上 下
230 / 297
深淵からの使者

第227話

しおりを挟む

 引いた弦を離せない。

 指に力が入る。

 息を止めたままの挙動は、止めどない緊張の中に切迫する感情の渦を運んでいた。

 真琴は極限まで躊躇っていた。

 体内に溜め込んだテンション数は、3。

 球体を破壊するまではいかなくても、球体表面を穿てるほどのエネルギーは、すでに弓の内側へと繋ぎ合わせていた。

 あとは放つかどうかの一線。


 ——しかし


 真琴の視点は定まらなかった。

 球体は上空で静止している。

 そして数十メートル程度の距離だ。

 今指を離せば、ほとんどの確率で球体を射抜くことができるだろう。

 ただ、判断が追いついてこなかった。

 目の前にあるものが、どんな「魔法」であるのかも見当がつかない。

 そもそも魔法という形式でない可能性もあった。

 張り巡らせる思考。

 加速する動悸。

 時間にしてわずか数秒程度の間隔。

 先に「攻撃」を仕掛けたのは、キョウカだった。


 “白蓮“


 霧雨に投じるための「矢」を、一本の矢に凝集させる。

 霧雨と違い、射出後の矢の軌道修正はできない。

 直線上に放つ溜めの大きい技。

 その分、貫通力が増大し、矢の威力は霧雨とは比較にならないほどの大きさを持っていた。

 空に浮かぶ物体がなんであれ、様子を見るのは危険だと判断したキョウカは、五月雨江の柄を握りしめる。

 地上から放つ分、真琴よりも球体までの距離が開いていた。

 着弾地点が遠ければ遠いほど威力は落ちるが、チサトの風域圏にある今、矢の貫通力や速度をほとんど落とさずに持続させることができる。

 即断即決。

 勢いよく飛び出した『白蓮』の鋭い鋒は、行動に転じるための迷いのなさを、確かな意識と選択の中に押し固めていた。

 凍てついた氷の鏃が素早く飛翔したのは、矢を放つための一歩が、勢いよく地面を蹴り上げたからだった。

 彼女の右足は、石畳の隙間から生えた草を無造作に押し退けていた。

 ザリッと、足元の土が擦れる。

 その一歩に翳りはない。

 むしろ、積極的でもあった。

 弓を引くまでの動作は滑らかだった。

 「撃たない」という選択肢はない。

 ——そう、その感情の矛先にあったのは、キョウカならではの戦法と、戦術だ。


 が、真琴と同様、「攻撃」への選択に難色を示していたのは、ディスチャージの領域内に立つ夜月だった。

しおりを挟む

処理中です...