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少年とヒーロー
第355話
しおりを挟む全面的な避難活動に焦点が当てられていたとはいえ、国境の廃止やアメリカ全土に渡る住民の大移動は、時間的にもコスト的にも、それを実現するだけの現実的な数字が、ほとんど存在していなかった。
その上、各国の主要メディアとのオンライン通信であり避難誘導は、必ずしも統制が取れていたわけではなかった。
あらゆる映像と情報が入り混じる中、洸平の妻、真波は、衛生通信が映る画面上に釘付けなっている家族の横で、声を発した。
「何が起こってるの…?」
呆然とする表情の裏側には、出来事に対する捉えどころのない焦燥があった。
それは“焦り“ではなかった。
それよりももっと素早く、もっと深い、現実に対する「懐疑」があった。
あるいは、映像の向こうで起こっていることが、「現実」だと思うことすらできていなかったかもしれない。
端正な彼女の顔立ちは、血の気が引いたように蒼白くなっていた。
大学に到着した時は、まだ、物事を冷静に考えられるだけのゆとりが、覚束ない視線の中にはあった。
それは全員が同じだった。
互いに目を合わし、お互いの体調や状態を気遣う中で、現実で起こっていることに対する理解を、必死に紡ごうとしている姿があった。
けれども逼迫化する報道の内容や、より鮮明になる小惑星の情報が、さまざまな方面から肥大化していく中で、これから起こることへの事態の”大きさ“が、その「影」を日常の中に落としていった。
彼女の横顔は、感情があるとは言えないほどの凋落した精悍さがあった。
顔は前を向いていた。
視線は定まり、その定点は揺るがない。
しかしそれは、落ち着いた様相から生み出された沈黙ではなかった。
まして、これから始まることへの未来に向けて、現実を見定めているからではなかった。
川の流れのような淀みのなさが、瞳の奥で揺蕩うしい“一瞬”を持とうとしていた。
それは底知れない暗闇に垣間見える分厚さを、より早く、丁寧に、引き連れてくるものでもあった。
ただ、静かだった。
瞬きもできないほどに静かだった。
時間は前に進んで行こうとしていた。
テーブルを囲う家族たちの息遣いは、夜の静寂を掴めるほどに濃く、張り詰めた音を漏らしていた。
窓を開けて、空を見上げる孫の大輔の姿があった。
今年の正月に来て、サツキたちと一緒に凧を上げた須磨海岸の方角を見ながら、「トランプでもする?」と、小さく呟いた。
大輔はもう19歳だ。
年の近かった弘樹の息子、翼とは、こうして他の家族と集まるたびに、一緒に遊んでいた。
一昨年の暮れには、サツキを中心に人生ゲームを開催していた。
大輔は翔太の息子だが、自分よりも小さい妹が2人いた。
人生ゲームを5人でした時のように、今度は他のメンバーも誘って、少しでも気を紛らわそうとしていた。
それから朝になったのは、しばらく後のことだった。
畳の上で寝転がり、早くから眠りにつくものもいたが、部屋の電気はついたままだった。
夜中じゅう話し合い、また、食いるように衛生通信を見ながら、これからのことについてを考えていた。
朝食は佐織と真波が、食堂にあった食材を調理して持ってきた。
おにぎりと、味噌汁。
大皿にカラフルなおかずを盛りつけて、1人一個のデザート。
飲み物は各自自由に、とのことだった。
キーちゃんはおにぎりを頬張った時に涙が出た。
紙コップに入れた麦茶が机の上で溢れて、「おばあちゃん大丈夫!?」との声が聞こえてきた。
けれどもすぐにそれを拭くことはできなかった。
隣にいた美希に抱えられながら、溢れ出る感情を必死に抑えようと彼女の服の裾を掴んだ。
自分でもどうして涙が出るのかがわからなかった。
わからないなりに、口に含んだおにぎりの味や感触を追いかけながら、朝一番の「チチチチ…」というウグイスの囀りが、耳の横を通り過ぎていくのを感じた。
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