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第四幕 解明
30 トワの後悔1
しおりを挟む桜子と話して、トワは心を決めた。
身を引く、という覚悟の心を。
妾として生きる道もあった。
けれど剛は、いずれ気づくだろう。日陰に生きなければならない母と自分のことに。
身を引くと決めた理由は、それだけではなかった。
桜子という人間を好きになったのだ。
夜会で出会い、トワを助けてくれた。トワの外見を馬鹿にすることなく、接してくれた。
そして、女も自分の意志で生きていいのだと言う。
そういう心の真っ直ぐさが、明るさが、眩しくて心惹かれた。
自分たちの存在は、いずれ桜子を苦しめることになる。そう思うと、離れる以外の選択肢はなかった。
このまま、何も起きなければ………ーーー
秋口にしては珍しく、酷く冷え込んだ晩のことだった。
隣で寝ていた剛が咳き込んだ。
慌ててて起きて、医者から貰っていた薬湯を飲ませ、背をさすったが、一向に治まる様子がない。
このまま吐いてしまうのではないか、心臓ごと飛び出てしまうのではないか……と心配になるような咳を、何度も何度も繰り返す。
咳は日が昇るまで続いた。
明け方になり、咳はようやく治まったが、よく眠れてないらしく、顔が青白い。
息をするたびに、胸からヒューヒューと音がなる。
「剛、大丈夫だからね……」
朝一番に来てもらった医者が、新しくくれた薬が効いて、ようやく眠り始めた剛の額を撫でながら、先程、医者に言われたことが脳裏によぎる。
「少し環境を変えたほうが良い。ここは湿気が多く、カビ臭いですよ。」
そういうのは、剛の咳に良くないのだそうだ。
「この咳も、薬で止められている間は良いが、あんまり繰り返していると………」
その先は、怖くて聞けなかった。
剛は、静かに寝ている。
ヒューヒューという音は収まり、胸は静かに上下している。
剛の診療代は、すべて有朋が払ってくれていた。
もし有朋と離れて、トワは一人で、剛を守れるだろうか。
桜子を悲しませたくはない。
でも、剛を守りたい。
意を決したトワは、有朋に告げた。
「まとまった金子を頂きたいのです。」
その代わり自分は身を引くから、と。
初め、目を丸くして驚いた有朋は、すぐに戸惑うような表情に変わり、
「……意味が分からない。」
眉間にしわを寄せた。
「私は、結婚しても君たちの面倒をみる、と言ったはずだけど……?」
「貴方が婚約するにあたり、身辺を整えたほうがいいでしょう? 私は自ら身を引くので、構いません。剛のこともありますし……」
「剛?」
「ただでさえ、身体の弱い子です。この先もずっと日陰者として育ててよいのか……辛い思いをさせるのが心配で……」
「あぁ……」
このとき、トワは気づいていなかった。すでに、トワにとって守りたいものと、有朋の考える大事なものが、すれ違っていることに。
「なぁ、トワ? 最近、思うんだ。剛の身体が弱いのは、天命なんじゃないかって。」
「どういう……意味ですか?」
「先生は、環境を変えればと言っているけど、そんなことで剛の症状が改善するとは思わない。今で治らないなら、それが剛の寿命なんだよ。」
身体の奥底が、ヒュンと冷えた。
重く冷たい何かを押し当てられたように、ズンと痛む。
剛が起きていなくて良かった、と思った。
実の父親が放つ、こんな言葉を、剛に聞かせたくはない。
それまで、3日に一度は顔を出していた有朋は、その日から一週間が過ぎても、トワの家に来なかった。
今すぐに、有朋の元を離れようか。
何度も、何度も自答した。
このまま、会わずに消えるという選択肢もあった。
だがトワは結局、意を決して、有朋に会いに行くことを選んだ。
少しでもいいから、剛のための治療費を貰いたかったから、僅かな可能性に縋ったのだ。
トワは、園枝の家に向かった。
表門は常時、門番がいて、許可のない人間が入ることはできない。しかし、裏に使用人のための勝手口がある。
トワは、そこから中に入り、使用人たちの部屋に入った。目立たないように、女中の着物を一つ借りる。着物は、紐で縛って調整するから、大きいトワでも着られるのが良い。
トワは意識して、身体を丸く縮めて、歩いた。
そうしないと、背が高くて、目立ってしまう。
このまま、どこかに隠れて、有朋が通るのを待とうと思った。
ちょうど、そのときだった。
洋館の本邸から出てくる有朋を見つけた。
「有朋さま……」
はじめは自家の女中が話しかけて来たと思ったようだったが、すぐに、その正体に気づくと、有朋は驚いて目を見開いた。そして、顔が不快に歪む。
「……こんなところで、何をしている。」
有朋は、トワの手を引いて、庭の奥へと誘った。
「皆に見られたら困るだろう。」
有朋は、そう言って、庭にある小さな小屋の中へと連れて行った。
小屋の中は植物の鉢植えがたくさん並んでいて、暖かかった。
「ここは……?」
「温室だ。温室というのは……」
説明しかけてから、「いや、そんなことはどうでもいい。」と、苛々しながら自らの話を遮る。
「トワがなぜ、ここにいる?」
「有朋さまとお話したくて。」
「その服はどうした?」
「以前、夜会のときに臨時雇いの女中として、お世話になったことが…」
夜会の手伝いの話は、有朋は知らない。やはり、あからさまに顔を顰めた。
「よりによって、そんな格好で来るなんて。他の使用人たちに見られたら、私が困ると考えなかったのか?」
有朋の苦言にも、トワは気にせず話を続けた。
「有朋さまのご婚約の話、進んでいるのでしょう? 今日も、ご婚約者の方を招いているのだとか……」
「なぜまた、その話になるんだ?」
有朋の足が、パタパタと地面を打つ。あからさまに苛ついていた。
「君を手放すつもりはない、と言っただろう。」
それでも、トワは怯まなかった。
「いいえ。私は、有朋さまの元を離れます。その代わりに、剛を助けるためのお金をください。」
これは、トワのためじゃない。剛のためだ。
「誰ッ……が、そんなことを頼んだッ!!」
ガンという鈍い音が響く。
有朋が、小屋の柱を拳で打った。
「私はお前を手放すつもりはない。」
「では、剛のことは? 剛を助けるつもりはあるのですか?」
その言葉に、有朋が苛々とした口調で、
「言っただろう? 剛の命が尽きたら、それは天命なのだ、と。………クソッ、あの子がいるから、トワがそんなことを言い出したのかッ……」
その顔と言葉で、確信へと変わった。
「剛が……疎ましいのですね?」
有朋がフイと顔を逸らす。
あぁ、やっぱりそうなんだ。
「身体が弱いから…ですか? それとも、男だから……?」
トワの責めるような言い方に、有朋がため息をついた。
「正直に言おう。」
細くて綺麗な指先を、トワの頬に伸ばす。
「トワ。君は、私にとって理想の女だ。君ほど美しい人はいない。それでいて、奥ゆかしく控えめで……容姿も性格も、全て私好みなんだ。」
「……湖城のお嬢さまは…?」
「桜子さんは……まぁ、一般的には可愛らしいんだろうね。小柄で。でも、本音を言うと、私の好みじゃない。」
「でも、お嬢さまと婚約するのでしょう?」
「当たり前だ。婚約は、家どうしの繋がりだからね。湖城家は、財力としても申し分ない。それも、うちが主導権を握れる程度の差があるところも良い。上流階級の教育を受けているし、品もある。湖城家は無位だが、桜子さんの母は伯爵家の出だ。」
「ならば、私のことなど、お忘れになって……」
「だめだ。私は君を手放せない。仮に桜子さんを妻に迎えても、私の気持ちは君の元にある。」
有朋との関係を始めたばかりの頃は、この言葉を手放しで喜んだだろう。
それこそ、つい最近まで、満更でもない気持ちになったに違いない。
でも、今は違う。
どこまでも、乾いた気持ちが広がっている。それは、有朋の言葉の裏にある、本当の気持ちに気づいているから。
「……じゃあ、剛は?」
自分の喉から出たとは思えないほどに、冷たい音がした。
「剛は……貴方の子どもは、どうなんですか? 私と同じように、あなたにとって手放せないもの、なんですか? それとも、あなたにとって剛は………」
鉛のような思い言葉を、吐くように問う。
「剛は、要らないもの……ですか?」
「子どもは……」
有朋がスッと視線を反らした。
「正妻との間にもうける。」
まずは、それが先で、それでできなければ、丈夫な跡継ぎを産んでもらいたい、と有朋は言った。
丈夫な跡継ぎ……
つまり、剛ではない。
有朋にとって、剛は……
剛は…ーーー
気付いたときには、目の前に、有朋が倒れていた。
頭から血を流して、うつ伏せに。
自分の手には鉢植えの硬い鉢が握られていて、血がポタリ、ポタリと滴り落ちていた。
「………あっ」
トワは、ヨロリと一歩後ずさった。
「アァ……アァァ………」
手に握られていた硬い凶器を地面に置いて、トワは駆け出した。
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