雨上がりに僕らは駆けていく Part1

平木明日香

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風の通り道

第634話

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 逃げる車を追って20分が経過した頃、私たちは須磨区の横を通り過ぎ、長田区の海側に向かって、必死にバイクを走らせていた。

 犯人がどこに向かっているのかわからない。

 目的地などなく、ひたすら逃げ回っているだけなのかもしれない。


 だけど、そう思ったのも束の間、参道筋を抜け、県道21号線に乗り上げたところで、車は渋滞に巻き込まれた。

 そこは、兵庫区に向かう車で溢れかえっていた。


 亮平の愛機は小柄ながら、ナナハンキラーの愛称を持つ、3.17kg/馬力という驚きのパワーウエイトレシオを誇っていた。

 大渋滞に巻き込まれた車の追跡は、お手のものだ。

 もう犯人は、私たちから逃げられない。


 「でも、どうする?」

 「なにが?」

 「追いついたって、なにもまだしてないやん?」

 「…確かにな」

 「せやったら、どないするつもりなん?」

 「とりあえず直接、公平くんのこと聞く」


 聞くって…。

 聞いてどうするんだ?

 そんな子知りません、とか言われたら?


 理想は、もう誘拐なんて気を起こさないこと。

 その防止ができるなら、なんだって構わない。

 だけど、そんな確証を持てる状態を、今すぐに作り出すことなんてできないだろう。

 第一に、それに繋がる「出来事」が起きていないんだし。


 やろうとしてましたよね?

 とか、未来の預言者です、とか、言ってて馬鹿らしくなる。

 でもそれ以上に効果てきめんなフレーズを思いつかない。


 交差点で信号が赤に変わり、犯人の車が身動きできなくなった。

 その様子を見計らいながら、亮平はゆっくり近づいていく。


 ここまで来るのに、犯人は何度も信号無視をして、車道という車道を通り抜けていた。

 だが、ここではもうそんな強行手段は取れない。

 地の利も、バイクの扱いも、ほとんど無駄がなくスピーディーに展開してこれたおかげで、網にかかった魚同然に道の上に停止しているた。

 少しでも隙間があれば抜け出そうとしているが、そんなゆとりはもうない。

 仮に抜け出せても、亮平ならきっと追いついてくれる。

 滑らかなハンドリングとコーナーワーク。

 俊敏でスポーティーなライディングが、軽やかに連れていってくれる。

 不思議と、そう思えた。

 もし、目が合ったら、「バカなことはやめてください」って、言おう。

 アホみたいだが、それ以外にいい手が思いつかない。

 それに、犯人がどんな人でも、まだ、届くものがあるって信じたい。

 100%悪い人なんていない。

 どんな人でも、元々は同じ人間なんだから。

 私だって悪いことの1つや2つしてきたし。

 完璧な人なんて、どこにもいない。

 だから、きっと分かってくれるって思った。

 きっと、分かり合えるって思った。

 そう信じることで、前よりももっと良いと思える「未来」を、見つけられる気がしたんだ。


 綺音も言ってたけど、誰かを裁きたいわけじゃないよ?

 そもそも、そんな力も権利も持ってない。

 じゃあなんでって聞かれたら、答えには困るが。。

 「時間」の最前線に立って、何かを成し遂げる…とか?

 ——いいや、そんなつもりもない(と思う)。

 誰かを助けるのに、理由はいらない。

 理由が生まれるよりも早く、走り出していたい。

 みんなが、「世界を変えてやる!」って言ったように、走って向かいたい場所があるんだ。

 少しでも、前に進める時間があるなら。


 みんなにはみんななりの考え方があると思う。

 どうして、人を助けたいと思えるか。

 …私は、そりゃ、人の命を救えるなら、今も言ったように、真っ先に足を動かしていたいと思う。

 だけどそれ以上に、不安なんだ。

 今、未来に向かって歩き出さないと、過去の自分に追い抜かれる気がして。

 いや、追い抜かれるっていうより、「置き去りにされる」かな?

 その正確な「感覚」は、言葉にすることができない。

 ただ1つ言えることは、不安。

 あの日から、生きた心地がしないから。


 交差点。

 信号。

 赤。


 たまに、自分が死ぬ夢を見る。

 みんなには言えないけど、本当はすごく怖いんだ。

 キーちゃんが言ってたように、本当はもう「自分」は、この世界に存在してないんじゃないか?って、思えてしまって。


 交差点の信号を待つ犯人の車のすぐ後ろまで来て、亮平はバイクに乗ったまま、声をかけるつもりだった。

 しかしその瞬間、「ガチャ」という音が聞こえ、運転席のドアから飛び出した犯人が、車を捨てて反対車線の向こう側に逃げていった。


 「…くそ!」


 バイクを迂回させ、反対車線に乗り込み、犯人が逃げた方の方角に向かおうとする。

 その様子を、振り返りながら見ていた。


 私は、この時にはもう、犯人が車から降りると同時に反射的にバイクから降りていた。

 犯人の背後に向かって走り出し、歩道に設置されたブロック塀を越えていく。


 「楓!」


 後ろで亮平の声が聞こえる。

 だけど、言いたいことはわかってた。


 「ムチャすんな!やろ?」


 そんなこと言われなくてもわかってるよと、振り向きざまジェスチャーする。

 私に任せとけって。

 犯人に撒かれないように、とにかく今は走らなきゃ…!



 ハア、ハア、ハア



 犯人を追いかけている途中、前方に海が見えた。

 真っ青な、海。


 路地を進み、たくさんのビル。

 コンクリートの壁が立ち並び、すれ違う人の影、影、影。

 朝の忙しさと街の喧騒の片隅で、アスファルトを蹴る音が、タン、タン!と響く。

 スニーカーの靴底が弾むその上で、一本のひこうき雲が、青いキャンバスの上を進んでいた。


 犯人の方が背が高く、歩幅も広い。

 だから、一気に距離を詰めれるスピードに、まだ届かない。

 むしろ、離されているような気もする。

 だけど絶対諦めちゃいけない。

 粘るだけ粘って、筋肉という筋肉を使って…!


 全力で走ることしか、頭になかった。

 それは、あの日からずっと、一緒なんだ。


 自転車のペダルを漕ぐのをやめたら、バランスを崩して倒れてしまう。

 地面に水平に立つことができるのは、ペダルを漕いでいるときだけ。

 走っている時にしか、車体を起こすことができない。

 それがわかってるから、走るしかないって思った。

 前に進むしかないって、思っていた。


 いつも、どんな時も。


 中学時代のみんなともう1度出会えたこと。

 キーちゃんや亮平と、同じ時間にいられること。

 学校の道すがら、自転車を漕ぐ。

 「おはよー!」っていう声や、交わすハイタッチ。

 登下校の道に肩を並べて、みんなの隣を歩くのは、きっと、ずっと一緒にいたいと思えるからだ。


 アキラのスマートな笑い方。

 綺音のくだらないジョーク。

 キーちゃんの長ったらしい宇宙談義。

 亮平の、ガキくさい絡み。


 走り続けていたら、みんなと別れずに済むかな?

 ねえ、キーちゃん。

 一緒に過ごしてた「時間」を覚えてる?

 教室の隣の席、部屋の窓辺、バス停のベンチ、シャワールームの水の音。

 そのすぐ近くでいつも、キーちゃんを見て、これから先2人でどこに行けるか、はかない妄想を膨らませてた。

 私たちが自転車で向かう行き先は、いつもわからない。

 だけど、キーちゃんの背中に掴まって、どこか遠い場所へ、一緒に行ける気がしてた。

 この地平線の、どこか、美しい場所へ。


 動け!足!


 走ることでしか追いつけなものがあるなら、まずは右足から。

 ありったけの力で地面を蹴り、1メートルでも遠くへ!


 逃げ回る犯人が右へ左へ動く。

 ひび割れたアスファルト。

 錆びついたガードレール。

 路地中の信号を過ぎ、2つ目の交差点を迎えた時のことだった。

 犯人が膝をつき、足を止めた。


 …しめた!


 そう思い、立ち止まった横断歩道の上をめがけて突撃しようとした。

 それこそ、体当たりするぐらいの勢いで。



 「…ハア、ハア。…一体、…なによ!」


 近づこうとする私に向かって、必死に逃げるその女性は口を開いた。

 私は、すぐにそれに反応することができなかった。


 「なんで…、追いかけてくるのよ!」


 …それは。


 この時思考が停止してしまったのは、ほとんど反射的な動作に近いものだった。

 なんで追いかけるのか。

 それを考える時間や距離が、「自分」のどこにあるのか、すぐにはわからなかったからだ。

 もちろん、公平くんが失踪したっていうニュースを知ったのが、最初のきっかけなのかもしれない。

 それ以外に追いかける理由はないわけだし、それが全てな気もする。


 …だけど。


 だけどもっと、シンプルに、自分が足を動かす理由がある。

 理由というか、本能というか。


 私は、交差点で事故に遭ったあの日まで、立ち止まるつもりはなかった。

 後ろを振り返るつもりもなかった。

 私は一度死んでいる。

 それは間違いない。

 私の体が覚えてる。

 私の「記憶」が覚えてる。

 あの日、なにがあったか。

 世界でなにが起こっていたか。


 だから、答えようとした。

 私なりの「答え」。

 死に物狂いで走って、ここまで追いかけてきた理由を。



 私が、ここまで来たのは……


 パァァァァァァァァ


 突然鳴り響いた、トラックのエアホーン。

 前を走る犯人が、横断歩道の横にある細い路地へ逃げようとした時だった。

 できるだけ遠くへ行こうとするその足が、小刻みに動いている。

 待って!

 そう思い、息切れがする呼吸を抑えながら、すぐに追いかけようとした。


 タッタッタッ…


 地面に踵が触れる3歩目。

 犯人がクラクションの中に紛れ、ガラスの破片が空間に飛散する。

 雷が落ちたような破裂音。

 止まらないスピード。

 路地から現れた2tトラックに、正面からぶつかった。

 犯人の体が、宙に浮かんだ。
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