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あの夏
第238話
しおりを挟む蝉が鳴き始めたばかりの、初夏の季節。
あの時の海の色と、街の匂いを、いまだに鮮明に覚えてる。
防波堤の手すりの前まで歩き、須磨海岸の海原を見る。
潮の流れが大河のようにのんびり移動している。
日はすっかり暮れて、鮮やかな海の色はもう見えない。
見えるのは明石海峡大橋の遠い明かりと、ハーバーランドのイルミネーション。
海の上を漂う遊覧船の光が、ポツポツと暗闇の淵に浮かんでいた。
この場所、この海岸線の麓で、一緒にキャッチボールをした。
渡されたキャッチャーミットを手にはめ、振りかぶる彼女の挙動を、慌てながら追いかけた。
最初はどうしていいかわからなかった。
グローブのはめ方もわからないし、向かってくるボールの距離感もわからない。
それなのに彼女は容赦なくて、困ったんだ。
わけもわからず、ミットを構えることしかできなくて。
どれだけ世界が変わっても、この場所、——この思い出の海岸だけは、何も変わらないように思えた。
ハッキリした理由なんてない。
この場所に来たことも、自然と足が向いたことも。
だけどどうしもなく不安になって、いてもたってもいられなかったんだ。
俺の望んだものが、すぐ目の前にある。
千冬がそばにいる。
そのことが、本当に“現実”なのかどうか。
さっき、神戸高まで戻ったんだ。
遠まきから、グラウンドを見てた。
照明塔の明かりの下で、野球部の人たちはノックを受けてた。
千冬はブルペンにいた。
多分3年?の先輩と、投球練習をしてるところだった。
まじで高校でも野球をしてるんだな…
実際にこの目で見るまでは、信じられなかった。
野球を続けてることに違和感を覚えたわけじゃなくて、…ただ
子供の頃の幻想だと思ってた。
甲子園も、160キロのストレートも。
俺はそれを現実にしたくて、中学に入ってから本気で野球に取り組んだ。
それまでは、ただ、千冬の練習相手になれればいいと思ってた。
それ以上のことは何も望んでなかった。
だって、捕るので精一杯だったし。
アイツが目を覚ますとしたら、それはどんな「世界」だろう?
どうすれば目を覚ますのか。
どうしたら、もう一度会えるのか。
——そればかりをずっと、考え続けてきた。
でも結局、俺にできることなんて何もないとわかり始めた。
たとえ甲子園に行こうが、彼女の代わりに160キロの球を投げようが、結局のところ、何も変えられない。
日に日に憔悴していく彼女の顔を、俺は見続けられなくなった。
諦めるしかないと思った。
それでも会いに行かなくちゃいけないという想いもあった。
次第に何も考えることができなくなって、病院から足が遠ざかって…
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