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丘の坂道
第272話
しおりを挟む千冬に会いに行かなきゃいけない。
なんだか、無性にそう思えた。
外はどんどん暗くなっていってる。
窓の外で通り過ぎる景色は、自分が今どこにいるのかを忘れさせてしまうくらい、穏やかだった。
交差点に俺たちはいた。
街の、いちばん騒がしい場所に。
信号が青になった。
だから、足を動かしたんだ。
置いてかれないように。
彼女に、——追いつけるように。
「千冬は…?」
「ここにはおらん」
「おらん…って、ほんならどこに?」
「いつもの場所や」
いつもの…場所?
何言ってんだ?
目の前にいたんだ。
手に触れられるくらい、近くに。
ガタンゴトン
ガタンゴトン…
駅に停まった電車が、また、動き始めた。
機体がゆっくりと傾きながら、西宮方面へと走り出す。
線路が緩やかな曲線を描いている。
坂を登るように少しずつスピードを上げ、遠ざかっていく神戸の街。
朝練があるって、アイツは言った。
洗濯物を干してる横で、三十郎のお腹を撫でながら。
丘の坂道を一緒に下りながら、ハンドルを握ったんだ。
これからどこに行くのかも、わからないまま。
西宮の街並みが見えてきて、なぜか、彼女の気配を遠く感じた。
さっきまで近くにいた後ろ姿や、気だるそうな横顔。
柑橘系の甘い香りと、風に乱れたスカート。
シャリシャリと音の鳴る錆びついた車輪が、カーブミラーのそばを横切り、田んぼの畦道の草むらをかき分けていた。
ひび割れたアスファルト。
山間に立つ鉄塔。
でこぼこの道。
眩しい朝と、日差し。
その下で、アイツは笑ってた。
…確かに、笑ってた。
他愛ない会話のそばで、時々、立ち漕ぎしながら。
…なんで思い出せない?
…なんで、アイツの顔が霞むんだ?
それだけじゃない。
「記憶」はすぐそばにあった。
どうして自分が電車に乗っているのか。
どうして、女が目の前にいるのか。
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