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内側に触れ合った放課後
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学校という仕切られた世界の端っこに、ポツンと立つ鳥小屋のような旧校舎。そのまた隅の一階に美術室はある。もう使われなくなった焼却炉や、常に日陰でひんやりしているフェンスなんかに囲われた少し小さな教室。そんな見放された孤島のような場所で、私たちは、お互い一人ぼっちの部活を続けていた。
私はたった一人の美術部。そして葵はたった一人の文学部として。
私たちの旧校舎が取り壊されると聞いたのは、高校二年になった年の春だった。卒業と同時に工事が始まる。そう知った時、きっと自分が美術部最後の一人になると思った。葵も私と同じ気持ちを抱えていたと思う。一年生が入学しても、お互い部員募集は行わず、それぞれのやりたい事に没頭していた。
旧校舎と一緒に自分達の代で部活が終わってしまう。そのことを私たちは静かに受け止めていた。
その日も私たちは美術室で、それぞれの定位置に座り、それぞれの四角形に向き合っていた。私は胴がすっぽり入るくらいの油絵のキャンバス。葵は赤い表紙をしたA4のノート。
窓から差し込む夕焼けが、板張りの床に古い机の影を落していた。日は少しずつ長くなり、校庭の桜は緑に染まりつつあった。春がもうすぐ終わろうとしていた。
そんな何気ない放課後だった。
「ねえ泉、絵って私にも描けるかな?」
葵が唐突にそう聞いてきた。彼女の方を見てみた。こちらに顔を向けず、机に広げたノートをじっと見つめている。文字を書く手は止まっていた。
口に出して話をしたことはなかったけれど、お互いの作っているものに触れ合わないという暗黙のルールが私たちの間にあった。他人に干渉されるのがあまり好きではない性格の私にとっては、それは心地よい平行線だった。同じ空間で一緒に過ごす葵もそう感じていると思っていた。
まさかそんな言葉が飛び出すと思っていなかった私は、驚きのあまりしばらく黙り込んでしまった。
ふと、葵が初めてこの美術室にやってきた日のことを思い出した。
それは去年の冬だった。例年の倍くらい降った雪が、校舎や通学路を真っ白く染め上げていた。元気な生徒達が校門横に門番のような大きな雪だるまを作っていた。私も雪をテーマに絵を描いていた。
その日も夜にかけて天気が崩れると予報があり、私は少し早めに帰り支度を始めていた。
ドンドンドン
暗い廊下から誰かが扉を荒っぽくノックした。恐る恐る開けてみると、茶色いダッフルコートを着て厚手のマフラーを首に巻いた女の子が猫背でよたよたと入ってきた。よく見るとタプタプと音がする重そうなポリタンクを両手で掴んでいた。
「部室のストーブ壊れちゃったから。ここに居候させて。これ家賃」
上目使いで少し息を弾ませながらその子は言った。それが葵だった。
有無を言わせずいきなり乗り込んできたのに、律儀に手土産を持ってきたところが何だか面白かった。そのちぐはぐさ加減に私はつい吹き出してしまい、つられて葵もニコっと笑った。ポリタンクの中身は灯油だった。
「うん。いいよ」
私はすぐにそう返事をした。
「ありがとー。私、片瀬葵。葵でいいよ。確か遠藤さん、だよね?」
「遠藤泉。私も泉でいいよ」
文学部の部室は旧校舎の二階にあって、葵とは部活会議などで時々顔を合わせる程度の間柄でしかなかった。同い年ではあったけれどクラスは別々。ほとんど接点はなかった。
ちゃんと話をしたのはその時が初めてだったけれど、なぜだろう、不思議と自然に会話ができた。昔からの友達のような距離感で、お互いをすぐ呼び捨てで呼び合えるようになった。そんな子は葵が初めてだった。
それから私たちは同じ教室で一緒に部活をするようになった。それはストーブの出番がほぼ無くなった今もずっと続いている。
「そうだ、私の絵に落描きして…いいよ」
私がそう言うと葵は少し驚いた目でこちらに顔を向けた。
「いいの?」
「いいよ…好きにして…」
今描いている絵には正直行き詰っていた。
私はいつも小さいキャンバスを選ぶ。体で抱え込んで人から隠す事ができるほどの。でも今回は少し気分を変えてみようと、背伸びをして大きめの枠に挑戦していた。とりとめもなく机に並べた布とかビンとかをひとまず描いてはみたけれど、掴みどころのない違和感があった。
キャンバスからもモチーフからも目を背ける時間がどんどん増えていた。私は少し投げやりな気分になっていた。
葵から返ってきたのは意外な言葉だった。
「じゃあ、私の小説にも落書きしていいよ。おあいこ」
広げたノートを口元に当てて、少し恥ずかしそうに小首をかしげていた。
私たちはお互いの定位置を交換した。私は絵を描く時に使っているエプロンを葵に渡してあげた。
葵の席に座ると、まるで別の教室に来たような新鮮さがあった。椅子にはさっきまで座っていた彼女の体温がほんのり残っていた。前を見ると視線の先に私の定位置。もしかしたら、うんうん唸っている横顔とか、一瞬だけ眠って頭がカクッてなってしまった時の様子とかを見られていたかもしれない。そう思うとちょっと気恥ずかしかった。
なんだか葵が見ている世界に入ったというか、葵と私の意識が入れ替わったような、そんな感覚がした。
葵はホラー小説を書いていた。彼女の作った文章を読むのは初めてだった。てっきりハッピーエンドな恋愛小説を書いていると思っていた。
最初のページを読んでみた。小説の主人公は高校二年の男の子。好きだった同級生の女の子を殺してしまうシーンから始まっていた。そして翌日、殺したはずの女の子が何事もなかったかのように登校してきていた。小説はそれを見た主人公が驚く場面で止まっていた。
タイトルは『未定』だった。結末が決まっていないようだったけれど、そんなに悪くない出だしだと思った。
小説には書き直しや取り消し線、そして隅っこに色ペンで思いついた事を書いたりが多かった。はてなマークもそこかしこにあった。筆記用具が迷子になってあちこちに足跡を残していた。
私は小説というものを書いたことが無かったけれど、葵が行き詰っているのは何となく分かった。びっちり埋まったページの余白の無さに、彼女の余裕の無い心の内が現れているようだった。
私は頭の中で思っていることを言葉にするのが少し苦手だった。友達と話をしていても、私が喋る時だけ二、三秒間が空いてしまう。私はこの物語にどんな未来を付け足していいのか分からなくなってしまった。
それに、葵のノートを見て、作品には作者のデリケートな部分がいっぱい詰まっていることを改めて実感した。このノートは葵の心の内側そのもの。そこを直接触っていいんだろうか。今更ながらラクガキがすごく悪いことのような気がし始めた。
なかば頭を抱えていた時、葵の明るい声が聞こえた。
「できた!」
キャンバスを覗きに行ってみた。すると想像していたより大きくて思い切った落描きが目に飛び込んできた。私が描いていた静物画を完全に無視して、真っ赤な線でキャンバスいっぱいにハートマークが一つ上描きされていた。てっきり隅っこに小さな棒人間でも描くぐらいだと思っていたので、素直にびっくりした。
葵の赤いハートマークには大きな熱があった。それは私が抱えている悩みやウジウジした気持ちを否定する事なく、ひとまとめにして包み込んでくれるような、そんな大きな熱。私は胸が暖かくなった。
葵が言った。
「どう?私の処女作」
「…自由な感じが、葵らしくて…いいなって思う」
「ありがと…」
葵はにかむような笑顔で目を逸らした。そして、キャンバスに視線を戻して話し始めた。
「最近泉が苦しそうに見えるんだー。なんかこう、酸欠になって水面で口をパクパクさせてる金魚みたいだなって…」
そう言われても、不思議と嫌な気分はしなかった。私は自分の気持ちを言い当てられるのが苦手だ。それがたとえ当たっていたとしても。いや当たっているからこそ、心の中に土足で踏み込まれているような気がしてしまう。でもなんでだろう。葵の口からでる言葉は私の心にすんなり染み込んでいった。
「ごめんね、知ったような事言っちゃって…私も今そんな状態なんだ。泉の顔見てたらひょっとしたら私と同じなのかなって思って…。ねえ、泉って完璧主義者?」
「うん、そうだと思う。下描きが納得いかないと塗りに入れない」
葵がハートマークの線を筆の先でなぞり始めた。流れるような筆の持ち方だった。葵の指は新品の陶器のように綺麗で、その繊細な滑らかさをもっと近くで、もっと色んな角度から見つめてみたい気持ちに駆られた。
葵がゆっくりと、自分の言葉を噛みしめるように喋り始めた。
「私たちが作ってるものって…人に見てもらって…初めて完成っていうか…そういう所ある気がするんだ…」
「うん。それ、少し分かる」
「時々…作品を見てくれる誰かの事ばかり考えちゃって…先に進めない事があってさ…」
「私にもあるよ。時々じゃなくて、毎日かも…」
私もよくそこで悩んでいた。そのせいで下描きのまま放り投げてしまった絵が今まで何枚もあった。
線を引くとき、色を作る時、ふと頭に浮かぶ『これって正しいのかな』という言葉。もしかしたら変だとか間違ってるだとか言われたらどうしようと思い、心配になる。そんな事を誰が言うのかと聞かれても、はっきりとは答えられない。そういうぼんやりとした輪郭だけの人のご機嫌を取ることに夢中になって、息が苦しくなる時がある。そして、そんなことにもがいている自分が嫌になる。
絵を描いていると時々そんな負のループに落ちることがあった。
自分で自分の目に目隠しをしてしまい、どこへ進んでいいのか分からなくなる。
私はうまく言葉にできなかったけれど、つっかえながらも自分の心の内を葵に話してみた。彼女はまっすぐ私の言葉を受け止めてくれた。
葵とこんな話をするのは初めてだった。いつもは『電気消すね』とか『そろそろ帰ろっか』のような当たり障りのない話しかしてこなかった。絵や小説に対する話題は相手の気分を悪くするだけ。邪魔をするだけ。そんな先入観がお互いにあったんだと思う。
彼女は小説、私は絵。別々の方向に進んでいると思っていたけれど、実は同じような悩みを抱えていたんだなと思うと、葵が少し近くに感じられた。同じ教室で二人きりで過ごしてきたのに、全然気がつかなかった。
葵が私の方を向いた。目が合った。ほんの数秒。まばたき二回するくらいの短い間、私たちは見つめ合った。少し潤んだ葵の目が夕焼けのオレンジを艶やかに反射していた。目が合うのはこれが初めてというわけじゃなかった。でもすごく特別な感じがした。葵の涙を見てみたいという気持ちが唐突に湧きあがった。嬉しさや切なさ、そういう強い感情を溢れさせている彼女の姿を見たいと思った。
キャンバスに視線を戻した葵が口を開いた。
「だから、息抜きだと思ってさ、私の小説もぐちゃぐちゃにしちゃって、いいよ」
私は葵の席に戻って、もう一度小説と向き合ってみた。正直な気持ち、ホラー小説は気乗りがしなかった。絵を描くことに行き詰っている時に、怖い話を考えるなんて余計に窒息してしまいそうだった。私はシャーペンを握って書き出した。
唐突に、喋るラクダを主人公の高校に登場させてみた。そのラクダは主人公のクラスの担任にすることにした。前の担任は産休という理由で退場させた。ラクダの名前をステファニーにした所で一気に恥ずかしさがこみ上げてきた。生まれて初めて妄想を文章にした。これを読まれるなんて、裸の自分を見られるのと同じ気がして、胸の奥がくすぐったくなった。葵もさっき絵を描きながら同じような気持ちだったのかもしれない。
少し読み直してみると、前の担任は男の設定だった事に気が付いた。消しゴムをかけようとしたけれど葵の言っていた事を思い出してやめた。そうだ、これでいいんだ。ぐちゃぐちゃのままでいいんだ。筆箱から青ペンを取り出して『産休』の字をぐるぐる囲った。そして近くに『まちがえた!あとはお願い!』と注釈を書いて終わりにした。
「できたよ」
葵にそう伝えた。
『どれどれ』と言いながら近づいてくる葵を見た瞬間、文章を書いていた時の恥ずかしさが、また心の内側で燃え始めてしまった。私はトイレに行くと言って教室から逃げ出した。薄暗い廊下に出てみるとグラウンドにいる運動部のかけ声や吹奏楽部の演奏が聞こえてきた。
中学の頃はテニス部に入っていた。部員も沢山いた。みんなに見られている中で空振りしたり、転んで尻餅をついたりもした。でもあの時より今この時の方が断然恥ずかしかった。たった一人にしか見られていないのに、なんでこんなに心臓が走ってしまうんだろう。きっと生まれて初めて小説を書いたからだと思った。
美術室に戻った。葵はいつもの席に座っていて、私が書き足したノートに続きを書いていた。私が帰ってきても顔を上げなかった。きっと私が作った文章が支離滅裂だったから、怒ってしまったのかなと思った。少し悲しい気持ちで私も自分の定位置に戻った。
「好きだよ。泉のコトバ!」
葵のその言葉が空間を変えた。教室の外から聞こえてくる雑音が、全て消え去ったような感覚がした。彼女の声、彼女が走らせるシャーペンの音がすぐ近くで聞こえたような気がした。
心臓がまた急加速した。そして、胸の中に何かが芽生える音がした。繊細な弦を指で弾くような、高音で暖かな音。
葵はノートに目を落したままの姿勢だったので、『好きだよ』と言ってくれた時、どんな表情をしていたのかよく見えなかった。
葵が一歩、私に踏み込んできてくれた事が嬉しかった。でも私から近づく事に少し不安があった。踏み出した足が、このまま止まらなくなってしまったらどうしようと思った。きっと葵との距離をゼロにしたくなる。それはきっと友情を超えた『好き』になるってことだ。そんな自分になってしまう事が、少し怖かった。
でも私は葵に近づく道を選んだ。芽生えた気持ちを、もっと確かめたくなった。
私は言った。
「私も葵の絵、好きだよ。これからも、いっぱいラクガキ、しよっか」
「うん…」
葵は広げたノートで顔を隠しながらそう返事をしてくれた。
私たちは教室の真ん中にラクガキ用のスペースを作った。ノートを置いた机をとキャンバスをそこに置いた。行き詰った時はそこへ行って、お互い好き勝手に書いたり描いたりした。
私たちは以前より話をするようになった。
私はたった一人の美術部。そして葵はたった一人の文学部として。
私たちの旧校舎が取り壊されると聞いたのは、高校二年になった年の春だった。卒業と同時に工事が始まる。そう知った時、きっと自分が美術部最後の一人になると思った。葵も私と同じ気持ちを抱えていたと思う。一年生が入学しても、お互い部員募集は行わず、それぞれのやりたい事に没頭していた。
旧校舎と一緒に自分達の代で部活が終わってしまう。そのことを私たちは静かに受け止めていた。
その日も私たちは美術室で、それぞれの定位置に座り、それぞれの四角形に向き合っていた。私は胴がすっぽり入るくらいの油絵のキャンバス。葵は赤い表紙をしたA4のノート。
窓から差し込む夕焼けが、板張りの床に古い机の影を落していた。日は少しずつ長くなり、校庭の桜は緑に染まりつつあった。春がもうすぐ終わろうとしていた。
そんな何気ない放課後だった。
「ねえ泉、絵って私にも描けるかな?」
葵が唐突にそう聞いてきた。彼女の方を見てみた。こちらに顔を向けず、机に広げたノートをじっと見つめている。文字を書く手は止まっていた。
口に出して話をしたことはなかったけれど、お互いの作っているものに触れ合わないという暗黙のルールが私たちの間にあった。他人に干渉されるのがあまり好きではない性格の私にとっては、それは心地よい平行線だった。同じ空間で一緒に過ごす葵もそう感じていると思っていた。
まさかそんな言葉が飛び出すと思っていなかった私は、驚きのあまりしばらく黙り込んでしまった。
ふと、葵が初めてこの美術室にやってきた日のことを思い出した。
それは去年の冬だった。例年の倍くらい降った雪が、校舎や通学路を真っ白く染め上げていた。元気な生徒達が校門横に門番のような大きな雪だるまを作っていた。私も雪をテーマに絵を描いていた。
その日も夜にかけて天気が崩れると予報があり、私は少し早めに帰り支度を始めていた。
ドンドンドン
暗い廊下から誰かが扉を荒っぽくノックした。恐る恐る開けてみると、茶色いダッフルコートを着て厚手のマフラーを首に巻いた女の子が猫背でよたよたと入ってきた。よく見るとタプタプと音がする重そうなポリタンクを両手で掴んでいた。
「部室のストーブ壊れちゃったから。ここに居候させて。これ家賃」
上目使いで少し息を弾ませながらその子は言った。それが葵だった。
有無を言わせずいきなり乗り込んできたのに、律儀に手土産を持ってきたところが何だか面白かった。そのちぐはぐさ加減に私はつい吹き出してしまい、つられて葵もニコっと笑った。ポリタンクの中身は灯油だった。
「うん。いいよ」
私はすぐにそう返事をした。
「ありがとー。私、片瀬葵。葵でいいよ。確か遠藤さん、だよね?」
「遠藤泉。私も泉でいいよ」
文学部の部室は旧校舎の二階にあって、葵とは部活会議などで時々顔を合わせる程度の間柄でしかなかった。同い年ではあったけれどクラスは別々。ほとんど接点はなかった。
ちゃんと話をしたのはその時が初めてだったけれど、なぜだろう、不思議と自然に会話ができた。昔からの友達のような距離感で、お互いをすぐ呼び捨てで呼び合えるようになった。そんな子は葵が初めてだった。
それから私たちは同じ教室で一緒に部活をするようになった。それはストーブの出番がほぼ無くなった今もずっと続いている。
「そうだ、私の絵に落描きして…いいよ」
私がそう言うと葵は少し驚いた目でこちらに顔を向けた。
「いいの?」
「いいよ…好きにして…」
今描いている絵には正直行き詰っていた。
私はいつも小さいキャンバスを選ぶ。体で抱え込んで人から隠す事ができるほどの。でも今回は少し気分を変えてみようと、背伸びをして大きめの枠に挑戦していた。とりとめもなく机に並べた布とかビンとかをひとまず描いてはみたけれど、掴みどころのない違和感があった。
キャンバスからもモチーフからも目を背ける時間がどんどん増えていた。私は少し投げやりな気分になっていた。
葵から返ってきたのは意外な言葉だった。
「じゃあ、私の小説にも落書きしていいよ。おあいこ」
広げたノートを口元に当てて、少し恥ずかしそうに小首をかしげていた。
私たちはお互いの定位置を交換した。私は絵を描く時に使っているエプロンを葵に渡してあげた。
葵の席に座ると、まるで別の教室に来たような新鮮さがあった。椅子にはさっきまで座っていた彼女の体温がほんのり残っていた。前を見ると視線の先に私の定位置。もしかしたら、うんうん唸っている横顔とか、一瞬だけ眠って頭がカクッてなってしまった時の様子とかを見られていたかもしれない。そう思うとちょっと気恥ずかしかった。
なんだか葵が見ている世界に入ったというか、葵と私の意識が入れ替わったような、そんな感覚がした。
葵はホラー小説を書いていた。彼女の作った文章を読むのは初めてだった。てっきりハッピーエンドな恋愛小説を書いていると思っていた。
最初のページを読んでみた。小説の主人公は高校二年の男の子。好きだった同級生の女の子を殺してしまうシーンから始まっていた。そして翌日、殺したはずの女の子が何事もなかったかのように登校してきていた。小説はそれを見た主人公が驚く場面で止まっていた。
タイトルは『未定』だった。結末が決まっていないようだったけれど、そんなに悪くない出だしだと思った。
小説には書き直しや取り消し線、そして隅っこに色ペンで思いついた事を書いたりが多かった。はてなマークもそこかしこにあった。筆記用具が迷子になってあちこちに足跡を残していた。
私は小説というものを書いたことが無かったけれど、葵が行き詰っているのは何となく分かった。びっちり埋まったページの余白の無さに、彼女の余裕の無い心の内が現れているようだった。
私は頭の中で思っていることを言葉にするのが少し苦手だった。友達と話をしていても、私が喋る時だけ二、三秒間が空いてしまう。私はこの物語にどんな未来を付け足していいのか分からなくなってしまった。
それに、葵のノートを見て、作品には作者のデリケートな部分がいっぱい詰まっていることを改めて実感した。このノートは葵の心の内側そのもの。そこを直接触っていいんだろうか。今更ながらラクガキがすごく悪いことのような気がし始めた。
なかば頭を抱えていた時、葵の明るい声が聞こえた。
「できた!」
キャンバスを覗きに行ってみた。すると想像していたより大きくて思い切った落描きが目に飛び込んできた。私が描いていた静物画を完全に無視して、真っ赤な線でキャンバスいっぱいにハートマークが一つ上描きされていた。てっきり隅っこに小さな棒人間でも描くぐらいだと思っていたので、素直にびっくりした。
葵の赤いハートマークには大きな熱があった。それは私が抱えている悩みやウジウジした気持ちを否定する事なく、ひとまとめにして包み込んでくれるような、そんな大きな熱。私は胸が暖かくなった。
葵が言った。
「どう?私の処女作」
「…自由な感じが、葵らしくて…いいなって思う」
「ありがと…」
葵はにかむような笑顔で目を逸らした。そして、キャンバスに視線を戻して話し始めた。
「最近泉が苦しそうに見えるんだー。なんかこう、酸欠になって水面で口をパクパクさせてる金魚みたいだなって…」
そう言われても、不思議と嫌な気分はしなかった。私は自分の気持ちを言い当てられるのが苦手だ。それがたとえ当たっていたとしても。いや当たっているからこそ、心の中に土足で踏み込まれているような気がしてしまう。でもなんでだろう。葵の口からでる言葉は私の心にすんなり染み込んでいった。
「ごめんね、知ったような事言っちゃって…私も今そんな状態なんだ。泉の顔見てたらひょっとしたら私と同じなのかなって思って…。ねえ、泉って完璧主義者?」
「うん、そうだと思う。下描きが納得いかないと塗りに入れない」
葵がハートマークの線を筆の先でなぞり始めた。流れるような筆の持ち方だった。葵の指は新品の陶器のように綺麗で、その繊細な滑らかさをもっと近くで、もっと色んな角度から見つめてみたい気持ちに駆られた。
葵がゆっくりと、自分の言葉を噛みしめるように喋り始めた。
「私たちが作ってるものって…人に見てもらって…初めて完成っていうか…そういう所ある気がするんだ…」
「うん。それ、少し分かる」
「時々…作品を見てくれる誰かの事ばかり考えちゃって…先に進めない事があってさ…」
「私にもあるよ。時々じゃなくて、毎日かも…」
私もよくそこで悩んでいた。そのせいで下描きのまま放り投げてしまった絵が今まで何枚もあった。
線を引くとき、色を作る時、ふと頭に浮かぶ『これって正しいのかな』という言葉。もしかしたら変だとか間違ってるだとか言われたらどうしようと思い、心配になる。そんな事を誰が言うのかと聞かれても、はっきりとは答えられない。そういうぼんやりとした輪郭だけの人のご機嫌を取ることに夢中になって、息が苦しくなる時がある。そして、そんなことにもがいている自分が嫌になる。
絵を描いていると時々そんな負のループに落ちることがあった。
自分で自分の目に目隠しをしてしまい、どこへ進んでいいのか分からなくなる。
私はうまく言葉にできなかったけれど、つっかえながらも自分の心の内を葵に話してみた。彼女はまっすぐ私の言葉を受け止めてくれた。
葵とこんな話をするのは初めてだった。いつもは『電気消すね』とか『そろそろ帰ろっか』のような当たり障りのない話しかしてこなかった。絵や小説に対する話題は相手の気分を悪くするだけ。邪魔をするだけ。そんな先入観がお互いにあったんだと思う。
彼女は小説、私は絵。別々の方向に進んでいると思っていたけれど、実は同じような悩みを抱えていたんだなと思うと、葵が少し近くに感じられた。同じ教室で二人きりで過ごしてきたのに、全然気がつかなかった。
葵が私の方を向いた。目が合った。ほんの数秒。まばたき二回するくらいの短い間、私たちは見つめ合った。少し潤んだ葵の目が夕焼けのオレンジを艶やかに反射していた。目が合うのはこれが初めてというわけじゃなかった。でもすごく特別な感じがした。葵の涙を見てみたいという気持ちが唐突に湧きあがった。嬉しさや切なさ、そういう強い感情を溢れさせている彼女の姿を見たいと思った。
キャンバスに視線を戻した葵が口を開いた。
「だから、息抜きだと思ってさ、私の小説もぐちゃぐちゃにしちゃって、いいよ」
私は葵の席に戻って、もう一度小説と向き合ってみた。正直な気持ち、ホラー小説は気乗りがしなかった。絵を描くことに行き詰っている時に、怖い話を考えるなんて余計に窒息してしまいそうだった。私はシャーペンを握って書き出した。
唐突に、喋るラクダを主人公の高校に登場させてみた。そのラクダは主人公のクラスの担任にすることにした。前の担任は産休という理由で退場させた。ラクダの名前をステファニーにした所で一気に恥ずかしさがこみ上げてきた。生まれて初めて妄想を文章にした。これを読まれるなんて、裸の自分を見られるのと同じ気がして、胸の奥がくすぐったくなった。葵もさっき絵を描きながら同じような気持ちだったのかもしれない。
少し読み直してみると、前の担任は男の設定だった事に気が付いた。消しゴムをかけようとしたけれど葵の言っていた事を思い出してやめた。そうだ、これでいいんだ。ぐちゃぐちゃのままでいいんだ。筆箱から青ペンを取り出して『産休』の字をぐるぐる囲った。そして近くに『まちがえた!あとはお願い!』と注釈を書いて終わりにした。
「できたよ」
葵にそう伝えた。
『どれどれ』と言いながら近づいてくる葵を見た瞬間、文章を書いていた時の恥ずかしさが、また心の内側で燃え始めてしまった。私はトイレに行くと言って教室から逃げ出した。薄暗い廊下に出てみるとグラウンドにいる運動部のかけ声や吹奏楽部の演奏が聞こえてきた。
中学の頃はテニス部に入っていた。部員も沢山いた。みんなに見られている中で空振りしたり、転んで尻餅をついたりもした。でもあの時より今この時の方が断然恥ずかしかった。たった一人にしか見られていないのに、なんでこんなに心臓が走ってしまうんだろう。きっと生まれて初めて小説を書いたからだと思った。
美術室に戻った。葵はいつもの席に座っていて、私が書き足したノートに続きを書いていた。私が帰ってきても顔を上げなかった。きっと私が作った文章が支離滅裂だったから、怒ってしまったのかなと思った。少し悲しい気持ちで私も自分の定位置に戻った。
「好きだよ。泉のコトバ!」
葵のその言葉が空間を変えた。教室の外から聞こえてくる雑音が、全て消え去ったような感覚がした。彼女の声、彼女が走らせるシャーペンの音がすぐ近くで聞こえたような気がした。
心臓がまた急加速した。そして、胸の中に何かが芽生える音がした。繊細な弦を指で弾くような、高音で暖かな音。
葵はノートに目を落したままの姿勢だったので、『好きだよ』と言ってくれた時、どんな表情をしていたのかよく見えなかった。
葵が一歩、私に踏み込んできてくれた事が嬉しかった。でも私から近づく事に少し不安があった。踏み出した足が、このまま止まらなくなってしまったらどうしようと思った。きっと葵との距離をゼロにしたくなる。それはきっと友情を超えた『好き』になるってことだ。そんな自分になってしまう事が、少し怖かった。
でも私は葵に近づく道を選んだ。芽生えた気持ちを、もっと確かめたくなった。
私は言った。
「私も葵の絵、好きだよ。これからも、いっぱいラクガキ、しよっか」
「うん…」
葵は広げたノートで顔を隠しながらそう返事をしてくれた。
私たちは教室の真ん中にラクガキ用のスペースを作った。ノートを置いた机をとキャンバスをそこに置いた。行き詰った時はそこへ行って、お互い好き勝手に書いたり描いたりした。
私たちは以前より話をするようになった。
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