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夏の花火
第302話
しおりを挟む「例えばあんたの通っとる学校が、元々この世界に存在していなかったとしたら?」
街の景色を見ながら、女は言う。
展望台なんて滅多に来ないが、ここからの景色は絶景だ。
たくさんの光が、街の中心で動いている。
港の向こうでは、ノエビアスタジアムの明かりがついていた。
今日なんかあんのかな?
川沿いにある、ゴルフ練習場の緑のネット。
赤く点滅する遮断機の信号。
イトーヨーカドーの看板。
海の向こうには、大阪が見えた。
海を囲むように、カラフルな街明かりが広がっていた。
星屑を上からまぶしたみたいに、手で掬えるほどの無数の粒が横たわっていた。
色と色の隙間もないほど、たくさん。
「存在しとらんって、…そりゃ、大変やな」
「あんたが通っとる歯医者も、好きなラーメン屋も、駅前のサーフボードのお店も」
「…それ、真面目な話?」
「うん」
存在してなかったら…?
それって、そのままの意味か?
どこにも無い…ってことだよな?
ようするに
「歯医者はまあどうでもええけど、『もっこす』が無くなるのは悲しいわ。醤油はあそこが一番美味いから」
「“無くなる”んやなくて、最初から無いんや」
「最初から…?」
「地図上にも、過去にあったという形跡も、——名前ですら、最初から」
名前ですら?
えっーと、つまり…
「存在」を消されるってこと?
そんな神隠しみたいな…
「ジャンアント•インパクトっていうのは、たんに隕石が落ちた日やないんや」
「他にもなんかあったん?」
「他にも…っていうか、そもそも、隕石がこの世界に落ちることはなかった。元々は存在しとった。『隕石が落ちない日』が」
隕石が落ちない日。
女は言った。
隕石が落ちてきたのは、イレギュラーな出来事だったと。
何がどうイレギュラーなのかはわからなかったけど、少なくとも、そんな「未来」はどこにも無かったみたいだった。
「せやけど、“運命”やったんやろ?」
「まあな」
「…あかん。全然整理できん」
「運命やったが、それはあくまで、私たちが招いたことに過ぎん。世界には「未来」があった。確かな時間と、“明日”が」
「結局、隕石は落ちるんか落ちんのんか」
「落ちる」
「ほんなら、その「落ちない日」ってのは?」
女はポケットから100円玉を取り出して、それを渡してきた。
手を広げろって言うから、広げて見せたら。
「あんたとキーちゃんは、よく勝負しとった」
「…聞いたけど」
「負けたら100円。勝負のあと、あんたはいつもゴネとったっけ」
「ゴネる?」
「あれはヒットやろ!とか、これはボール球やろ!とか」
「…ふーん」
「コインは表か裏かしか出ん。泣いても笑っても、2つに1つや。勝負をやり直すことができないのは、あんたにもわかるやろ?」
「…まあ」
「“夏”は一回しか来ん。せやから、キーちゃんは甲子園に行きたかった」
千冬がなんで甲子園に行きたいのかを、深く尋ねたことはない。
「甲子園」は、ただの目標。
俺はそう感じてた。
その先にある景色が、本当の「夢」なんだと思ってた。
——ずっと。
「キーちゃんがあんたに会いに行こうとしたのは、間に合う「時間」がまだあることを、信じてたから。“変わらないもの”を追いかけてた。「形」があるものを信じてた。「今日」を失いたくなかったんや。明日が来る前の、——「今」を」
間に合う時間。
変わらないもの。
千冬が目指してたのは、「160キロのストレート」だ。
もちろん、それは単なるイメージでしかない。
本人はそんなつもりじゃなかったかもしれないが、所詮はただの「言葉」だ。
投げられるかどうかは問題じゃないんだ。
…ただ、なんつーか…
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