雨上がりに僕らは駆けていく Part1

平木明日香

文字の大きさ
上 下
550 / 698
墓標のない土地

第549話

しおりを挟む

 シュレーディンガーの猫、ねえ。

 そんなに大それたことなんだろうか。

 猫の1匹が箱の中で生きるか死ぬか、それが一体なにを意味していることになるのかを私は知らない。

 だけど彼女は必死になってこれがこれで、こうなってと段階を踏んで話を進めてくる。

 あんまり一生懸命なもんだからこっちもついムキになって「それがどうした」と無愛想に対応しても、その次には「だから」と突っぱねるように韻を踏んで軽快なステップを踏んでくる。

 真剣に訴えるその姿勢は確かに心の中に響きそう。

 だけど届きそうで届かない。

 ついには休憩時間も終わって国語の時間がやってきた。

 はいじゃあもうこれでこの話はおしまい!と促しながら席に戻っても、まだまだと話足らなさそうに私のシャツの裾を掴んで「行かないで」と訴えてくる。

 「私はどこにもいかないよ」とその手をほどいてあっちに行けと催促しても、瞳孔の奥に隠れたツヤツヤな眼差しは諦めることを知らず私の背中を追って来る。

 チャイムが鳴って国語の先生が入ってきてもお構いなしにノートを広げて、話を再開しようと奮闘している姿は思いのほか涙ぐましい。

 だからといってこれ以上話を聞いても仕方ないと思い、ノートを払う。

 あんたのノートはあんたの机に。

 私のノートは私の机に。

 この教室の午後の時間に、2つもノートを広げていられるかってんだ。

 どんよりし始めた気持ちの中で彼女の顎をグイッと掴んで、無理矢理私の傍から引きはがそうと躍起になった。

 彼女はそれにも関わらず今度は世界史の教科書を取り出して、その本に取り付けられた世界地図を強引に広げて見せるのだった。


 おいおい勘弁してくれよ。

 先生に怒られるでしょーが。

 松村先生は優しい性格だから、少しくらい騒がしくしていても、ある程度までは許してくれるんだろうけどさ。

 だからといってこの机いっぱいの世界地図が国語の授業に関係ないことは明白なんだ。

 先生はさっそく「今日はP36を開いてください」と促しながら私たちの様子を見ている。

 おい、いい加減席に戻れって。


 「でさ、この地図に書かれてる北極と南極を見てみて」


 だめだこいつ。

 完全にスイッチが入っている。

 適当にそうですねとうなずいて私の方はP36を開く。

 ちゃんと開いてますよ先生って机の上で大げさにジェスチャーしながら「この子のことは気にしないでください」とわざとらしく注意を促す。

 そんなことは関係ないと言わんばかりに彼女は地図の上の北極と南極を指差してきた。


 「もし、この北極と南極に「同じ」時間に、2つの箱をそれぞれ1つずつ置いてみたとしよう。北極に1個、南極に1個といった具合でね」


 うんうん


 「それで、そのどちらかの箱の中に、1枚のハガキを入れてみるんや。北極の箱か、南極の箱か、そのどっちでもええんやけど、「いずれか」の箱にだけ、ハガキを入れる」


 それでそれで


 「あたしたちの常識やと、どちらかの箱にハガキが入っていると仮定した時点で、どっちの箱にハガキが入っているかは、箱を開けてみるか、開けてみないかに関わらず、答えは決まってると思うやろ?」


 そうだね。


 「だけど、シュレーディンガーの猫の思考実験でもあるように、北極と南極の中身を開けて、その中を確認して見るまでは、どっちにハガキが入っているかは最後まで"わからない=決定されていない"んやって」


 そりゃあ、すごいね。

 それで、その話と、さっきから握りしめてるサイコロの間には、一体どんな関係性が?


 「サイコロが1と出たとき、「サイコロが6と出る未来」は、連続的に途切れることなく今の現実に続いてるっていうこと。つまり運命なんてものは、この世界にはないそうや」

 「運命…か…」


 そんなものは最初からどこにもないのかもしれない。

 サイコロの目がもし6と出ると決まっているとしたら、明日の天気が晴れか雨かなんて、何の意味もない。

 この授業だってそうだ。

 隣で賑やかな彼女の声色は、いつだって明るい。

 昨日だってそう。

 今日も。

 それから明日だって。

 それが運命によるものだとしたら、つまらないよね、絶対。

 私はつまらないと思う。


 キーちゃんが元気な日は、元気だ。

 それが何百年も前から決まっているとしたら、無理矢理でも彼女のほっぺたをつねって顔を歪めてやりたい。

 思いっきりつねって痛がるキーちゃんの辛そうな顔を見たら、運命なんてものは尻尾を撒いてどこかへ消え失せるだろう。

 今日の出来事が何もなかったみたいに。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

処理中です...