30 / 44
第四幕 解明
30 トワの後悔1
しおりを挟む桜子と話して、トワは心を決めた。
身を引く、という覚悟の心を。
妾として生きる道もあった。
けれど剛は、いずれ気づくだろう。日陰に生きなければならない母と自分のことに。
身を引くと決めた理由は、それだけではなかった。
桜子という人間を好きになったのだ。
夜会で出会い、トワを助けてくれた。トワの外見を馬鹿にすることなく、接してくれた。
そして、女も自分の意志で生きていいのだと言う。
そういう心の真っ直ぐさが、明るさが、眩しくて心惹かれた。
自分たちの存在は、いずれ桜子を苦しめることになる。そう思うと、離れる以外の選択肢はなかった。
このまま、何も起きなければ………ーーー
秋口にしては珍しく、酷く冷え込んだ晩のことだった。
隣で寝ていた剛が咳き込んだ。
慌ててて起きて、医者から貰っていた薬湯を飲ませ、背をさすったが、一向に治まる様子がない。
このまま吐いてしまうのではないか、心臓ごと飛び出てしまうのではないか……と心配になるような咳を、何度も何度も繰り返す。
咳は日が昇るまで続いた。
明け方になり、咳はようやく治まったが、よく眠れてないらしく、顔が青白い。
息をするたびに、胸からヒューヒューと音がなる。
「剛、大丈夫だからね……」
朝一番に来てもらった医者が、新しくくれた薬が効いて、ようやく眠り始めた剛の額を撫でながら、先程、医者に言われたことが脳裏によぎる。
「少し環境を変えたほうが良い。ここは湿気が多く、カビ臭いですよ。」
そういうのは、剛の咳に良くないのだそうだ。
「この咳も、薬で止められている間は良いが、あんまり繰り返していると………」
その先は、怖くて聞けなかった。
剛は、静かに寝ている。
ヒューヒューという音は収まり、胸は静かに上下している。
剛の診療代は、すべて有朋が払ってくれていた。
もし有朋と離れて、トワは一人で、剛を守れるだろうか。
桜子を悲しませたくはない。
でも、剛を守りたい。
意を決したトワは、有朋に告げた。
「まとまった金子を頂きたいのです。」
その代わり自分は身を引くから、と。
初め、目を丸くして驚いた有朋は、すぐに戸惑うような表情に変わり、
「……意味が分からない。」
眉間にしわを寄せた。
「私は、結婚しても君たちの面倒をみる、と言ったはずだけど……?」
「貴方が婚約するにあたり、身辺を整えたほうがいいでしょう? 私は自ら身を引くので、構いません。剛のこともありますし……」
「剛?」
「ただでさえ、身体の弱い子です。この先もずっと日陰者として育ててよいのか……辛い思いをさせるのが心配で……」
「あぁ……」
このとき、トワは気づいていなかった。すでに、トワにとって守りたいものと、有朋の考える大事なものが、すれ違っていることに。
「なぁ、トワ? 最近、思うんだ。剛の身体が弱いのは、天命なんじゃないかって。」
「どういう……意味ですか?」
「先生は、環境を変えればと言っているけど、そんなことで剛の症状が改善するとは思わない。今で治らないなら、それが剛の寿命なんだよ。」
身体の奥底が、ヒュンと冷えた。
重く冷たい何かを押し当てられたように、ズンと痛む。
剛が起きていなくて良かった、と思った。
実の父親が放つ、こんな言葉を、剛に聞かせたくはない。
それまで、3日に一度は顔を出していた有朋は、その日から一週間が過ぎても、トワの家に来なかった。
今すぐに、有朋の元を離れようか。
何度も、何度も自答した。
このまま、会わずに消えるという選択肢もあった。
だがトワは結局、意を決して、有朋に会いに行くことを選んだ。
少しでもいいから、剛のための治療費を貰いたかったから、僅かな可能性に縋ったのだ。
トワは、園枝の家に向かった。
表門は常時、門番がいて、許可のない人間が入ることはできない。しかし、裏に使用人のための勝手口がある。
トワは、そこから中に入り、使用人たちの部屋に入った。目立たないように、女中の着物を一つ借りる。着物は、紐で縛って調整するから、大きいトワでも着られるのが良い。
トワは意識して、身体を丸く縮めて、歩いた。
そうしないと、背が高くて、目立ってしまう。
このまま、どこかに隠れて、有朋が通るのを待とうと思った。
ちょうど、そのときだった。
洋館の本邸から出てくる有朋を見つけた。
「有朋さま……」
はじめは自家の女中が話しかけて来たと思ったようだったが、すぐに、その正体に気づくと、有朋は驚いて目を見開いた。そして、顔が不快に歪む。
「……こんなところで、何をしている。」
有朋は、トワの手を引いて、庭の奥へと誘った。
「皆に見られたら困るだろう。」
有朋は、そう言って、庭にある小さな小屋の中へと連れて行った。
小屋の中は植物の鉢植えがたくさん並んでいて、暖かかった。
「ここは……?」
「温室だ。温室というのは……」
説明しかけてから、「いや、そんなことはどうでもいい。」と、苛々しながら自らの話を遮る。
「トワがなぜ、ここにいる?」
「有朋さまとお話したくて。」
「その服はどうした?」
「以前、夜会のときに臨時雇いの女中として、お世話になったことが…」
夜会の手伝いの話は、有朋は知らない。やはり、あからさまに顔を顰めた。
「よりによって、そんな格好で来るなんて。他の使用人たちに見られたら、私が困ると考えなかったのか?」
有朋の苦言にも、トワは気にせず話を続けた。
「有朋さまのご婚約の話、進んでいるのでしょう? 今日も、ご婚約者の方を招いているのだとか……」
「なぜまた、その話になるんだ?」
有朋の足が、パタパタと地面を打つ。あからさまに苛ついていた。
「君を手放すつもりはない、と言っただろう。」
それでも、トワは怯まなかった。
「いいえ。私は、有朋さまの元を離れます。その代わりに、剛を助けるためのお金をください。」
これは、トワのためじゃない。剛のためだ。
「誰ッ……が、そんなことを頼んだッ!!」
ガンという鈍い音が響く。
有朋が、小屋の柱を拳で打った。
「私はお前を手放すつもりはない。」
「では、剛のことは? 剛を助けるつもりはあるのですか?」
その言葉に、有朋が苛々とした口調で、
「言っただろう? 剛の命が尽きたら、それは天命なのだ、と。………クソッ、あの子がいるから、トワがそんなことを言い出したのかッ……」
その顔と言葉で、確信へと変わった。
「剛が……疎ましいのですね?」
有朋がフイと顔を逸らす。
あぁ、やっぱりそうなんだ。
「身体が弱いから…ですか? それとも、男だから……?」
トワの責めるような言い方に、有朋がため息をついた。
「正直に言おう。」
細くて綺麗な指先を、トワの頬に伸ばす。
「トワ。君は、私にとって理想の女だ。君ほど美しい人はいない。それでいて、奥ゆかしく控えめで……容姿も性格も、全て私好みなんだ。」
「……湖城のお嬢さまは…?」
「桜子さんは……まぁ、一般的には可愛らしいんだろうね。小柄で。でも、本音を言うと、私の好みじゃない。」
「でも、お嬢さまと婚約するのでしょう?」
「当たり前だ。婚約は、家どうしの繋がりだからね。湖城家は、財力としても申し分ない。それも、うちが主導権を握れる程度の差があるところも良い。上流階級の教育を受けているし、品もある。湖城家は無位だが、桜子さんの母は伯爵家の出だ。」
「ならば、私のことなど、お忘れになって……」
「だめだ。私は君を手放せない。仮に桜子さんを妻に迎えても、私の気持ちは君の元にある。」
有朋との関係を始めたばかりの頃は、この言葉を手放しで喜んだだろう。
それこそ、つい最近まで、満更でもない気持ちになったに違いない。
でも、今は違う。
どこまでも、乾いた気持ちが広がっている。それは、有朋の言葉の裏にある、本当の気持ちに気づいているから。
「……じゃあ、剛は?」
自分の喉から出たとは思えないほどに、冷たい音がした。
「剛は……貴方の子どもは、どうなんですか? 私と同じように、あなたにとって手放せないもの、なんですか? それとも、あなたにとって剛は………」
鉛のような思い言葉を、吐くように問う。
「剛は、要らないもの……ですか?」
「子どもは……」
有朋がスッと視線を反らした。
「正妻との間にもうける。」
まずは、それが先で、それでできなければ、丈夫な跡継ぎを産んでもらいたい、と有朋は言った。
丈夫な跡継ぎ……
つまり、剛ではない。
有朋にとって、剛は……
剛は…ーーー
気付いたときには、目の前に、有朋が倒れていた。
頭から血を流して、うつ伏せに。
自分の手には鉢植えの硬い鉢が握られていて、血がポタリ、ポタリと滴り落ちていた。
「………あっ」
トワは、ヨロリと一歩後ずさった。
「アァ……アァァ………」
手に握られていた硬い凶器を地面に置いて、トワは駆け出した。
0
お気に入りに追加
120
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】共生
ひなこ
ミステリー
高校生の少女・三崎有紗(みさき・ありさ)はアナウンサーである母・優子(ゆうこ)が若い頃に歌手だったことを封印し、また歌うことも嫌うのを不審に思っていた。
ある日有紗の歌声のせいで、優子に異変が起こる。
隠された母の過去が、二十年の時を経て明らかになる?
伏線回収の夏
影山姫子
ミステリー
ある年の夏。俺は15年ぶりにT県N市にある古い屋敷を訪れた。大学時代のクラスメイトだった岡滝利奈の招きだった。屋敷で不審な事件が頻発しているのだという。かつての同級生の事故死。密室から消えた犯人。アトリエにナイフで刻まれた無数のX。利奈はそのなぞを、ミステリー作家であるこの俺に推理してほしいというのだ。俺、利奈、桐山優也、十文字省吾、新山亜沙美、須藤真利亜の6人は大学時代、この屋敷でともに芸術の創作に打ち込んだ仲間だった。6人の中に犯人はいるのか? 脳裏によみがえる青春時代の熱気、裏切り、そして別れ。懐かしくも苦い思い出をたどりながら事件の真相に近づく俺に、衝撃のラストが待ち受けていた。
《あなたはすべての伏線を回収することができますか?》
男子高校生だった俺は異世界で幼児になり 訳あり筋肉ムキムキ集団に保護されました。
カヨワイさつき
ファンタジー
高校3年生の神野千明(かみの ちあき)。
今年のメインイベントは受験、
あとはたのしみにしている北海道への修学旅行。
だがそんな彼は飛行機が苦手だった。
電車バスはもちろん、ひどい乗り物酔いをするのだった。今回も飛行機で乗り物酔いをおこしトイレにこもっていたら、いつのまにか気を失った?そして、ちがう場所にいた?!
あれ?身の危険?!でも、夢の中だよな?
急死に一生?と思ったら、筋肉ムキムキのワイルドなイケメンに拾われたチアキ。
さらに、何かがおかしいと思ったら3歳児になっていた?!
変なレアスキルや神具、
八百万(やおよろず)の神の加護。
レアチート盛りだくさん?!
半ばあたりシリアス
後半ざまぁ。
訳あり幼児と訳あり集団たちとの物語。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
北海道、アイヌ語、かっこ良さげな名前
お腹がすいた時に食べたい食べ物など
思いついた名前とかをもじり、
なんとか、名前決めてます。
***
お名前使用してもいいよ💕っていう
心優しい方、教えて下さい🥺
悪役には使わないようにします、たぶん。
ちょっとオネェだったり、
アレ…だったりする程度です😁
すでに、使用オッケーしてくださった心優しい
皆様ありがとうございます😘
読んでくださる方や応援してくださる全てに
めっちゃ感謝を込めて💕
ありがとうございます💞
消された過去と消えた宝石
志波 連
ミステリー
大富豪斎藤雅也のコレクション、ピンクダイヤモンドのペンダント『女神の涙』が消えた。
刑事伊藤大吉と藤田建造は、現場検証を行うが手掛かりは出てこなかった。
後妻の小夜子は、心臓病により車椅子生活となった当主をよく支え、二人の仲は良い。
宝石コレクションの隠し場所は使用人たちも知らず、知っているのは当主と妻の小夜子だけ。
しかし夫の体を慮った妻は、この一年一度も外出をしていない事は確認できている。
しかも事件当日の朝、日課だったコレクションの確認を行った雅也によって、宝石はあったと証言されている。
最後の確認から盗難までの間に人の出入りは無く、使用人たちも徹底的に調べられたが何も出てこない。
消えた宝石はどこに?
手掛かりを掴めないまま街を彷徨っていた伊藤刑事は、偶然立ち寄った画廊で衝撃的な事実を発見し、斬新な仮説を立てる。
他サイトにも掲載しています。
R15は保険です。
表紙は写真ACの作品を使用しています。
若月骨董店若旦那の事件簿~水晶盤の宵~
七瀬京
ミステリー
秋。若月骨董店に、骨董鑑定の仕事が舞い込んできた。持ち込まれた品を見て、骨董屋の息子である春宵(しゅんゆう)は驚愕する。
依頼人はその依頼の品を『鬼の剥製』だという。
依頼人は高浜祥子。そして持ち主は、高浜祥子の遠縁に当たるという橿原京香(かしはらみやこ)という女だった。
橿原家は、水産業を営みそれなりの財産もあるという家だった。しかし、水産業で繁盛していると言うだけではなく、橿原京香が嫁いできてから、ろくな事がおきた事が無いという事でも、有名な家だった。
そして、春宵は、『鬼の剥製』を一目見たときから、ある事実に気が付いていた。この『鬼の剥製』が、本物の人間を使っているという事実だった………。
秋を舞台にした『鬼の剥製』と一人の女の物語。

魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる