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【第2章】新しい朝
第81話
しおりを挟む男の人が紐を結び終えた後、もう1人の男の人が中央に立って、両者に視線を向ける。
恐らく、この人が審判を務めるのだろう。
視線に促さられるように2人は竹刀を持ち、その竹刀を帯刀したまま、2歩前に出る。
…え、ほんとに試合すんの?
指導での立ち合いとかの可能性も、0じゃなかった。
だってどう考えても「試合」をするには不釣り合いな2人だ。
いくら亮平が全国区だと言っても、それは中学生での話だ。
実質今相手にしているのは、亮平の父親とも遜色がない歳の、ベテラン剣士だ。
相手が有段者で尚且つ強敵であることは、防具の垂れにつけられたネームを見ても分かる。
この垂れには自分の苗字の上に、所属団体を横文字で入れているのが一般的なのだけど、その所属団体が「大阪」と書かれていた。
剣道の所属団体で大阪と言えば、真っ先に思い浮かぶのが大阪府警剣道連盟のことだ。
剣道と言えば、野球やサッカーのようにプロリーグみたいな位置付けはないが、代わりに「全国警察剣道大会」というものが存在する。
この全国警察剣道大会は、警察官の剣道個人/団体戦日本一を決める大会。
主催は警察庁で、毎年全国警察柔道選手権大会と同時に日本武道館で開催される。
もちろんこの大会の他に「全日本剣道選手権大会」もあるけど、全国警察剣道大会の方は全日本大会よりも出場選手数が多いため、1日にこなす試合数も多く、実力がより拮抗している。
そのため、この大会で優勝することは、全日本大会で優勝するよりも難しいとされていた。
亮平の相手が、大阪府警の警察官であるかはわからないけど、そうでなかったとしても、相手が大人であることに変わりはない。
どう考えても分が悪すぎる。
それはアキラも綺音も感じ取ってた。
「ねえ、どっちが勝つと思う?」
アキラは半分冗談気味に聞いてきた。
そんなの答えは決まってる。
「勝つとか負けるとかやなくて、そもそも勝負にならんやろ」
2人は礼をし、3歩前に出た。
試合の開始線まで進むと同時に膝を曲げて腰を落とす。
この所作を「蹲踞」と言う。
蹲踞の姿勢になりながら並行して2人は竹刀を抜いた。
審判の合図とともに、「戦い」が始まる瞬間が、もうすぐそこまで来てる。
この光景は久しぶりだ。
一切の迷いを捨てて試合の開始線までスタスタと進む亮平の冷静さと言うか、張り詰めた空気のようでどこか落ち着いた息遣いのあの「足運び」は、中1の頃の「強い亮平」と遜色がない。
強い、というのは、剣道の技術が云々とかではなく、「勝負」に対する真剣さというか、竹刀を扱うその研ぎ澄まされた感覚が、他の子供とは一線を画すほどに洗練されていたという意味だ。
チャラチャラした中2の終わり頃とはまるで違う。
しっかり相手を見据え、「自分の型」を作っている。
以前、亮平が言ってた。
剣道の成り立ちは「真剣での立ち合いを想定した練習法」の一つだったから、スポーツという面よりも武道の面の方が強いって。
小学生のくせに何言ってんだと思ったが、試合に臨む亮平の集中力を見れば、その言葉も頷ける。
剣道という「ルール」に乗っ取って試合をするけど、あくまで亮平がモットーにしていたのは、「防具も何も付けていない状態での真剣の立ち合い」で、命を守れる距離はどこか。
その上で相手の剣をいなし、一撃で仕留めることができるか。
そんなモットーを持つ小学生が近所にいるだけでもキショかったが、その「言葉」が大きくなりすぎないほど、試合中の足捌きや剣捌きは驚くほどに鋭かった。
…いやぁ、だけど、やっぱり所詮まだ中学生だから、いくら強いと言っても限度はあるだろう…
息を呑む。
「それでは、はじめッ」
と、審判の合図とともに試合が始まった。
以前の亮平ならこの段階で速攻を仕掛けていたが、今日は、意外にも前に出ていかなかった。
「…なんやろ、距離を保ってるね」
素人目では、2人は硬直しているように見える。
中高生の試合では大抵試合直後に動くものだが、竹刀の先と先が触れるか触れないかの中間距離で、相手の呼吸を合わせるかのように2人は立ち止まったままだ。
剣道には「呼吸法」というものがある。
試合中に大きい声を出して勝負を仕掛けるのは、相手の気の起こりや気の集中を挫くという狙いもあるけど、大部分は自分の気持ちや身体操作を集中させるための引き出しとして使われる。
この「集中」というのは色々な側面があるが、第一に「シャウト効果」と呼ばれる筋肉の一瞬の力の働きの抑制をカットするために、用いられる。
亮平は声を出して、剣先で相手にフェイントをかけ続けながら「後の先」を取る動きを得意としていた。
自分から仕掛けるように見せかけて、“相手の竹刀の軌道を出来るだけ抑制”しながら、自分の剣の領域に誘い込む。
「剣が動ける領域」は剣道のルール上“面・小手・胴“の3点だけなので、相手の身体的な距離を測りつつ、手の長さや足の動きのタイミングを“コントロール“できれば、自然と自分が声を出すタイミングも決まるのだと言っていた。
しかし今日は違う。
少しも前に進まないだけでなく、声も出さない。
試合始まったよね?
と思われるほど静かな始まりの中、はや30秒は経とうとしていた。
「試合だよね…、これ?」
「多分、そうやと思うけど」
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