シンジケート -第零番地区-

平木明日香

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プロローグ

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 初めて着る黒いスーツは、兄貴が高校生の時に着ていたものだった。

 黒いネクタイと、ピカピカの革靴。

 サイズがうまく合わなくて、袖がぶかぶかだった。

 腫れぼったいジャケットの肩幅に、ウエストの合わないズボン。

 「お通夜には何時に行くの?」

 透からだった。

 中学時代のクラスメイトで、昔からの地元仲間だ。

 このあと、一緒に会場に行くことになっていた。


 「暗くなってるから、気をつけて行くんだよ」


 玄関前で靴を履き替えている僕に、母さんは言った。

 時刻は18時を過ぎていた。

 夏休みに入り、もうすぐ8月も終わろうとしている頃。

 蝉の鳴き声はもうどこかに消えて、涼しい風が、山の裾から水を流したように溢れてきていた。

 遠くに聞こえる踏切の音や、ループ橋の小さな明かり。

 「備中松山踊り」と書かれた、赤い提灯。



 そうか。

 もう、こんな時期か。


 僕は去年、幼馴染と一緒に花火を見に行った。

 高梁川の河川敷で上がった、地元の花火大会。

 たくさんの屋台と、たくさんの人たちと。

 着物を着た、嘘みたいに大人びた彼女の姿を、昨日のことのように覚えていた。

 3年ぶりだった。

 自分の夢を追いかけ、県外の中学に入学していた彼女と、再会したのは。



 僕は、誰かのことを「好き」だって思うことは、あまりなかった。

 よくわからなかったって言った方がいいのかもしれない。

 好きな子とかいないの?って聞かれても、いつもうまく答えられなかった。

 周りのモテる男子とかは、いつのまにか彼女ができたりしてさ?

 そういうもんなのかなって、不思議に思うくらいだった。

 そりゃもちろん、気になる女子がいたりはしたけどさ?
 

 「好き」ってなんなのか、——そのことをふと、考えてしまうことがある、

 そういう時はいつも、幼馴染の姿が、頭の中に浮かんだ。

 なぜかはわからなかった。

 僕たちは兄妹も同然だった。

 家も近かったし、何をするにも一緒だった。

 嫌だったそろばん教室も、——夏休みの宿題も。


 “彼女”は、時々僕にメールをくれた。

 学校生活は順調ですか?って、絵文字付きで。

 聞きたいのはこっちの方なのに、自分のことは全然話してくれなくて。

 子供の頃、よく道場に連れて行かされてた。

 高梁市の外れにある古い道場で、かつて“最強の柔道家”と言われた秋山道残が、初代当主として開いた場所。

 断ったんだ。

 最初は。

 柔道になんて興味はなかったし、動くのもあまり好きじゃなかった。

 道場にはたくさんの門下生がいて、外に響くくらいの大きな声で、日がな一日汗を流してたっけ。

 正直怖かった。

 道場の先生は強面で、時々大声を出してたりもしてた。

 だから、何度も「行きたくない」って言ったんだ。

 それなのに、聞く耳を持ってくれなくてさ?


 いつかオリンピックに出て、金メダルを取りたい。

 彼女の夢は、世界で一番強い柔道家になることだった。

 いつも聞かされてた。

 初めて見た、柔道の試合のこと。

 憧れだった大山詩織選手が、地元の道場に訪問した時のこと。


 “彼女のようになりたい”

 “もっと強くなりたい”


 そればかりが口癖だった。

 女の子らしい一面なんて、これっぽっちもなかった。

 「ヒーロー」だった。

 ヒロインかヒーローかって言われたら、きっと。



 中学生活は順調なのかな?

 いつも、気になってた。

 学校が終わっても、強くなるために練習してるのかな?

 夢を追いかけてるのかな?

 彼女のことだから、きっとどんなことでも乗り越えてるんだろうな、って思ってた。

 そんじょそこらの障害物なんてヒョイッと飛んで、何食わぬ顔で、ニカッと笑いながら。


 
 七海。

 キミが死んだなんて、そんな嘘みたいな話が、テレビの向こうで流れている。

 キミは僕に言った。

 困ったことがあったら、すぐに連絡してきて。

 遠くにいても、すぐに駆けつける。

 まるで自分が、なんでもできるスーパーマンみたいに語ってた。

 怖いものなんて何もなくて、どんな強敵にも、立ち向かおうとしてて。


 僕はキミを頼るつもりはなかった。

 キミの背中に、隠れるつもりはなかった。

 キミのように強くなりたかった。

 キミのように、前を向いていたかった。


 去年の夏、久しぶりに会ったキミに、僕は伝えたいことがあった。

 自分でもよくわからなかった。

 どうしてそういうふうに思ったのか。

 なんで、そう決めたのか。

 だけど、キミと会えるってわかった日から、ずっと思ってたことだった。

 どうしても伝えようと思ってた。

 それがどこからきたものなのか、どこに向かっていくものなのか、すぐに求めようとは思わなかった。

 それでもいいと思ってた。


 打ち上がる花火の下で、ふと、キミの横顔が視線がいった。

 張り裂けそうになるほどの緊張が襲っていた。

 …でも、結局は言えなかったんだ。

 嘘みたいに大人びたその顔と、「柔道を辞めたい」というその言葉を、聞いてからは。
 

 いつか、キミに頼ってもらえるような男になりたい。

 キミの隣に立って、同じ景色を見てみたい。

 それを「言葉」に変えようとして、僕はキミに伝えたかった。

 ちゃんと目を見て、キミの名前を言いたかった。

 「好き」って、言いたかった。


 答えなんていらなかったんだ。

 付き合うとか付き合わないとか、そんな話じゃなくて、もっとずっと、確かなこと、——それだけを、追っていたくて…



 信号が赤になっている。

 交差点の通りと、ヘッドランプ。


 僕は思わず、彼女に電話をかけた。

 先週、彼女から電話がかかってきていた。

 080から始まる番号に、「ナミ」の2文字。


 困ったことがあったら、電話して。


 僕にそう言ったキミの言葉を、頭の中に反芻する。

 キミは嘘をつかない。

 見て見ぬフリはしない。

 どうせ何もかも嘘なんだろ?

 きっと何食わぬ顔で、「どうしたの?」って、——さ?


 どこからか風鈴の優しい音色が聞こえる。

 電車が、山の麓から向かってくる。

 夕焼けどきの日差しが、蒸し暑い街の表面を照らしていた。

 ほんのりと青白い月の明かりが、古びたショッピングセンターの窓の向こうに、少しずつ溶け出しながら。

 

 
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