桜子さんと書生探偵

里見りんか

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番外編 牧栄進の憂鬱

4 頼もしき助っ人たち

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 突然、強い口調で、「富乃とみのさんは今、部屋ですか?」と問う新伍に、ふさが、

「は……はい………」

 戸惑いながら頷くと、新伍は走り出した。
 お勝手のすぐ隣、女中部屋の扉をトントンと忙しなく叩きながら、

「失礼します。富乃さん、開けますよ?」

 言い終わるが早いか、勢いよく引き戸を開けて、ズカズカと踏み込んだ。

「し……新伍さん……?!」

 桜子も、新伍の後から中を覗く。
 畳の部屋は、隅の方に布団が敷いてあり、掛け布団がこんもりと盛り上がっている。

「富乃さん!!」

 新伍が布団の側で、膝をついて呼びかける。

「富乃さん、起きてください。富乃さん。」

 布団は、小刻みに揺れているが、出てくる気配はない。

「富乃さん、今すぐ僕を連れて行ってくれませんか? あの男の家に。」

 布団が一際大きく、ビクンと揺れた。
 だが、無言だ。

「富乃さん。事は急を有します。貴女のためにも、急いでください。」

 桜子も部屋に入って、新伍の横に座る。

「待って。………待って……ください。」

 急かす新伍に「待った」をかけて、桜子は、そっと布団に手を触れた。震えている。怯えているんだ。

 富乃は、布団のなかで、痣だらけの全身を抱え込むようにして泣いているに違いない。

「お富さん。大丈夫。大丈夫です。」

 桜子は、布団の上から大きく擦った。

「怯えないで。貴女の話を聞くわ。私は、貴女の味方だから。」

 何があったのかは、分からない。それでも、自分より身体の小さな者を殴るようなーーーこんなふうに、痣を作って恐怖で支配するような男は、許せない。

 事情が分からずとも、新伍がこれほど必死に求めている。事は、富乃に関わるという。

 新伍なら、悪いようにはしないだろう。
 桜子は、新伍を信じていた。

 桜子が、何度も「大丈夫ですよ。」と擦っていると、やがて、布団がズリズリと剥がれ落ちて、青白い富乃の顔が覗いた。

「お富さん……?」
「わた……し……」

 富乃は、着物を脱いで、襦袢じゅばん(肌着)一つになっていた。その襦袢の首元から、赤黒い打撲痕が痛々しく覗いている。

 しかし富乃は、それを隠している余裕なんてないようで、ガチガチと震えながら、

「わた……し……私……何も……何もしていません……毒なんて…なのに…なのに、あの人、は、あたしのせいだって……」

「毒? あの事件? 富乃さん、なんのことですか?」

 富乃は、桜子の問いかけなど耳に入っていないようで、何かを思い出すようにブルブル震える身体を擦った。

「私…あの……あの人たちに脅されて、殴られて……でも、あたし、殺してなんていませんッ!! 本当です。」

 錯乱するように首をイヤイヤと左右に激しく振ったとか思うと、桜子に「信じてッ!」と、しがみついた。
 上下の歯がガチガチと鳴り響く。涙で顔を濡らして、髪を振り乱しながら「私は何もやっていないの!」と叫んだ。

「そうなんですね。大丈夫、落ち着いて。」

 桜子が、抱きしめながら、殴られた痣を刺激しないようにと優しく背を擦る。

「でも、あの人……あの人、言うんです。あたしが、みんな殺したって……あたし……もう終わりだって……もう新聞にも載ってるって…警察に行くって…」

 富乃の爪が桜子の腕に食い込んだ。鈍い痛みに桜子は、ギュッと唇を噛み締めたまま、それでも富乃を擦り続けた。

「あの人、私のことを殺すって…自分の命が尽きる前に、私を殺して道連れにするって……全部バラすって…」

 桜子はギュッと富乃を抱きしめた。

「大丈夫。大丈夫ですよ。私と新伍さんが、貴女を殺させたりはしませんから。」

 だからどうか落ち着いて、新伍さんの言うことを聞いてください、とお願いする。

 それを繰り返しているうちに、初めは話しどころではなかった富乃も、少しずつ落ち着いてきたらしい。思いの丈を口にしたせいか、桜子の説得に応じて、ようやく黙った。

 それを見計らって、新伍が口を開く。

「富乃さん。」

 新伍は、富乃の顔をしっかりと覗き込んで尋ねた。

「貴女が言っているのは、あの、のことですか?」

 富乃の身体がビクンと跳ねた。パッと新伍から、目を逸らす。桜子を掴む手が震えていた。
 だが、新伍は構わず続ける。

「もし、あの事件のことを言っているのなら、あれは貴女のせいじゃありません。」

 あの事件のことも、新伍が伝えたいことも、桜子には分からなかった。だが、ここは、余計な口を挟むべき場面ではないことだけは、理解していた。
 新伍を信頼して、任せるのみだ。

「あの者たちが死んだのは、富乃さんのせいではない。貴女はやってません。」

 富乃の顔が、少しだけ、安堵に緩んだ。

「でも、確かめなければならないことがあります。だから行きましょう。あの男のところへ。」

 新伍が富乃に、しかと言葉を届けるように、ゆっくりと告げた。

「大丈夫。桜子さんの言う通り、僕たちが、貴女を死なせません。」
「………はい。」

 富乃は、不安げな様子を多分に残したまま、それでも何とか頷いた。


*  *  *


 男の家のだいたいの位置は、先刻、豆腐屋に聞いた。富乃は、正確な家の場所まで分かるという。

 襦袢姿の富乃が支度をする間に、新伍が、

「ちょっと待っていてください。隣の房さんに声をかけてきます。」

 新伍が出ていった間に、桜子は富乃の支度を手伝った。
 小袖を着た富乃と桜子が女中部屋を出た時、ちょうど、新伍が房と話しているのが見えた。

 何かを告げて、紙を渡す新伍。応じる房が、首を縦に振る。

 新伍が房に、「よろしくお願いします」というように頭を下げてから、桜子たちのほうにやって来た。

「お待たせしました。行きましょう。」
「どうかされましたか?」
「房さんに言付けを。」

 それだけで、「誰に」とも、「何を」とも言わぬまま、新伍が、「急ぎましょう」と歩き出す。
 桜子と富乃も、慌てて後を追った。

 連れ立って、足早に歩く3人。

 そろそろ件の長屋が見えるだろう、というところで、見覚えのある長身とすれ違った。

「アッ!」

 足を止めたのは、新伍と桜子だけではない。相手の男も立ち止まって、くるりと振り返った。
 男は、手慣れた調子で軍帽を脱ぐ。顕になった鋭い目つきは、よく見慣れたものだ。

「藤高少尉ッ?!」
「これは五島さんに、桜子さん。そんなに急いで、どうされましたか?」

 かつて桜子の婚約者候補の一人だった藤高貢ふじたか みつぐ。父親は帝国陸軍の中将であり、本人も若くして少尉だ。

「少尉、軍務の最中ですか?」

 新伍が尋ねる。

「いえ。今、勤務を終えて、藤高の家に帰るところです。」
「丁度いい。一緒に来てください。」
「どちらにですか?」

 無表情な貢の眉間に、僅かにシワが寄った。
 何となく新伍の雰囲気から、只事でないことを察しているらしい。

 新伍が場所を告げると、貢の眉がピクリと動く。

「もしや……?!」
「えぇ、おそらく。」

 それだけで、二人は通じたらしい。

 貢は、「急ぎましょう」と、3人と同じ方へと足を向けた。

 三人は富乃の先導で、軒を連ねている長屋の家々を通り抜ける。と、一軒から、おかしな唸り声。「うゥーー……グォルルル」と、繰り返す声はまるで獣が吠えているようだ。

「あそこですね?」

 新伍と貢の足が、速度を増す。あっという間に富乃と桜子を置き去りにして、その家に飛び込んだ。

 ガタンーーーという大きな音。

 桜子と富乃がようやく、その家に到着したとき、そこには異様な光景が広がっていた。

 焦点の合わない目に、ダラダラと垂れ流す涎。獣の咆哮を繰り返す男の腕を、藤高貢は後ろ手に固めて、上から馬乗りになって抑え込んでいた。

 男の顔には見覚えがある。だが、先程よりも、ずっと具合が悪そうだ。

「桜子さん、水を持ってきてください!!」
「は……はい……」

 新伍に言われて、あたりを見回したが、水瓶は割れている。
 
「隣近所で、貰ってきてください。茶碗一杯でいい。」
「分かりました。」

 桜子は、急いで部屋を飛び出すと、隣の軒を叩く。

「すみませんッ!どなたか水をいただけませんか?どなたか!!」

 すると程無くして、人の良さそうな中年の女が、「なんでしょう?」と、顔を出した。

「すみません。椀に一杯、水をいただけませんか? 隣の方が体調不良で……」

 女は一瞬、困惑したような表情を見せたが、すぐに奥に引っ込んで、椀に入れた水を差し出した。

「あの人、なんか病気ですか? ここのところ、よく唸り声が聞こえて、不気味で……」

「え……えぇ、まぁ……」

 桜子は曖昧に言葉を濁す。

「先日も、この近くで似たような唸り声がして、その後、立て続けに人が死んだし……」

 中年の女は、「イヤだわ。気持ちが悪い」と、両腕を擦りながら、引っ込んだ。

 桜子はその背に礼を告げ、急ぎ水を持って戻った。椀を新伍に渡すと、

「下がって。」

 新伍は、桜子と富乃に告げ、貢に視線で合図を送った。
 貢が、抑え込む手に力を込めるのが分かった。

 新伍が椀を男の前に差し出した。その瞬間ーーー

 男がビクリと身体を震わせ、仰け反らせた。「ヒーッ、ヒーッ……」と、喘ぎながら、喉を掻きむしろうとする男。貢がガッシリと抑え込んでいる下で、苦しそうに藻掻いている。

「やはりそうか……」

 貢が呟く。

「五島さんの見立て通りで、間違いないでしょうね。」

 新伍が険しい目を向けたまま、無言で頷いた。

「さて、私はこのまま男を拘束する必要があるようですので、動けないのですが、この後、どうするつもりですか?」

 貢が新伍に問う。

「ご心配なく。もう呼んでありますから。」
「流石、手際が良い。」

 二人の会話は、あまりにも飾り気がなく、桜子には、何を言い交わしているのか、さっぱり理解が出来ない。

「そろそろ到着すると思うので、僕は迎えに出てきます。」

 新伍がさっと身を翻して、扉の外へ。

「えっ? 待って! 新伍さん、迎えって、何を……」

 桜子の質問が終わる前に、新伍は去った。

 富乃は、家の隅でブルブルと震えながら、成り行きを見守っていたが、

「あ………あ…あの……結局、そ、その人は……?」

 勇気を振り絞るように、貢に尋ねた。

 しかし、貢のほうは、答えるつもりはないらしい。

「五島さんを待ちましょう。すぐに戻ると思いますから。」

 実際、貢の言うとおり、新伍はすぐに戻ってきた。

 何故か、時津ときつを連れて………

「お嬢様ッ!!」

 時津は、部屋に足を踏み入れるや否や、一直線に桜子の側に駆け寄り、顔や腕に触れて検め始めた。

「ご無事ですか? 怪我など……」
「え……えぇ、私は大丈夫ですが……というか、なぜ時津が……?」
「先程、房さんにお願いして、ここに呼んでもらいました。」
「え? 時津をですか?」

 来る前に房と話していたのは、このことだったのだろう。しかし何故、時津を、と疑問に思っていたら、時津の後ろから、見覚えのある老人がひょっこりと顔を出した。

「ありゃりゃ。」

 その老人ーーー湖城家お抱えの医師は、貢に組み敷かれている男を見るなり声を上げた。

「こりゃ、いかん!!」
「間違いありませんか……?」

 新伍の質問に、老医師が

「うむ。間違いない。君と同意見だ。」

 老医師が手早く革鞄から銀の注射器を出すと、男に近づいて、腕にブスリと差した。すると、男がみるみる静かになって、クタッと意識を失った。
 貢が腕の力を抜く。

「鎮静剤じゃ。これで、しばらくは大人しくなるだろう。」

 老医師が、男の腕から抜いた注射器を再び革鞄に片しながら言った。

「あの、先生……この方は何かの病気ですか……?」
「うむ、これは………」

 老医師が答えようと、口を開いた瞬間、

「せっかくだから、五島さんにお話しいただいてはぉうでしょう?」

 男の身体から離れた貢が、軍服についた塵芥を手で払いながら言った。

「どうして、五島さんがに一枚嚙んでいるのかわかりませんがね、ここに、こんなにも大勢引き連れてきたんだ。その理由を、順を追って話してくださいよ。」

「別に、一枚噛んでなんかいませんよ。」

 新伍は肩をすくめた。

「でも、いいでしょう。この際、僕がここに至った理由を、お話させていただきます。」


 そして、また、あの応接間のごとき新伍の謎解きが、この貧乏長屋の簡素な板の間で始まるのだった。

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