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トンネルの向こう
第337話
しおりを挟む『木崎亮平という少年が事故に遭ったのは、“世界”に於ける運命だった。
いや、元来運命というものは時間の波の中に生み出された一種の理に過ぎない。
重要なのは、それが“確かな出来事”であったということだ。
彼は2016年の夏、須磨浦海岸線の交差点で亡くなった。
その年の5月に、誕生日を迎えたばかりだった。
18歳だった。
雄一朗氏の娘である彼女が、過去に戻って彼を助けようとしたのは、あるいは、世界の運命に抗おうとした結果なのかもしれない。
彼女は当時の医療機関に於いて、実用的に導入されていたブレインマシン『ベッケンシュタインネット』を使い、世界の「過去」とリンクした。
彼女の脳と接続されたこの機械は、彼女にデジタル上の世界の地上を歩く術を与えた。
電子の海に満たされた世界。
『クロノネットワーク』の世界に。
クロノネットワークとは、いわば私たちの世界に於ける「確率」そのものを指し、“量子の海”に該当する。
量子力学上に於ける確率とは、ある一つの出来事に対する変化の大きさと、その領域の「尺度」を示す。
空には雲があるように、時間の変化に応じて未来に定められる運動の変化量は、常に一定ではない。
これは私たちの世界に於いて未来が常に“不確定的”であることを示し、「運命」という言葉が存在していないことを示している。
クロノネットワークに於いて、彼女は自らの脳の中に眠る「記憶」を呼び起こそうとした。
人の脳の中には“確率が収束していない事象面”が存在し、世界の「情報」をそのまま取り出すことができる量子ポケットが、未来に於いて発見されていた。
ベッケンシュタインネットとは、いわば量子化された時間と情報のネットワーク、——過去と未来の時間を繋げられるゲートだった。
世界には自由に編集することができる量子状態の流域場が存在し、それが人の脳を通じて電気的に接続可能であることが、研究により明らかになっていたのだ。
例えば、そう、キャンバスに描かれた絵を、自由に描き直すことができるように。
『ベッケンシュタインネット』は、人の脳とコンピュータとを繋ぐ画期的なアイデアと技術が詰め込まれていた。
未来に於いて、人々はこのネットワークを通じ、“自らの脳の中に保存された量子情報を自由に編集することができる”ようになっていた。
この場合に於ける「編集」とは、量子状態の重ね合わせの中に際する非定常場の領域を指す。
並行世界と呼ばれるこの電子の雲の中に自由に出入りし、「過去」と通信することができた。
過去、——つまり脳の中に対流している、波動関数の流域場と。
電子の雲に満たされたこの観測域を、人々は「空」と名付けた。
私たちはこの「空」を通じて、時間と空間のつながりの中を旅することができた。
「時間」という概念そのものを、壊すことで。
我々は当初、『クロノネットワーク』を見出したことに対する事の重大さを、正確に精査することができていなかった。
我々の「夢」は、キャンバスに絵を描くこと、——すなわち情報を時間の中に定常化することであったが、クロノネットワークが開拓されたことによる世界への影響は、想像以上に計り知れないものであった。
雄一郎氏は元々脳科学部門の知見者だった。
彼が目指そうとしていたのは人間の中に保存されている記憶や意識を確かな「情報」として保存する事であり、生と死の境界に依存する情報とエネルギーの実線を、“時間の中に閉じ込める”ことだった。
『ベッケンシュタインネット』が開発された当初の目的としては、人間がその肉体を捨て、新しい地上の上で歩くことができないか?という模索の上に生み出された思想によるものだった。
この場合で言う「地上」とは、人間の意識が肉体的な寿命に左右されず、時間の間隔と物質的な質量の制限を受けることのない「場」を指す。
全ての始まりは、1人の女性を救おうとしたことがきっかけだった。
当時の医学では救いようのなかった、雄一朗氏の友人を。』
——年代、不明
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