雨上がりに僕らは駆けていく Part1

平木明日香

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墓標のない土地

第544話

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 ねえ、楓。今年の誕生日こそは、がんばった自分にプレゼントを買いに行くよ。東京までの片道キップ。そう思いながら、もう何年経ったんだっけ。

 長い時間が過ぎているようで、月日はあっという間に過ぎていく。あんたが自分に買ったプレゼントは、ずっと最近まで、あたしの手元にあったんだよ。カーネーションの柄の長財布。子供のころ、あんたが一人で生きていけることを夢見て、母親には内緒で買った自分専用の長財布。忘れもしない。あたしは、あの時のことをよく覚えてる。今では財布のあちこちにヒビが入って、使い物にはならないけれど。欲しいものが手に入ったような気がして、夢と希望で胸がいっぱいになって、翳りのない幸せに満たされたあの時の感情を、あたしは、今でも鮮明に思い出す。

 思い出の詰まったこの財布を、結局、返せずじまいで終わったことをこの場を借りて謝るよ。本当は謝るつもりなんてないんだけどね(笑)。だって、あんなに嬉しい気持ちにさせてくれたものを、今では全然大切にしてないんだもんな。せっかく高い金で買ったのに、机の中にしまいっぱなしで、すっかりカビが生えてしまった。あたしが、あんたの家に遊びに行ったとき、思わずその財布を探して、ホコリに被ったそれを見つけたら、そのままにしておくのはもったいないと思った。だから汚れを落とし、ほんの少しの間借りようと、黙って持って帰ってしまった。あんたにはもうどうでもいいものでも、あたしにはそうじゃなかったから。あのとき、夢と希望で胸がいっぱいになった胸の奥で、今でも朽ちることなく輝いている夢を、あたしは今でも抱きしめている。それを少しでも長く味わうために、あたしのポケットにはいつもその財布がある。あんたが、自分に買ったプレゼント。それはいわばあたしに対する最初で最後のプレゼントだった。あんたにもらった、あたし宛てのそのたった一つのプレゼントが、あたしの生きる希望そのものになっていたんだ。少なくとも、そう胸を張って言うことができる。

 白状するよ。今だから言えることがあるんだ。泣き虫でわがままで甘ったれで、そのくせ陰気臭いあんたの顔を見る度に、嫌気が差してた。昼下がりの街の公園のベンチで、タバコを吹かしながら思い出を振り返っては、街の中で行き交う人ごみの中に、あんたの姿を探している。ねえ、楓。知ってた?あたしが、あんたを嫌ってた理由。あんたと別れた最後の日、両手で突き放したワケを。知るわけないだろうな。子供の頃、あんたと一緒に過ごして来たときから、心の中にあったその秘密が、今も色褪せることなく残っている。あんたには悪ィけど、あたしはもう二度と、あんたとすれ違うことはないだろう。あたしはもうじき死ぬ。不本意だけど、その時期がすぐそこまでやって来てる。だから駅のホームで、片道切符を買って、知らない街の公園のベンチに事もなげに腰を下ろしながら、今にも消えかけそうなこの命の上で、静かにさよならを言う練習をする。

 何度も考えてた。腕時計の針を止めて、もう一度最初からやり直せたらって。だけどやり直せないことは知ってた。移り変わっていく季節の真ん中で、明日また、今日と同じ日が、音もなく近づいて来ることを知っていた。覚えてる?学校の帰り道、自転車の後ろの席で、いつもあんたに話しかけてたことを。これからどこに行く?って、なにかに期待しながら、耳元に囁いてたことを。

 教室の隣の席、部屋の窓辺、バス停のベンチ、シャワールームの水の音。そのすぐ近くでいつも、あんたのことを見て、これから先二人でどこに行けるか、儚い妄想を膨らませてた。でも結局どこにも行けないこの虚弱な足腰は、理想ばかり追いつづけてくたびれ、弱々しい心になって萎んでいき、そっと目を閉じて何事もなかったかのように枯れていく。そうして明日になったら頑張れると逃げるように夜眠りにつく日が、続いた。夢見がちだった。なんでもできると思っていた。あんたの隣で、並んで歩くその足で、あたしはいつも、軽はずみな理想ばかり追い求めていた。それが叶わない夢だということを知ってて。

 期待しすぎていたんだろうか?いつも隣にいたあんたに、あたしの理想の世界を少しでも知ってもらおうと努力していたことは、無駄な時間だったんだろうか。たばこはもう吸い終わる。日の光は大きく傾き始めて、意識が少し、ぼんやりし出した。もうじき、死ぬ。だけどもう一度、あんたのことを思い出したい。この頭の中にあるあんたという人間を、片っ端から引っ張り出して、もう一度この傍でその姿を見てみたい。だけど、もう、あんたの街にはいられない。あんたのいる場所にはいられない。帰りのない電車に乗って、その乗客席の窓の外で、遠ざかっていく景色を視界の先に捕らえながら、離れていく二人の間の距離が、時間を追うごとに、永久に隔絶されていく感覚を知る。

 学校の帰り道、その自転車の後ろの席で、あんたとあたしは二人、明日についてを話し合う。その日が、その何気ない日常が、もう二度とあたしたちの間に訪れないにしても、いつも忘れずに思っているよ。明日になっても、あんたがその足で強くペダルを踏み締めた先で、あたしの知らない世界を見つけてくれることを。顔をうずめて、決してたくましい背中じゃないあんたのその体躯にまたがり、願うのは、ただ一つだけだ。

 さようなら。あたしの中のシンデレラ。明日また、今日と同じ日が来るにしても、あたしはいつでも、あんたが笑って過ごせる日が来ることを願っている。動かなくなったこの足の先で、たばこの火が消えたとしても、必ずまた、どこかで、同じ電車に乗ろう。その行き先は、あんたが決めてもいい。
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