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100億光年の時の彼方で
第348話
しおりを挟む弦を弾く振動が空気中に漂いながら、光の進む方向が変化する。
水滴が肌にぶつかる瞬間に、膨張する気流の変化が、光と波の狭間に硬直する。
その中心を、風が一気に駆け抜けた。
空気はまだそこにあったんだ。
口の中に侵入する酸素が血管の内部へと駆け巡り、指先がヒリヒリと熱くなる。
肥大化する気流が体を押し上げ、動いていく視界の断片を引っ張る。
ボンッという破裂音。
めくれ上がる雲粒。
反転する視界のそばで、回転する「空」があった。
雲を突き抜けて飛び出た体が、対流圏の底を突き。
穴。
落下する体の上で、雲に穴が空いていた。
それは一瞬の変化だった。
雲の下に飛び出た先で、回転する空気が、雲の底に垣間見えた。
地平線がどっと近くなる。
地球の形に沿って伸びていく、風の輪郭。
真横から差す光は、地上の曲線に沿って世界を照らしていた。
青を。
地上と空の、——境界を。
…え?
目を疑った。
地上には広大な海が広がっていた。
巨大なうねりを持ちながら、世界の“全て”を動かしている。
擦れていく地殻。
盛り上がる水面。
クジラの背骨のように、波が逆巻いていた。
——いや、水の流れは一定だった。
にも関わらずそう見えたのは、青白く浮かび上がる地平線が、ゆったりとその体表を押し広げていたからだ。
山のようにせり上がる波間が、水平方向にぶつかる影と交錯し、巨大な割れ目を作っている。
絶えず入り混じる潮の流れ。
青ペンキで雑に塗りつけたような濃い色調。
限りなく穏やかな海原が、腹這いに倒れていた。
霞んだ輪郭も、——形もなく。
目を疑ったのは、その悠然とした海面のなだらかさに、気を取られてしまったからじゃない。
視界の隅に映った斜線。
それは水面の表面を穿つように、高く聳え立っていた。
渚が白く弧を描いて、地上の底を揺らす。
空気の振動が直に伝わりながら、光の襞が空間の奥へと屈折する。
「塔」が見えたんだ。
どこまでも広がる海の中に、ポツンと背を伸ばしている白い建物が見えた。
それは地上の上で一際際立ち、まるで世界に穴を空けているようにさえ見えた。
見渡す限りの広大な水面の上で、異常なまでに凛としていた。
海と、空と、巨大な雲と。
それ以外に何も無い視界の真ん中に、細長い被写体が近づいてくる。
塔の高さは、今まで見たどんな建物よりも大きかった。
風が吹けばぽっきりと折れてしまいそうなほど、長く屹立していた。
表面には苔が生え、ずいぶんと月日が経ったもののように見えた。
頂上にはドーム型の屋根に、金色の鐘のようなものがぶら下がっていた。
落下していく速度が速いせいで、うまく焦点は合わなかった。
けど——
…なんだ、これ
どうして海の上にそんなものが建っているのか、わからなかった。
人工物にしてはあまりに大きく、それでいて古い。
周りに陸地は見えない。
どうやってこんな場所に…?
というか、なんでこんなものが…?
疑問に思っているのも束の間、あっという間にその物体の真横を通り過ぎた。
塔に近づくに連れて視界の変化は加速し、風景の一部が切り裂かれていく。
不思議と怖さはなかった。
このまま海面に打ち付けられれば、間違いなく俺は死ぬだろう。
だけどその予感は、頭の中にはなかった。
声がしたんだ。
地上へと落下するスピードのそばで、「手を伸ばして」という声が。
雲間から伸びてきたその声を頼りに、俺は振り向いた。
…千冬?
信じられなかった。
俺はよく知っている。
アイツの「声」を。
聞き間違えるはずはなかった。
その「声」が、聞こえてくるはずがなかった。
空の彼方から落ちてくる一粒の影が、遥か上空を飛ぶ鳥のように飛翔していた。
対流圏を抜けてやってきたその“手”を、俺は必死に追いかけた。
自由の利かない空中のなかで、日差しの向こうにやって来るその影を、捕まえようとした。
地面へとぶつかるまでの時間と、——距離と。
目測を誤れば、もう2度と触れられないかもしれないその一瞬を、追いかけ。
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