桜子さんと書生探偵

里見りんか

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第三幕 急転

23 脱出

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 何者かが、部屋を出ていった後、

「あの…五島さん?」
「シッ!……もう少し、静かにしていましょう。」

 新伍の言葉に、桜子は無言で頷いた。

 口を噤んで、どれくらいが経っただろう。
 視界を奪われていると、時間の流れが鈍く感じる。

 時折、外で風が吹くような音だけが、桜子にとって、唯一の情報だった。

 とんでもなく長い時間が経ったようにも感じるし、ひょっとしたら、ほんの僅かなときだったのかもしれない。

「……そろそろかな。」

 新伍が口を開いた。と、同時に、急に視界が開けた。

 眩しくはない。
 ただ、薄ぼんやりとした景色が滲むだけ。

 その視界の中に、ふいに、濃い輪郭を伴って、新伍の顔が飛び込んできた。

「大丈夫ですか? 見えますか?」
「キャッ!!」

 思わず、後ろに仰け反ったが、すぐに、

「大丈夫……大丈夫、です。」

 胸に手を当て深呼吸して、落ち着きを取り戻すと、新伍を見つめた。

 新伍は、左頬のあたりが、やや腫れているが、そこまで重症には見えなかった。

「良かった。まぁ、桜子さんに乱暴するつもりはないみたいでしたけど。」

 目に続いて、両手が解放された。
 新伍が解いてくれたのだ。

「あっ、小刀……」

 新伍の手には、懐に忍ばすような、小さな刀が握られている。

「さっきの人が落としていきました。」

 新伍の首に当てられていた刃。そういえば、カランと落ちる音がした。

「残していったの? そんなことすれば……」
「僕たちに逃げられる。えぇ、分かっているでしょうね。」

 逃げられることを承知で残していったのだ。それじゃ、まるでーーー

「逃してくれるつもりなんですよ。」

 新伍も、桜子が考えたことと同じことを言った。

「ど……どうして?」
「さぁ? 僕は分からないけど……桜子さんなら、分かるんじゃないですか?」

 桜子は、右手に握らされた布を見た。
 布の正体は、ハンカチーフ。見覚えのあるナデシコの刺繍。

「あの……私は、どうして攫われたのでしょう?」
「そうです。そこが分からなかったのです。」

 新伍は、いい質問ですねとでも、言わんばかりに頷いた。

「なぜ、明らかにイイトコのお嬢さんの桜子さんを、わざわざ連れ去るのか。ひょっとしたら、湖城財産に恨みがあるのか……だから、あえて僕も捕まってみたのですが、どうやら金銭を要求するためのようですね。」
「金銭の要求? お父さまに……ですか?」

 そうでしょうね、と相槌を打つ新伍。

「さっき、そういう手紙を湖城に出したとか、金の受け渡しをどうするかとか、そんなことを話しているのが聞こえました。が、ハッキリ言って、人間を拐かして、金銭を要求するなんて、阿呆のやることです。」

 呆れたように言い切ると、「どうしてか、分かりますか?」と尋ねてくる。

「分かりません。」

 誘拐犯の気持ちなんて、桜子に分かるわけがない。

「金銭を要求すれば、金や人質の受け渡しに手間と時間がかかるうえに、危険が伴う。だから、普通は子女を誘拐したら、さっさと廓にでも売っぱらうものなんです。」
「廓に……」

 新伍があまりにも平然と言うので、桜子の背筋がゾクッとした。

「だけど、あえて金銭を要求するのは、そうするより、湖城財閥に身代金を要求したほうが、はるかに得だと考えたからです。財閥令嬢の一人娘なら幾らでも払うでしょうし、それに、なにより見るからに『イイトコのお嬢さま』の桜子さんを引き受ける廓なんて、探すのも大変ですからね。」

 なるほど、廓とて厄介事に巻き込まれたくはない、ということか。
 確かに父は、桜子のためなら相応な額を用意するだろう。そう信じられるくらいには、ちゃんと愛されてきた。

「と、いうことは、つまり犯人は桜子さんの身元を知っていて誘拐した、ということなんです。」

 そう言って、桜子の手元を見た。
 桜子が力をいれたせいで、ハンカチーフがクシャリと歪む。

 いや。ハンカチなど見ずとも、分かっていた。
 汗を拭ってくれているときにも、それよりもっと前から……とっくに、知っていた。

 だって桜子は、あのとき、声をかけられて振り向いたのだからーーー

「……知ってる人、なんですね?」

 桜子が頷く。

「園枝さんの……夜会で会いました…」
「夜会で? 大帝都ホテルですか?」
「………はい。」

 藤高貢ふじたか みつぐを見つけて、逃れるように庭に出た桜子。そこで、他の女中たちに囲まれ、いびられていた臨時雇の女中。足を怪我した桜子に肩を貸し、手当をしてくれた。

 確か名前はーーー

「トワさん……だったと思います。」

 汚れた彼女の顔を拭くために、桜子はナデシコ柄のハンカチーフをあげた。そのハンカチが今、再び、桜子の手の中にある。

「五島さんの後を追って、似たような家の立ち並ぶ狭い路地を歩いていたんです。そうしたら、トワさんに声をかけられて………突然、口に布を当てられたのです。それで意識が遠のいて……」
「薬でも嗅がされたのでしょう。今はどうですか? ふらついたりしていませんか?」
「はい。問題ありません。でも………なぜトワさんは、私に目隠しをしたのでしょう?」

 最初に顔を見ているし……

「わざわざ確信させるために、ハンカチまで渡しているのに。」

 新伍がトワに告げた理由ーーー桜子だけを無事に返すためーーーだとしたら、辻褄が合わない。

「………桜子さんに、余計なものを見せたくなかったから、でしょうね。貴女を無用に怯えさせないために。」

 新伍が、桜子の足元を指した。

「ほら、この汚い小屋の中で、貴女の周りだけ、綺麗に掃除されている。」

 小屋は、猟師が使うための納屋のようなものだろうか。
 戸板を組み合わせて作られた簡易な造りで、辛うじて、雨風こそ凌げるものの、隙間から入り込む粉塵までは防げない。

 その中にあって、たしかに、桜子の周りだけ、砂埃一つなく、磨かれている。

「貴女のことだけは、ぞんざいに扱わないと決めているのでしょう。」

 新伍は話しながら、納屋の隅に打ち捨てられた紐やらよく分からない道具やらをガサゴソと漁り始めた。

「しかも、どういう事情か分かりませんが、彼女だけは、僕たちを助けてくれるつもりのようです。」

 何かを見つけたらしい新伍が、こんな状況には似つかわしくない笑みを浮かべた。

「ありました。これくらいの長さならちょうど良い。」
「それ……は?」

 桜子の片腕ほどの長さの木の棒。新伍が、自分の羽織の袖口から裏地をビリビリ破ると、棒の先端に巻いた。持ち手にするつもりらしい。

 右手に携え、左手の平でポンポンと弾く。

「さ、逃げましょう。」
「えっ……?」

 新伍が、スタスタと扉の方に近寄って行く。窓がない小屋だ。小さく扉を開いて、外を伺う。

「逃げるって……?」
「ここにいても仕方ないでしょ? あの人も逃してくれるみたいですし。」

 新伍が小屋の扉を、ゆっくりと押し開ける。ギギギと軋んだ音が響く。
 開いた扉の隙間から、向こう側へと顔を覗かせた新伍が、

「おそらく、敵は4~5人。ならず者のあつまりのようです。あぁ、あんなところで祝杯をあげているやつもいる。本当に阿呆だな……」
「あ……危なくないんですか?」

 新伍は、扉から顔を離し、桜子の方を振り向いた。

「ここにいても、危ないですよ。それに、」

 開いた扉の向こうから、月明かりがさしていた。その仄かな明かりを背に、新伍が不敵に笑う。

最初はなっから、僕は貴女を連れ戻すために来ましたから。」

 あぁ、まただ。
 桜子の胸の奥が、きゅうっと痛む。
 忘れるーーーと、決めたのに。

 新伍のクシャッとした黒髪。その縁を照らす月は明るい。誘拐犯から逃げ出すなんて、不安でしかない状況なのに、笑う新伍に、とんでもなく安心している。

「さぁ、行きましょう。僕が、必ず貴女を連れ帰ります。」

 桜子に向けて差し出された手。そこに、ゆっくりと自分の手のひらを重ねる。


 新伍が、その手を引いた。

 二人で夜の森に飛び出した。


 小屋は、暗い山中にあった。桜子たちが出た瞬間、男たちが、3人駆け寄ってきた。

 小屋の中で、手を縛り付けていたから、逃げられることはないと高を括っていたらしい。

 新伍の言う通り、彼らは、少し離れたところで、焚いた火を囲んで、宴会でもしているかのように、飲みながら、小屋を見張っていたようだった。

「走って。真っすぐ。」

 新伍と繋いでいる桜子の手が、強く引き寄せられた。
 そのまま、新伍の前へと押し出され、それと同時に手が離れた。代わりに、トンっと、優しく背が押される。

「止まらないで。山を下ってください。すぐに追いつきます。」

 桜子は、言われた通り、駆け抜けた。

 走りながら、後ろを振り返ると、新伍が追手たちに飛びかかるのがみえた。
 月明かりの下、まるで、獣の身体の一部のように、刀代わりの木がしなる。柔らかく、美しく。

 刹那、男たちが倒れた。

 武士ーーーという言葉が、真っ先に、桜子の頭に思い浮かんだ。

 明治の世になって、30年が経つ。髷を結っているものは、もういない。廃刀令のおかげで、脇先を差しているものも、警官や軍人くらいだ。

 桜子は、武士というものを知らない。

 けれど、不思議と新伍の戦う姿を見たときに、武士の繰り出す剣技というのは、こういうものなんじゃないか、と思った。

 夜会の不器用な踊り方からは、想像もできないほどに美しい。

 追手たちが倒れたのを確認した桜子は、そのまま、前を向いて走り続けた。

 新伍は、残るもう一人の追手と戦っていたが、それもすぐに片付くだろう。

 桜子は、走り続けた。

 まっすぐ。山を下る方に向かって。


 その時、後ろから、声がした。

「桜子さんっ!」

 新伍が、もう追いついてきた。

 振り返ろうとした瞬間、足元がぐらりと揺れた。

「あッ!!」
「桜子さん。」

 蔓のような何かに引っかかって転びーーーそして、身体が宙に投げ出された。

 足場を踏み外して、斜面を転がり落ちているのだ。と、気づいたときには、もう遅い。


「キャアアァッッ!!!」

「桜子さん!」

 新伍が追って、斜面を滑り降りてくる。桜子の手を掴み、身体を引き寄せ、衝撃から守るように包み込んだ。

 ズザザザという、摩擦音と同時に、二人の身体が停止した。

「大丈夫……ですか?」
「えぇ。」

 心臓はドキドキしている。でも、新伍が抱きしめてくれていたおかげで、怪我はない。

「あの…五島さんは?」
「僕も大丈夫。」

 新伍が、桜子の身体を離し、立たせようとした瞬間、

「いッ………!」

 桜子の足に、鈍い痛みが走った。

「足を怪我しましたか?」
「少し……捻ったようです。」

 多分、躓いたときだろう。何かに足を取られたから、その時だ。

「平気です。歩けます。」
「ちょっと待っていてください。」

 新伍は、桜子から離れて、落ちてきた崖の方へと近寄った。崖の下から、真上を見上げる。
 すぐに戻ってきて、

「どこか、身を隠すところを探しましょう。」
「でも……!」
「その足で登るのは、無理です。かと言って、このまま、道なき道を進むのも危ない。せめて、日が出ていれば別ですが。」

 さっきまで走っていた場所は、曲がりなりにも、人が踏みならした道になっていた。しかし、落ちた崖の下は、完全に草木に覆われている。

「でも、ここに潜むのは危険では? 追手が来るかもしれませんよね?」
「えぇ。賭けです。」

 新伍は、滑り落ちてきた斜面を指した。

「あの斜面には、よく見れば、滑落の跡がある。ひょっとしたら、上の道には、もっとハッキリとした痕跡があるかもしれません。」

「なら、やはり……」
「でも、相手は追跡の玄人ではありません。腕っぷしは強かったが、僕には敵わなかった。彼らは、ただのならず者の集まりです。」

 それは、単に新伍が強いからではないか、と思ったが、そんなことを今、桜子が反論しても仕方がない。

「どこか、安全に隠れられる場所を探しましょう。桜子さんは、ここで、しばらく待っていてください。」

 桜子にそう言い残すと、新伍は、くるりと向きを変え、スタスタと歩いていってしまった。

 桜子は、木の根瘤に寄りかかるようにして、新伍を待った。
 満月に近い丸い月が明るく照る夜で、さほど、不安は感じなかった。

 新伍は、すぐに戻ってきた。

「近くに、自然にできた洞穴があります。行きましょう。」

 新伍が、桜子の腕を取って、肩にかけようとした。それを、桜子は、反射的に突き飛ばした。

「きゃあッ?!」

 突き飛ばしてすぐに、桜子は、自分の行動に驚いて、謝った。

「あっ、ご………ごめ…ごめんなさい。」

 自分が、どうしてそんなことをしてしまったのか、分からなかった。

 こんなふうに捕らえられてから、何度も何度も新伍に助けられている。その度に、心臓がキュウッと掴まれるみたいに痛くなる。新伍に触られた瞬間、桜子の身体の中を何かが、駆け抜けるように走った。そしてーーーそのことが怖くて、気づいたときには、突き放していた。

 しかし当の新伍は、

「すみません。歩くのは大変でしたか?」

 気にする様子もなく、今度は、桜子の膝の下に手をあてがった。

「えっ!?」

 何が起こるのか、聞き返す間もなく、気づいたときには、身体が宙に浮いていた。

「えっ! ちょっ…と、あの………?」

 桜子を横抱きに軽々抱える新伍は、

「辛いかもしれませんが。すぐ近くなので、我慢してください。」
「いえ、あのッ……そういうことでは、なくて………」

 こんなふうに触られることに慣れていない。

 睦まじい仲でもない男性が、触るなんて無礼ですーーーそう言わないといけないのに、言葉は、頭の中でグルグル回るばかりで、喉から先に出てこない。

(ううん。これは仕方がないことなのよ。)

 触れているんじゃなくて、救護しているだけ。

 混乱している頭の中で、一生懸命言い聞かせる。

 そうして、納得したはずなのに、全身を駆け巡る、痺れるような拍動は、一向におさまりそうにない。

(どうしよう………)

「危ないので、ちゃんと捕まってください。」

 新伍に言われ、桜子は恐る恐る、新伍の書生服の着物の襟を掴んだ。
 顔を寄せると、新伍の爽やかな汗の匂いが、桜子の鼻先をツンと刺激して、何故だか少し、泣きたくなった。
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