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番外編 牧栄進の憂鬱
1 牧家の失せ物
しおりを挟む春の麗らかな陽射し差し込む午後。
湖城邸に帰ってきた桜子は一直線に、応接室に飛び込んだ。
「いらっしゃい!!」
予めイツから聞いていた通り、応接室では、婚約者候補の五島新伍と、幼なじみで東堂商会の次男坊、東堂樹が、向かい合って座って、紅茶を啜っていた。
「おかえりなさい。」
樹が、ティーカップを口から離して、のんびりと微笑む。
「桜子ちゃんは、相変わらず元気だねぇ。」
桜子の後ろからついてきたイツが、呆れ顔で、
「本当に……婚約者の決まった、年頃のお嬢さまとは思えません。」
「婚約者候補、ですのでお間違えなく。」
イツの言葉を、すかさず新伍が訂正した。
新伍の言う通り、桜子の婚約者選びは紆余曲折を経て、とりあえず、新伍が唯一の『婚約者候補』となることで落ち着いたーーーのだが、
「新伍さん。そこ、わざわざ強調しなくてもいいと思いますけど……?」
桜子が頬を膨らませながら、新伍の隣の椅子に腰掛けた。その桜子の前に、イツが紅茶の入ったティーカップを置く。
桜子は新伍に、
「お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。」
今日、お茶に来るようにと誘ったのは、桜子だったが、思ったよりも帰りが遅くなってしまった。
「いえ、たまたま樹さんがみえていたので、話し相手になっていただき、楽しかったですよ。」
「あら、どんなお話ですか? 楽しいお話なら、私も教えてください。」
「そうですねぇ……」
新伍は、机の上の帝都新聞を、指でトンと弾いて、
「先週から、この近くの長屋で、男が三人、立て続けに亡くなったそうで。たいそう苦しんで、藻掻いたような死に様だったのだとか。」
すると樹が、「うーん」と、顎の下に手を当てて、
「痙攣と書いてあるので、僕は破傷風かなぁ、と。あれは、怖いですからね。」
「それは、どうでしょう? 破傷風は、人から人へは伝染らないといいますよ。同じ場所で相次いで……ということなら、他の流行り病という可能性もありますし、あるいは……集団毒殺………」
「ど……毒殺だなんて、イツさんや桜子ちゃんの前で、物騒ですよ……」
穏やかならぬことを論じ合う二人。桜子は眉間に皺を寄せて、
「そんなの全然楽しい話じゃないわ。もっと明るい話題はないのですか?」
「明るい話題……というと、例えば、つい先程まで、繊維業界の今後の展望について樹さんに教えを乞うていましたが、桜子さんも聞きますか?」
さすがに繊維は景気がいいですよ、と楽しそうに笑う新伍に、
「………やっぱり、もういいです。」
新伍は飄々とした変わり者だが、これでも帝国大学の学生。知識は豊富で、頭も切れる。また、何にでも興味をもって、あれこれ詮索する探偵気質の持ち主でもある。
実際に先日、新伍の優れた洞察力で、桜子への脅迫事件と殺人事件を鮮やかに解決したのだ。
だが、だからといって、桜子は、そんな話を新伍とするために呼んだわけじゃない。
「ところで桜子ちゃんは、随分遅かったんだね? 予定では、2時に戻ると言っていたそうなのに。」
樹が、二人の間に割って入って、穏やかに話題をかえた。
「牧栄進くんのところに行っていたんだって?」
牧栄進は、桜子の従兄弟で、昔から湖城家によく出入りしていたから、樹とも顔見知りだった。
「えぇ。帰り際、栄進ちゃんが是非にと言うので、大福をいただいて……」
「まぁッ?! 大福ですって?」
耳聡く聞いていたイツが、皿を出しかけた手をピタリと止めた。樹が、可笑しそうに、
「おやおや、じゃあ僕が持ってきたバターケーキは食べられないね。銀座に出来た新しいお店だって、お客さんに頂いたんだけど……」
「えッ?! あのお店のバターケーキ? 学校で皆、噂していたわ!」
桜子は目を輝かせて、「食べたい、食べたい」と、イツの手の皿を見たが、
「ダメですよ。」
イツが、ひょいと皿を下げてしまった。
「あっ……」
「だって大福食べたんでしょう? そのうえバターケーキだなんて、おやつの食べ過ぎです。」
「あれは……えぇーっと……嘘っ!ウソなの?! 大福は、食べてないわ。もう、お腹ペコペコ。」
わざとらしく腹を擦る桜子を見て、新伍がクツクツと笑った。
「だめですよ、桜子さん。そんなこと言っても、ここに動かぬ証拠があります。」
そう言って、新伍は、机の上のナフキンを取ると、桜子の頬をスッと拭った。
「ッ……?!」
驚いて、思わず仰け反る桜子。触れられた頬が、カッと熱くなった………のだが、残念ながら、新伍のほうは全く意識している様子もなく、拭ったナフキンを掲げながら、憎たらしい程、飄々と言った。
「ほら、大福の粉が頬に着いてしましたよ。」
「えっ?! ヤダわッ!!」
桜子は、慌ててイツにナフキンを貰う。みっともない姿を見せてしまったという恥ずかしさに、ゴシゴシと頬を拭った。
「やっぱりバターケーキはお預けですね。」
イツが笑いながら、皿を片付けた。
「あぁっ……私、まだまだ食べられるのに………」
下げられていくバターケーキを名残惜しそうに見つめていると樹が、
「ところで、桜子ちゃん。」
机の上に置いた桜子の小さな巾着を指して、尋ねた。
「さっきから気になっていたんだけど、その巾着、以前はべっ甲の根付がついていなかった?」
「根付?」
「可愛らしい根付だったけど、外してしまったの?」
確かに、この巾着の紐にはべっ甲細工のウサギの根付がついていた。だが、樹に言われてみれば、それが見当たらない。
「あら、本当。根付がないわ。」
流石というべきか、樹は、呉服屋の息子らしく、こういうことに、よく気づく。
イツも、どれどれと覗き込んだ。
「あれ? 本当にないわ。行く前に準備したときは、確かにありましたよ?」
「じゃあ、栄進ちゃんのところで失くしたのかしら?」
「先日もあちらを訪問したあと、櫛が失くなったと仰ってませんでした?」
「最近、あの家、いろんな物がなくなるみたいなのよね。」
二人の会話に新伍が、
「いろいろな物がなくなる……?」
不審げに尋ねた。
「それは、穏やかではありませんね? 確か、牧家は華族でしたよね?」
「えぇ。まぁ、男爵家です。」
牧家は、桜子の亡き母の姉が嫁いだ家だった。母の生家は伯爵位で、伯母は縁のある男爵家へ、母は、爵位のない実業家の父の元に嫁いだのだ。
新伍は、興味をそそられたのか、「ふぅん……」と、身を乗り出してきて、
「他には、どんな物が失くなったのですか?」
「他……ですか?」
桜子は、これまで牧家で耳にした話を思い出しながら、
「えぇっと……私が聞いたのは、履物とか食材とか……あと、奥さまの帯留めがなくなったと聞きました。」
「帯留め? 高価なものですか……?」
「あ、いえ。お家に代々伝わるような代物ではなく、普段遣いの物だそうです。」
勿論、華族の奥様がするものだから、普段遣いでも、決して悪い物ではないはずだ。
牧家は家柄こそ男爵家だが、そう裕福ではない。装飾品が失くなるのは、困るだろう。
イツが心配そうに口を挟む。
「たとえ高価な物でなくとも、奥さまの帯留めがなくなるというのは……。下手したら私達女中の責任を問われます。」
「そうね。結局、その後どうなったのかしら? 私の櫛のように、出てきているといいのだけれど。」
「桜子さんの櫛はどれくらいで見つかったんですか?」
新伍が尋ねた。
「えぇっと…二、三日後だったかしら? その前に失くした髪飾りも、それくらいで。いつも、しばらくすると、見つかったと、うちに届きますもの。」
「そういえば、そうでしたね。」
イツも首肯く。
「じゃあ、きっと帯留めも見つかりますわね」
「だといいけど……」
ちょうどその時、「失礼します」と、男の子が応接室に入ってきた。
「お嬢さまに、お客様です。」
痩せた身体から、愛らしい声で発する言葉が、ややぎこちなく響く。イツが、
「あら、剛。ありがとう。どなたかしら?」
「牧家の栄進様です。」
剛と呼ばれた子が、ハキハキと答えた。
樹が剛に声をかける。
「おや、剛くん。久しぶりだね。学校は終わったのかな?」
「お久しぶりです、樹さま。先程、学校から帰ってまいりました。」
剛と呼ばれた、この子は、かつて桜子の婚約者候補の一人だった園枝有朋の隠し子だ。有朋が亡くなり、母親であるトワが警察に掴まったため、今は、湖城で面倒を見ている。
もともとは酷い喘息を患っていたのだが、日当たりの良い部屋で、栄養のある食事を摂るようになってから、症状が、かなり軽快した。
まだ時折、咳き込んでしまうこともあるが、様子をみながら、尋常小学校に通い、それ以外の時間は、体調と相談しながら、湖城家の雑用を手伝っている。
「そうか。じゃあ、これは君へのお土産だよ。」
樹が懐から和紙に包まれた何かを取り出して、剛の前で広げた。
「金平糖だよ。後で食べるといい。」
目の前に現れた星型の砂糖菓子に、剛の瞳が子供らしくキラキラと輝く。が、すぐに、貰って良いものかと、心配そうに、桜子の方を見た。
桜子が、頂いて構わないと言うと、
「ありがとうございます!」
剛は、嬉しそうに、頭を下げて金平糖を受け取った。和紙を丁寧に包んで、懐にしまうと、
「あの……栄進さまを、こちらにご案内してよろしいですか?」
「えぇ、お願い。」
桜子に了承を得て、部屋を出ていく。
程なくして、剛は、彼より少し年上の、利発な顔をした少年ーーー栄進を連れて戻ってきた。
栄進は、キョロキョロとあたりを見回したが、すぐに桜子を見つけて破顔した。
「桜子お姉さん!!」
桜子が、立ち上がって栄進を出迎える。
「栄進ちゃん、どうしたの?」
桜子は、ついさっき牧家を辞したばかりだ。
「何かあったのかしら?」
不思議に思って尋ねた桜子に、栄進は、黒いベストのポケットから何か取り出した。
「これ……僕の部屋に落ちていました。」
手のひらには、ウサギを象ったべっ甲の根付。
「あら、ありがとう。ちょうど探していたの。紐が緩んでいたのかしら?」
受け取る桜子。
「わざわざ届けに来てくれたの?」
「はい。探しているといけないと思って……」
すると、やり取りを見ていた新伍が
「桜子さん。その巾着、ちょっと見せてもらえますか?」
「え? 巾着ですか?」
桜子が、「どうぞ」と巾着を渡すと、新伍は、何やら紐のあたりを触って、検め始めた。
それを見ていた栄進が、訝しげに尋ねた。
「桜子お姉さん、その方はどなたですか?」
「あぁ、栄進ちゃんは、会うのは初めてだったわね。この方は五島新伍さん。帝国大学の学生で、三善中将のお宅で書生をしているのよ。そして……」
桜子はスススと新伍の隣に移動すると、
「私の婚約者………………候補でもあります。」
一瞬だけ、候補という言葉を言おうかどうか躊躇ったから変な間が生まれた。結局、嘘はつけないと思い、素直に告げたのだが。
「桜子お姉さんの……婚約者……?」
ここであえて候補を強調することはないだろう。桜子は、ニコリと頷く。
「えぇ、そうよ。」
栄進は、驚いたのか、パチパチと何度か瞬きをして、口をパクパクさせていたが、すぐに、いつもの落ち着きを取り戻し、
「……初めまして。桜子お姉さんの従兄弟の牧栄進です。」
と、頭を下げた。
「初めまして。」
新伍は頭を下げるや否や、栄進に尋ねた。
「ところで最近、お宅で物が失くなるという話を聞いたのですが……」
「……それが、何か?」
栄進はやや不快げに顔を歪めて、「まさか、我が家に泥棒がいるとでも、疑っているんですか?」と、言い返す。
「そういうわけではありませんが……結局、失せ物は出てきたんですか?」
「出てくるものもあれば、出てこないものもあります。」
「なるほど。ちなみに、奥さまの帯留めは見つかりましたか?」
「まだ……ですが……」
二人の会話を聞いていた樹が、妙案を思いついたとばかりに、「ちょうど良いじゃないですか!」と、人良さそうな顔で言った。
「その失せ物、五島さんに見つけてもらうのはどうでしょう?」
「見つける? この方が……?」
栄進は、胡散臭い不審者を見るかのような目で、新伍を値踏みする。
「五島さんは、こう見えて、ただの書生さんじゃないんだよ。なかなか優れた推理力をお持ちなんです。」
樹の大げさな紹介に、新伍が、「いやいや、ただの書生です」と謙遜した。
「でも、桜子ちゃんの危機を救ったのも、五島さんじゃありませんか。」
「そう……なんですか?」
栄進は改めて、新伍の顔をまじまじと眺めた。先程より、やや関心を抱いたらしい。
「本当に、この人が、桜子姉さんの危機を……?」
「新伍さんは、本当にすごいのよ! 確かに新伍さんなら、失くしものを見つけてくれるかも。」
桜子が言うと、栄進は、ちょっとだけ嫌そうな顔をしてから、
「そうなんですか? うーん……そこまで言うなら、是非、当家の失せ物を探してみせてください。」
どこか挑戦的な響きを帯びた声で言った。
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