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2001年9月11日、ワールドトレードセンタービル 9:40

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…………プルルルルル。

 
  微動だにしなかった一つの音が、予測もなくこちらを睨んでいる。


  正確に言えば、それは肉のカタマリのように丸く縮こまったり、かたや強い弾力を残して、ゆっくりとその輪郭を曲げていく。


 連続的に変形するその音は、世界の巨大な放物線をだらりと垂らして、列挙に押し寄せる波である。


 私はその形に沿って、耳の奥に張り付く小さな膜を広げ、次第に皮フから皮フへと伝わっていく骨の痛みを、懸命に拭い去ろうとした。


 引いては押し、引いては押し、その隅々まで広がる全身の血液の中を、泳ぎ。



………………プルルルル 



 まただ。


 また、聞こえる。


 耳に届いているこの一つの音は、いっ時の猶予もなく一面に広がって、次第に膨らんでいく”膿“だった。


 私の手や、足の方々に連なる幾重もの皮フを引き伸ばしながら、やっと一息の中に首を伸ばして、 


 なんだろう……


  と辺りを見渡してみても、なにもない。


 しんと静まり返った暗闇が、どことなく無造作に広がるというよりは、光に当てられた視界の奥がチカチカと粒子を飛ばして、一直線に時間が進む。

 波と波が混ざり合うその一瞬間のうねりを持ち上げているただ一つの光景が、——ただ、予備動作もなく。



  真っ逆さまに落下して、意識を失う。


 まさしくそういった瞬間の、意識と意識の境界線上にある平らな地面を滑らかに進み、——かと思えば、次第に薄れていく全ての光景の泡のような細やかな放物線が、まだらに、点々と、まぶたの下に張り付いているような感覚だった。


 いま、果たして自分が目を開けているのか、それともじっとその場にすわりこんで、暗闇の中を探っているのかのはっきりとした感覚が、いまだかつてないほどに鮮明に訪れているとしても、私は一向に、私の姿、あるいはその全身の輪郭をたどって、どこか、確かな、しかしそれでいてどこまでも広い、森閑とした空間の隅へと、真っ逆さまに落ちていく感覚だけが、いそいそと四つん這いになりながら這っていた。


 耳鳴り。


 それに近いものが、ギョロリと視界を遮っていた。

 一分の隙間もないほどに、幾重もの曲線が埋め尽くされていた。

 静かに回転し始める滑らかさを、——伴って。



 恐る恐る、こちらに近づいてくる。


 音が鳴っている…… 


 それだけは確かに、この耳の奥にはっきりと感じていた。

 けれども、それが私の鼓膜の外に出ようとしているのか、それともその内側へ消えていこうとしているのか、十二分には聞き取れなかった。


 意識はある…… 


 その垂直に伸びた確信にも近い自らへの信頼が、どう猛な眉間を開きながら、しわを寄せ、虫のうめきのように蠢いていた。



 …だが、どうやら、その蠢きと、私の体の手や足のつながりは、何者かに切断されたかのような荒い傷口を皮膚の奥に深めながら、ダラダラとはがれ落ちていく肉そのものであり、その細胞の一つ一つは、体のあちこちに契れてばらつきながら、激しい痛みと違和感を誘発させていた。


  形がない、と言えば、それは確かに形がないものなのかもしれない。

 意識がない、と言えば、それはすぐにでも透けてしまうだろう。

 粛々と消え去りそうなフラッシュとノイズを撒き散らしながら、次第に大きく膨らんでいく「陰」が、そばにあった。



………………prrrrrr



 ああ……まただ、また……



  いよいよこれが意識の中で繰り返し流れる音となって、伸びやかに入り乱れる。


 ……どうしたものか 


 私はただその音を拾うでもなく、また、正確に捉えようとするでもなく、耳の奥に引き残る余韻だけを頼りに、その音の正体と存在を確かめようと努力した。 


 音は、さまざまに反響し、耳の外のあちこちに飛び回り、そうしてフッと密やかな残像とかげろうを残して、じたばたしていた。


 しかしそれが近いところにあるのか、遠いところにあるのか、めっきり見当はつかないまま、時間だけは過ぎ、そうしているうちにも音は一段と大きくなって……耳鳴りをもよおし…… 



 思わず耳を押さえる。


 押さえるというよりは、ただじっとその場にしゃがみ込んで、必要以上には動かないという強い決断力が、ひとしきり感情の中で大きくなっていた。

 なによりも驚いたのは、頭の中で今なにが起こっているのかを整理する能力と、その場に引きつけられるように同時に伝わる強迫感が、横へ縦へ乱れていき、精神的な状態そのものへのアクセスを、ほとんど無造作に、ピストルのごとく弾きだしたことである。 

 それはとてつもなく鋭利な形状を保ったまま、複合的に乱れ動いた。

 かと思えば、瞬く間に臓器を掻きむしられ、身体中に泡立つようにできる血の血栓が、筋肉の緊張をそこら中に促していた。

 もはや、それはマヒに近いものであり、指先にかろうじて残る感覚だけを便りに、そっと耳の中を指で調べ始める自分が、いた。

 その行動は、ほとんど無意識の状態の中に現れ、その予感さえなかった。

 自分がなぜ耳の中を調べているのかの理由も、意識の中に組み合わせられる整合的な透明さと、その解決に向けた確かな情報も、なにも。




 …………………プルルルルルルル……………r 




 その音は、私と私の界隈の全てをむしりだし、痛みだけが後に残る。

 身体のどこからか、その痛みが持続的に泳いでいるのを、じっとこらえて探してみる。

 けれども、私とその音とのつながりを明確にするものはなにもなかった。

 音は分裂し、伸縮し、自由に空気中を散漫しながら、踊る。

 一音も乱さずにそのハーモニーが、序列を変え、だんだんと多方向に澱んでいくなにかを、捕ラエテイル




かゆい、かゆいかゆいかゆいかゆかゆ 




 耳の奥がほんのり熱い。


 生暖かい人肌に触れているわけでもなく、かといってその隣にあるものが、全くの無機質につながっている、わけでもなく。

 なにものかに触れているというその微妙な感覚は、私のヒフと粘膜をゆるやかにしたたりながら、意識の真ん中にカーブして、止まる。 

 周りの時間が、急激にブレーキし、止まっている感覚に陥る。

 それはもう本当に真っ逆さまに落下する、乾いた砂時計の砂の粒子のようで、もはやそのスピードは、この世界の随所の空間を、隙間もなくねじ曲げながら進んでいった。



 心臓


 どうだろう……


 私の心臓は動いているか?



  とっさの判断で、やみくもに身体を触ってみた。

 そうして矢継ぎはやに指の感覚を確かめ、自分の意識と、その一直線上にある無意識に近い感情の切れ端を、なめ回すように必死に咀嚼した。

 身体中の全神経の感覚が、頭の中に感じる巨大な波と、真っ赤に染まる光の交差との粒の重ね合わせとを、光の中ににじませていく。

 これは意識の没入ではない。

 それよりももっと近くに、肉のカタマリを感じる。

 びっしりと体の中に敷き詰まった筋肉の厚みが、前方に押し出されるように身を乗り出して、その外側に暗い影を落としている。

 手を差し出せば、その体液にまみれたみずみずしい滑らかさが、得体の知れないヌメリとなって、指の先をはね返す。


  ずーんと、にぶい音を押し出して近づいてくるのは、身体中に積み重なる一つ一つの細胞の切れ端か?

 それとも……


 私の前方——それが果たしてどの程度の距離を持っているのかは定かではないが——、私の目の前に押し寄せてくる弾力の深いヒフの厚みが、縮んだり伸びたりしながら、画面いっぱいに広がり、少しずつその巨大な影を大きくして、止まる。

 にじみ出る肉の滑らかな表面の湾曲が、方々へ散らばる立体な奥行きと範囲を伸ばしつつ、膨らんで膨らんで肥大する。

 その一つ一つのしなやかな曲線は、視界の前方へ遮るように立ちはだかり、徐々にその距離を詰めていく。


  ひき裂けるような、ゴムが弾ケルヨウナ急激な物体の伸縮音が頭上に立ち上ったかと思えば、それは急に真っ逆さまに落下して、パチン、と目の前で弾ける。

 あちこちで筋肉がこすれ、細胞が分裂し、捩れる———音。


 いいや、それはもっと、身近に、それでいて途切れのなく続いている大きな音だ。 



 世界が頭上から降ってくる音だ!




 まるで流れ星のようにわずかな輪郭線を残して、ダダダダダダという猛烈な振動を押し出しながら、ブチ、ブチ、と一つ一つの筋繊維がみだらに離れていく痛みがある。

 ハンマーで強く叩かれたときの、くっきりとした痛みそのものが、ヒフの中に永久に残るような、持続的で立体的な痛みではない。

 それはもっと細かく、それでいて平らなリズムの音符を飛ばして、一瞬間のうちに消える金属音の破調である。



 一匹のハエが、その連続した雨粒のような粒子の弾丸を飛ばして羽根を広げるのを、1秒の間に感じる。

 筋肉の摂動。

 ヴゥゥゥゥゥゥゥゥンという重低音。

 波。

 



 まばたきをする。

 視界が一瞬暗くなる。

 しかしほんとうにそれだけか? 

 私の意識、———その神経の先の断片的な一ページは、私と私の界わいの全ての距離と物体を、近づける位置そのものなのか?……




 私たちの誰もが、いつ、その胸の中に押し込めている心臓を動かしたのかを、知ることはできない。

 もっと言えば、その心臓の裏側にある筋肉のつながりは、その一瞬間の爆発音とともに、心臓の中心へと流れ出る血液の受け渡しを断ることができない。

 そしてそれだけに、私は私の意識の暗闇を、咽から無理矢理引っ張り出すことはできなかった。



 動く。



 全神経を集中させて、その場、その瞬間に於いての筋肉の蠢きをとどめることなく、上へ下へ動く。

 その度に痛みが走るが、それよりももっと窮屈な触覚を随所に感じて、それがやっとひと息の間に身体中へ伝わろうとしているのを、むざむざ止めることはできなかった。



  耳の奥が熱い。

 至るところに痒みを感じる。

 その伝達網は電気のように直線的に下りながら、1秒の間に何度も、何度も……意識の界隈へと立ち上りつつ、ワーッと一点に集まる均等さでもって、頭の奥まで突き刺さる。

  その度に、私は、私の意識の片隅にあるただ一つの感覚を頼りにしつつ、自らの時間が進んでいるか、止まっているかの不透明な環境の奥行きを、じっと見つめようとしていた。



  自分が信頼できる感覚など、今のこの状況で、探し当てる見当もつかなかった。

 しかしそれでも、私の全身、私の全神経の緊張を一点に集中させて、そのなかにある身近な感情の切れ端が、私の身体の中へと滑り落ちていく滑らかさを通じて、わずかながらでも、この身の回りに次々と降りそそぐ不透明なツギハギのアルゴリズムを、できるだけ正確に解明しようと思った。





ザーーーーーー………ザザザザザ





 耳の外から雑然と滑り出したモノクロのノイズは、足下にまで及んで、ゴムのよう縮こまったり、散在するガラクタのようにあちこちに乱れては、消える。

 かと思えば一直線に時間を縮めて、朦朧とする意識の中にかろうじて残っている部分的な感覚をたどって、まるでジェットコースターのようにすれ違うレール脇の景色と憧憬が、視界をゆがめつづけている。





ザ、ザ、ザ、ザ、ザ、ザ……………





 ……はっきりとは聞き取れないが、意識の前方からかすれかすれに蠢いている音の行方を、ピントを合わせながら近づける。


  音は、落下する私の身体のすき間を通って、猛スピードで突き抜ける。


  それが意識の片隅にポツポツと浮かび上がる不透明な色彩と模様の激しい移り変わりであることを予感しつつ、足の裏から迫ってくる血液の循環の滑らかさを、ほとんど同時に巡らせる。
 
 指の先、それからその隅々にまで伸びていく一本の神経の行方を、力いっぱいに追いかけようと。





ジジジシジジジ………ジーーー





 耳の後方にまでアッという間に飛び去っていく一つ一つの雑音たちは、まるで息を合わせるかのように一定のリズムを保ちつつ、それでも加速的に、私の横を貫いていく弾丸そのものだった。

 ヒフの上から、次第にあかあかと点滅する一本の筋繊維の緊張を感じて、それが伸びるだけ伸びきったあとに、突然フッと感覚が抜け落ちていく意識の先の冷たさが、横倒しになって近づいてくる。





………………ポツ、ポツ





 身体のどこからか、空気が抜けていくような力のない挙動にむしばまれて、それが一見内側から沸き上がる予測不能のかゆみに連れられ、ワッと声を上げそうになる自分がいる。



 指………指の先…………そのてっぺんに束ねられた一本の神経………



 おそるおそる自らの身体の全体を探るように、その神経の行く先をぐるりと見つめようと努力した。

 私にもし指があるとしたら、そう、この手や足の先に1本の指があるとしたら、今すぐにでも胸のうちを掻きむしって、身体の内側に埋め込まれた幾重もの細胞の集合体を、一思いにバラバラにしてやりたい。

 私の心臓を握りしめてやりたい。



 本能的な叫びの中にあるやるせない数々の感情の渦が、手には負えない遠い空間の先までヒューッと飛んでいくリズムでもって、回転していく。

 私はそれを見上げているのか、それともその場に座って、その猛烈な回転の渦の中に、知らず知らずのうちに巻き込まれているのかの判別はできないが、さっきから、やはりなにかこの意識の真ん中に存在している、奇妙な感触のバイオリズムが、脳のてっぺんまでかけ上り、土足でジタバタしている様子だけを、いそいそと感じ取ることができる。



 四方に見渡せるどんよりした空気が頭ごなしに右へ左へ通過しながら、自分が生きているか死んでいるかのはっきりした一つの情報も得られない。





心臓は動いているか?



 とっさの判断でゆれ動いたかすかな感情のほこさきが、ポツポツと身体の内側からやって来るのを、なりふり構わず掴もうとした。

 自分の指が、手が、どっちの方向を向いているのかの判別よりも、頭の中の図太いネジが、一本、また一本と緩み始めた。

 それに応じて、一瞬の間だけ、フラッシュをたかれた時のような激しい眩しさが近づいてくるのを、無意識の間にも避けることができなかった。

 そうしてまたかゆみが、頭の中に感じる巨大な波が、音のない静寂に包まれたスクリーンのなかで、形容し難いノイズを帯びて肥大する。



………………………ポツ…ポツポツポツポツポツポツポツ





 見ると、ヒフの上には真っ赤なシミと腫れが、交互にかぶさるように覆われていて、とくに痛みも感じないのに、それが自分の身体の中から、ふつふつと這い上がってきた細胞の切れ端であることを、反射的にではあるが、予感した。



———しかしこれは、……


 このヒフは、この真っ赤に広がった一つ一つの細胞たちは、腕か!足か、それとも私の首すじに埋め尽くされる大動脈の切断部分であるかさえ、見当もつかない。

 見れば、私の視界のすぐそばには、夜空の星のように散らばる幾重もの音や光たちが、一斉にこっちに向かってモゾモゾと揺れているのに、短い景色の断片か、あるいはそれ以上に近い空間の距離と距離との輪郭線に位置しているものなのかの明確な解像度も得られないまま、執拗に切り刻まれていく世界の拙い湾曲を感じて、フェードアウトする巨大な影がある。





………………………プルルルルルルル





 ……ああ、そうだ。この音。

 この胸の中に掻きむしる変量なノイズ。

 この不確かな音の乱れが、さっきから私と私の意識の切れ端に連動して、不快な耳鳴り———、その不安定な感覚の咀嚼を催しているのだ。



 一体なんなんだ、この音は……………



 それがいつ始まったものかどうかよりも、私は何よりも身近に、この音の存在の行方を気にかけて、それでいてはっきりとしない意識の連続の中で、ただひとつの方向を見据えようとしている時間があった。

 この音のもっともはっきりとした姿と形を捉えることを、なによりも優先することはできないにしても、自らの全身を使って、がむしゃらにそこへ向かうこと、そのまっ平らな地平の壁にぶつかることを、心の底から欲していた。



 そうしてフッと意識を失う瞬間に、身体の中でもっとも確かな記憶の連鎖が、勢い良く流れ始めた。

 巨大な金属のカタマリと影の下で、爆発し、漂流し、破裂する。

 形のない次元の狭間と、濁流の波の波長とを、そっと耳を澄ませて聞きながら、一つの音符を、世界と共有し合った。







 世界が近づく足音が聞こえる。



 それはビルか、

 人か、

 飛行機か、

 あそこを、ああして流れていく雲の「白さ」かは、わからない。



 だけれどもただはっきりとしてわかるのは、空がまだ薄明るい青色を残して、静かに横たわりながらどこかに行こうとしているということであった。

 チョウの幼虫が、ちょうど土の中から出てきたときのように。




 サナギは、サナギのままではいられないのだ。




 チョウは木に上り、羽化をする準備を始めている。




 その先でサナギの殻を破り、成虫の体が生まれてくるときの僅かな刹那の瞬間の、時間の訪れは、まだ誰にも見つかっていない。








 「プルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル………………………………………………………………………………………………………………………………」





…………………………………………………





………………………



…………




…………………………………………

………………………………………………

…………………………………………………………



…………………………………………………………………………





…………………………………………………………………………………………………………………………………………………













「………………………ピーーーーーーーーーーーーーーー









ピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッピッ…………………………







………………………ピーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー……………………



………………ィィィィィィィィィィィィィィィィィ………………ィィィィィィィィィィィィィィィィィ









ジジ……………ジジ……………………………………………











…………………………………………………ガチャン」















「……………とてもひどいことになっているんだ」






私は言った。










「わかってるわ」










彼女は答えた。










「国にとっても大きな損失よね。まるで第三次世界大戦みたい」









私の声の調子に気付いて、彼女ははっとした。











「……………………あなた、大丈夫なの?」










 張りつめた声で彼女は尋ねた。










「92階にいる。部屋から外に出られないんだ」










「誰と一緒?」











 一緒にいたのは古くからの友人、ジョー・ホランド、ブレンダン・ドーラン、エルキン・ユーエンの3人だった。











「愛しているよ」










 私は言った。娘のことを言った。










「ケイトリンを頼む」












 そんな別れの言葉を言うつもりはなかった。





 ……ただ











「落ち着いてちょうだい、あなた」














 彼女は必死で言った。













「あなたたち、すごくタフな人たちじゃない。頭もいい。あなたたちなら、きっとなんとかできるわ」













 彼女の言うとおりだった。



私たち4人はニューヨーク育ちで、高校を出るとそのままウォールストリートに飛び込んだ仲間だった。







そしていい大学を出ましたという看板ではなく、度胸と頭で金を稼いできたのだ。








しかし恐怖と煙に耐えて100分近く上層階で籠城していた私たちのそばで、炎が迫りつつあった。








今や炎は94階から、93階、92階へと広がってきていて、上の階からは逃げ場を失った人々が次々とビルから飛び降りていた。












 もう切らなければ、そう思い電話を切ったが、10分後には、またかけてきた。


 私は逃げ遅れた人を探すために戻ると本社に電話し、その足で何とか部屋を飛び出したあと、妻に最後の電話をかけたのだ。











「どうか泣かないで欲しい」











 私は言った。











「ぼくは仲間を助けなければならない」











 泣きじゃくる彼女に、伝えたいことがあった。












「もし、ぼくの身に何か起こったら、君がぼくの人生のすべてだったということを覚えていてほしい」
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