感に、息が止まる。
「っ!!!」
「いつまで子供でいるつもりだ」
子供?子供でないから悲しくないと?大人だからかつて自身が愛していた妻の死にも動揺などしないと言いたいのか?
そう思ったが、それ以上の言葉を紡ぐことは許されなかった。
長い、長い3日間だった。
馬車から降りる。見慣れた屋敷の前で私達を待っていたのは、揃って黒い服に身を包んだ使用人達だった。
挨拶もそこそこに、貴族の品など気にせず走って彼女の部屋へ向かう。後ろから聞こえた引き止める声は、聞こえなかった。
子供でも良い、ガキ臭くても良いから。
「ミリア母様…っ」
早く、彼女の顔を見たかった。
扉を開ける。
そこには、
「ミリア…かあ、さま…?」
静かに眠る、彼女がいた。
「…お母様、もう夕方ですよ、起きてください」
ふらふらとベッドに歩み寄る。いつもと同じ、穏やかな笑みを浮かべた彼女の寝顔。
組んで腹の上に置かれた手に触れる。それは氷のように冷たくて、もうあの心地よいぬるさは微塵も残っていなかった。
ようやく、頭が理解し始める。
いくら擦っても、温かさの戻らない手。いつの間にかその手が小さく感じるほど、自分は大きくなった。けれど大きくなったのは身体だけだ。
「っ嫌だ、嫌だ、起きてください…っ!嫌だ、嘘ですよね?お母様、死なないで、私はまだ卒業もしていないんですよっ!!嫌だ、嫌だ…傍にいるって言ったのに…っ!まだ返事もくださっていないじゃないですか、…ねえ、起きてください…!!」
壊れた玩具のように、嫌だ、嫌だと呟く。
3つの手が私の背を擦るが、私の身体の震えはいつまでも収まらなかった。
__________
「ミリア母様、おはようございます」
朝の日課。庭に建てた墓石に手を合わせる。
今日はお母様の命日。
彼女が死んでからもう10年が経過した。
彼女は、私の大切な人だった。初めは正義感に似た何かだった。しかし、話せば話すほど、共に過ごす時間が増えるほど、気が付けば彼女に強く惹かれていた。それは、母親という名の相手に抱くにはあまりに甘く、苦しすぎる感情。
彼女の部屋とアトリエは、今でも綺麗に残している。例え彼女の香りが消えても、彼女が存在した証を消すことなど、できるはずもなかった。
草を踏み締める音に、顔を向ける。
「…父さん」
墓前に供えるには大きい花束を、父は毎年持ってくる。
左足と義足を付けた右足の異質な足音をさせ、何も言わぬまま、私の隣に腰を降ろした。
「彼女の20の誕生日に贈ったものだ」
ぽつりと父は告げた。
「え?」
「あの時、この笑顔を守りたいと、確かにそう思っていた」
隣の父親は、何かを思い出すように宙を見る。その横顔に浮かぶ感情は何だったのだろう。それは自分には言い表せないものだった。
「…また来る。引き続き、領地を頼む」
__________
それから、私は養子を取り、彼女に教えてもらったことを伝授していった。領地経営だけでなく、注いでもらった愛情もだ。
死ぬまで運命の番に出会うこともなく、結婚をすることもなく、我が子とその家族、使用人達に囲まれて、私は自分の人生の幕を降ろした。
いつか、また貴女に会えますように。
そんな祈りを微笑みに乗せて。
私が初めて彼女と会ったのは、3歳の時のこと。
「マルコ、この方は俺に代わり我がルルリア侯爵領地の経営管理をしてくださっている、ミリア様だ。ご挨拶を」
屋敷に着くと出迎えてくれた優しそうな笑顔の女性。父に促され、家で必死に練習をしてきた言葉を紡ぐ。
「おはちゅ…おは、つ、におめにかかります、みりあしゃ、さま。りゅ…りゅ…るりあこうしゃくけがじなん、まりゅ…まることもうします」
当時は舌が足らなかったこともあり、所々噛みながらのその挨拶はさぞかし不格好だったと思うが、それでも目の前の女性は一切笑うことなどしなかった。それどころか、上品なドレスの裾が地に付くことも気にせず、私の目線に合わせてしゃがんだのだ。それは目上の貴族女性としては褒められた行為ではないのかもしれないが、それを十分に知った上で彼女はそうしたのだと今なら分かる。
「ご丁寧な挨拶をありがとうございます。初めまして、マルコ様。私はミリアと申します。これからよろしくお願い致しますね」
「はい!よろしくおねがいいたします!」
元気よく返事をすると、父がそっと頭を撫でてくれる。小さな丸いしっぽがふりふりと動いた。
すると横に立っていた2つ年上の兄、アランが静かに口を開いた。
「…ミリア様、こんにちは」
「アラン様、お久しぶりです。少し見ないうちにご立派になられましたね」
「…もっともっと、父上よりも大きく、強くなります」
「ふふ、楽しみにしておりますわ」
父に似て無口で無愛想な兄が嬉しそうに微笑む姿に非常に驚いたのを今でもよく覚えている。
__________
「リリエル侯爵様、女の子がご誕生されたとのことで。おめでとうございます」
「ありがとうございます、サラン宰相殿」
「そちらは次男のマルコ様でお間違いありませんか?」
「ええ。マルコ、サラン宰相様だ。ご挨拶を」
どことなく、ミリア様に似ている人間の男性。
しかし、その雰囲気はミリア様とは似ても似つかない冷たさだった。
「うちのが役に立っているようで。最近よく侯爵領地のお話を聞きますよ」
「私には勿体ないほど、とても才能に恵まれた女性です」
「跡継ぎのことで君の役には立てなかったことを申し訳なく思っておりましたが、この様子ならリリエル侯爵家も安泰ですね」
「……ええ。では、用事がありますので。失礼します」
「ああ、引き止めてすみませんでした。ではまた」
話の内容は当時はいまいち理解できなかったが、あまり関わり合いになりたくないと、肌で感じた。
見上げた父親の横顔もまた不機嫌そうに歪んでいたが、幼いながら、その表情はただ単にあの男性への感情だけではないように感じた。
__________
衝撃的な事実を知ったのは、男性と出会ってから1年。私が11歳、妹のパトラが生まれた報告をしに皆で領地の屋敷へ行った時のことだった。生まれた報告と言っても、彼女は既に1歳になっていたが。
「ミリア様って本当に慈愛に満ちた強いお方よね」
「そうね…私なら耐えられないもの。運命の番に出会ったとはいえ、それまでは子供はできずとも旦那様からあれほど愛されていたのに…」
「それも、初めての子供は旦那様に似ても似つかないあの忌まわしい熊男に襲われてできただなんて…。その子は流れてしまったけれど、それでもミリア様は涙なんて1粒も見せなかったのよ?」
「それに!旦那様とエカエラ様の間のお子様方にあれだけお優しくできるだなんて!何て方なの!!?私にできることがあれば何でもして差し上げたいし、一生お仕えしたいわ」
「そんなの皆同じよ」
雷を打たれたような衝撃だった。
この国で一夫多妻制が認められていることは知っていた。けれど、運命の番である両親はそれに該当しないと信じて疑わなかったし、自分は両親のように1人の相手だけと添い遂げたいと思っていた。
話の内容から、先に父と結婚していたのは彼女であることは分かった。それならば、母と結婚した父がミリア様が邪魔になってこの地へ送ったというのだろうか?
「そうではない」
「!…兄上」
使用人達が立ち去っても、考えに耽っていた私にそう声を掛けたのは、兄であるアランだった。相変わらず、父に似た仏頂面である。
「ミリア様は、ご自分から父上にこの領地の管理をさせてほしいと頼まれたんだ」
でもそれは、空気を読んだ彼女がそう言っただけで、両親が彼女をそういう立場に追いやったのは確かではないか。
「それほどまでに、運命の番の結び付きは強いの…?」
「…そういうことだ」
獣人の両親から生まれた私達は獣人だ。兄と俺は熊、まだ小さな妹は狼。
いつか、運命の番が現れるかもしれない存在。出会う確率は隕石が自分にぶつかる確率より低いものだと言うのだから、よほどのことがない限り出会わないのだが、両親は実際に出会っている。
社交界では両親は羨望の眼差しで見られている。特に獣人貴族から。運命は多くの獣人達の憧れなのだ。
「仕方のないこと、ミリア様はそう仰っていた。それでも私はダグラス様…父上がどうしようもなく好きなのだ、肩書きだけでも妻でいられるだけで幸せなのだと、優しく笑っておられた」
なんて、なんて女性だろう。……なんて、
「……僕は…私は、ミリア様の後を継ぐ。彼女をお支えする存在になる」
「ふっ…、勝手にしろ」
__________
「…お母様」
「マルコ様、私はエカエラ様ではありませんよ」
「知っています。…本当はミリア様は、父上のもう1人の妻で、それも、母上よりも先に父上と結婚されていたのでしょう?」
「…。ええ、その通りです」
「どうして秘密に?」
「伝える必要が無かったからですわ」
そう言って、もうこの話は終わりだと言うように背を向けた彼女。
「夫婦はただ1人、その相手だけを想うべきだもの。一夫一妻、それが夫婦の正しい形…なんて、矛盾しているわね」
彼女がそう呟いたのを、私は確かにこの耳で聞いた。
__________
それからは度々領地へ訪れ、領地経営のことを彼女から学んだ。
まだ子供であることを理由に、"雷が怖い"と言って彼女の腕に抱かれて眠ったこともあった。幼い頃の記憶にある母上とは全く違う、彼女のぬるい体温。
それから数年が経って、王立学校への入学を間近に控えた日のことだった。
「まだ子供だと思っていたけれど…もう安心してマルコに領地経営を任せられますね。私もそろそろお役御免かしら」
「そんなこと言わないでください。ミリア母様さえ宜しければ、私の卒業後もここに住んでほしいです…だめですか?」
「あらまあ…ふふ、考えておきますね」
年を重ねても変わらぬ柔らかな笑みで、私を見送りに外へ出た彼女は言った。互いの呼び名が変わり、昔よりずっと距離が近付いても、彼女は私と一線を引いていた。
「ミリア母様」
「何ですか?」
「私はずっと、お母様のお傍にいます」
「…ありがとう、マルコ」
この時から、何かしらの対策をしていれば。
__________
王立学校に入学すると、ほとんど領地へ行くことはできなくなり、長期休暇に数日しか滞在できなかった。
その数日の滞在時間は何にも代え難い、宝物だった。
本物の家族といる時間よりも彼女との時間を優先する私に、両親や兄は何も言わなかった。妹のパトラだけはまだ子供であることもあって不満に思っていたようだが、最終的に「ミリア様といると不思議と落ち着くから、一緒にいたくなるのも分かるわ」と納得していた。
「マルコ」
振り向くと、そこには父がいた。初めて見る、切なげな表情をして。
「父さん…?」
「…ありがとう」
表向きは両親を"父上""母上"と呼んでいるが、家の中では"父さん""母さん"と呼んでいる。元平民である母の希望だった。
「何が…ちょっと、父さん?」
何故か礼の言葉を告げ、さっさと背を向けた父を追いかけようとすると、横から現れた母が小さく言った。
「黙って受け取っておきな」
「……分かった」
__________
そして、王立学校卒業を数ヶ月後に控えたある日。それは突然の報せだった。
「ミリア母様が、亡くなった…?っはは、何言って、」
「例の流行病だそうだ。急に症状が悪化したらし、っ待てマルコ!」
「…っ離せ!離せよ兄さん!」
「特急馬車は用意している。まずは落ち着け」
「っ…」
乗り込んだ馬車には既に両親と妹が乗っていて、母と妹は不安げな顔をしていた。父は、いつもと変わらぬ仏頂面。その時、それがとてつもなく憎らしく思えた。
「何でそんなに普通の顔してるんだよ?」
「…」
「全部、父さんのせいなのに、何で…っ!!」
「マルコ」
声を荒らげた私に、腕を組んだままの父は私の名を呼んでこちらを見た。とてつもない威圧感に、息が止まる。
「っ!!!」
「いつまで子供でいるつもりだ」
子供?子供でないから悲しくないと?大人だからかつて自身が愛していた妻の死にも動揺などしないと言いたいのか?
そう思ったが、それ以上の言葉を紡ぐことは許されなかった。
長い、長い3日間だった。
馬車から降りる。見慣れた屋敷の前で私達を待っていたのは、揃って黒い服に身を包んだ使用人達だった。
挨拶もそこそこに、貴族の品など気にせず走って彼女の部屋へ向かう。後ろから聞こえた引き止める声は、聞こえなかった。
子供でも良い、ガキ臭くても良いから。
「ミリア母様…っ」
早く、彼女の顔を見たかった。
扉を開ける。
そこには、
「ミリア…かあ、さま…?」
静かに眠る、彼女がいた。
「…お母様、もう夕方ですよ、起きてください」
ふらふらとベッドに歩み寄る。いつもと同じ、穏やかな笑みを浮かべた彼女の寝顔。
組んで腹の上に置かれた手に触れる。それは氷のように冷たくて、もうあの心地よいぬるさは微塵も残っていなかった。
ようやく、頭が理解し始める。
いくら擦っても、温かさの戻らない手。いつの間にかその手が小さく感じるほど、自分は大きくなった。けれど大きくなったのは身体だけだ。
「っ嫌だ、嫌だ、起きてください…っ!嫌だ、嘘ですよね?お母様、死なないで、私はまだ卒業もしていないんですよっ!!嫌だ、嫌だ…傍にいるって言ったのに…っ!まだ返事もくださっていないじゃないですか、…ねえ、起きてください…!!」
壊れた玩具のように、嫌だ、嫌だと呟く。
3つの手が私の背を擦るが、私の身体の震えはいつまでも収まらなかった。
__________
「ミリア母様、おはようございます」
朝の日課。庭に建てた墓石に手を合わせる。
今日はお母様の命日。
彼女が死んでからもう10年が経過した。
彼女は、私の大切な人だった。初めは正義感に似た何かだった。しかし、話せば話すほど、共に過ごす時間が増えるほど、気が付けば彼女に強く惹かれていた。それは、母親という名の相手に抱くにはあまりに甘く、苦しすぎる感情。
彼女の部屋とアトリエは、今でも綺麗に残している。例え彼女の香りが消えても、彼女が存在した証を消すことなど、できるはずもなかった。
草を踏み締める音に、顔を向ける。
「…父さん」
墓前に供えるには大きい花束を、父は毎年持ってくる。
左足と義足を付けた右足の異質な足音をさせ、何も言わぬまま、私の隣に腰を降ろした。
「彼女の20の誕生日に贈ったものだ」
ぽつりと父は告げた。
「え?」
「あの時、この笑顔を守りたいと、確かにそう思っていた」
隣の父親は、何かを思い出すように宙を見る。その横顔に浮かぶ感情は何だったのだろう。それは自分には言い表せないものだった。
「…また来る。引き続き、領地を頼む」
__________
それから、私は養子を取り、彼女に教えてもらったことを伝授していった。領地経営だけでなく、注いでもらった愛情もだ。
死ぬまで運命の番に出会うこともなく、結婚をすることもなく、我が子とその家族、使用人達に囲まれて、私は自分の人生の幕を降ろした。
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そんな祈りを微笑みに乗せて。
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