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第二幕 交錯
21 桜子の不注意
しおりを挟む本当にそれでいいのか、と問う父の、低く落ち着いた声に桜子は、深呼吸を一つしてから、ハッキリと答えた。
「はい。私は、藤高家に……藤高貢さんの元に嫁ぎたいと思います。」
書斎の執務机に座る父は、机の上に肘を付き、両手を組んで何事か考えていた。
「お前は、藤高くんが苦手なんだと思っていたがな……」
「………」
「てっきり、樹くんの方かと……」
「それは、ありません。」
それだけは、絶対にない。
いくら考えてみても、桜子にとって、樹との結婚は、あり得ないのだ。
それは、ただ単に、樹が幼馴染ということだけが理由ではない。
「藤高少尉のことは……正直、初めは苦手でした。」
私のことを、湖城と縁を繋ぐ物品としか思っていないような態度。到底、受け入れられるものではなかった。
だが、何度か交流を続けるうちに、嫌悪感は随分と薄れてきた。何より、貢には、貢なりの高い志があることも分かった。
浮き立つような思慕の念を持つことは出来ないかもしれない。それでも、一人の人間として、尊敬することは出来るかもしれない、と思った。
「今は、少尉と向き合い、そのお役目を支えられるような存在になるよう、努力したい……と思います。」
「努力、か。」
父は、「分かった」と、短く答えた。
「では、藤高家に、そのように返事をしていいんだな?」
桜子は、身体の前で重ね合わせた両手を、ギュッと握りしめた。
「はい。お願いします。」
決めたのだ。迷いはしない。
「あっ……でも、あの……使用人の皆さんには、まだ黙っていていただけますか? イツや時津には、自分の口で告げたいので。」
「分かった。」
「それと、五島さんにも。」
「……五島くんも?」
父はやや、驚いた様子だったが、すぐに、「わかった」と答えた。
「それと……五島さんにお願いをしている手紙の件は、引き続き調べていただけるんですよね?」
「勿論だ。あれを解決しないと、私も嫁には出せん。」
良かった。まだ新伍と過ごす時間はありそうだ。
「分かりました。ありがとうございます。」
桜子は、頭を下げ、書斎を辞した。
貞岡しを乃が告げたこと。
桜子の今の状況を暗示しているかのような台詞。
新伍に初めて出会ったのは、夜の街。そして、この書斎で再開した。
まだ半月も経っていないのに、随分前のことのように思う。
父の書斎の扉の前でそんなことを、考えていたら、
「おや、桜子さん?」
当の新伍から、声をかけられた。
「湖城さんに、何か用事ですか?」
「えぇ。ちょっと、大事な話が……五島さんは、何をしていたんですか?」
「考えながら、歩いていました。」
「考えながら、歩くんですか………?」
「歩くと、頭がよく働くんです。」
新伍は、いつもと同じように飄々としていた。その、からっとした明るさに、今なら話を切り出せる気がした。
「五島さん。私も一緒に歩いてもいいですか?」
「構いませんよ。」
二人で歩きながら、庭に出た。
桜子に合わせた、ゆっくりとした歩調。
「何か、ありましたか?」
「え……えぇ。」
横の新伍を見上げる。
ツンツンと四方に広がる髪。桜子の言葉を待つ、深い黒色の瞳。
桜子は、一度、ゴクンと小さく喉を鳴らしてから、その言葉を一気に吐き出した。
「私……藤高貢少尉のところにお嫁に行こうと思います。」
新伍が、ピタリと足を止めた。
腕を組んで、羽織の袖に手を突っ込んだまま、ジッと桜子を見下ろしている。
桜子は、新伍の反応を待った。とても長い時間に感じた。
「……そうですか。」
祝福しているのか、案じているのか。新伍の相槌からは、感情が読み取れない。と、やや間があって、
「おめでとうございます。」
桜子の胸がギュッとしまった。父に返事をしたときに、新伍に告げたときに、覚悟はしていたつもりだった。
それでも、新伍からの祝福を受けたこの瞬間、桜子は、自分が藤高家に嫁ぐという現実を実感したのだ。
「桜子さんは、初め、藤高少尉のことを怖いとおっしゃっていましたが、僕は良い方だと思ってました。」
「………はい。」
「だから、少尉の良さに気づいて、考えが変わったのなら、良かったと思います。」
「………はい。」
桜子は、返事をしながら、心の中で祈っていた。お願い、それ以上、話を続けないで……と。
「桜子さんは、やはり柔軟な考え方をされる方ですね。」
そんなんじゃない。
そんなんじゃないのに……ーーー
貞岡しを乃の言ったこと。
心が求める相手と、立場で選ぶ相手。
桜子の心が求めているのは……好いているのは、紛れもなく、横を歩くこの人だ。
だけど、湖城家令嬢の立場が、それを許さない。
心と立場を使い分ける。
桜子には、園枝有朋のような器用なことはできない。
男女の違いから、世間がそれを許さないということだけではない。
たとえ世間を欺けたとしても、桜子は誰かを想いながら、他人に嫁ぐなんて、中途半端なことをしたくないのだ。
藤高少尉には、藤高少尉の志がある。
新伍に抱くような思慕の情でなくとも、尊敬の念を抱き支えていけるような、そんな関係を築きたいと思うのだ。
「でも、まだ、あの手紙のことは、解決していませんね。それは、どうしますか?」
新伍の問いかけに、桜子は即答した。
「もちろん、引き続きお願いします。」
「分かりました。」
「解決しないと、安心して、嫁げませんもの。」
「それは、そうですね。」
この手紙のことが解決するまで。
それが、桜子に与えられた制限時間。
「あの…できたら、私にも、お手伝いさせてもらえませんか?」
「桜子さんに?」
「えぇ。何かお役に立てるかもしれません。」
新伍は、少し思案してから、
「分かりました。何かあれば、声をかけましょう。」
「ありがとうございます。」
桜子は安堵した。
だって、解決するまでは、新伍の側にいられる。
そして、全てが解決したら……
全てが終わったらーーー
私は、この時間を想い出にして、藤高少尉の元に嫁ぐのだ。
◇ ◇ ◇
その翌日。女学校から帰ってきた桜子は、外から帰ってきたらしい新伍と、屋敷の玄関で出くわした。
「お出かけですか?」
「えぇ、ちょっと勝川警部補のところと、園枝さんのお宅に。」
「まぁ!? 勝川警部補とは、お会いできたんですか?」
勝川は、相当に新伍を嫌っているはずだ。新伍のほうも、あれだけ煽ったのだから、当然ともいえるが。
「一応、会えました。早々に、追い返されましたが。」
新伍は相変わらず、全く気にしていない様子で、はははと笑った。
「園枝さんのところは、どなたに?」
「執事の方と女中さんです。時津さんにお願いして、お約束を頂きました。」
「一昨日のことを確かめるため……ですか?」
しを乃から聞いた、不審な男のことだ。
「えぇ、そうです。やはり、あちらでも皆、誰だか分からないようでした。」
不審な男は、温室のすぐ側で目撃されたらしい。水遣りを担当している女中が、温室に向かっていたとき、温室から足早に出てくる、洋装の男を見た。
灰色のスーツを、かなり洒落た様子で着こなしていたという。
「初め、女中の方は、有朋さん自慢の温室を見に来た客だろう、と思ったそうです。」
有朋が方方で吹聴しているせいか、金をかけた温室と珍しい輸入植物を見に来る客は、多いのだという。
「洋装が板についていたので、そういう知り合いなのだろう、と。」
その直後に女中は、温室に入り、倒れて息絶えている有朋を発見した。自然、洋装の男は一番有力な容疑者になる。にも関わらず、女中は、あまりのことに気が動転して、初めの聴取で、そのことを完全に忘れていた。
間もなく思い出した女中は、すぐに警察に話した。
初動は出遅れたが、それでも有朋の交遊関係を当たれば、すぐに判明すると思われた。
あれだけ見事に洋装を着こなす洒落た男だ。有朋の温室のことも知っている。そうとう西洋文化に対する造詣が深い。
「ところが、未だに誰だか分からないのだそうです。」
帽子を目深に被っていたから、顔はもちろん分からない。だが、遠くから見た限りの体格や雰囲気は分かる。
女中は、警察に言われ、何人かの男に面会したが、該当しそうな人はいない。
「背の高さだけなら、僕と同じくらいだろう、と言っていました。あまり自信はないようでしたが。」
「五島さんくらいなら、そんなに高い方ではありませんよね?」
「えぇ、やや小柄寄りの平均だと思います。」
それでも、独特の身のこなしは、目の前で歩いてもらえば判別できると女中は言ったらしい。
「不思議ですね。」
「まぁ、それでも、聞きに行ったかいはありました。」
新伍は、男の正体に心当たりがあるようだから、何か確信を得られたのだろうか。
「それでは、五島さんには、男の正体が分かったんですか?」
教えてくれるだろうか、と期待したが、やはり新伍に、「まだ、ダメです。」と断られた。
それで、桜子は、胸の内にくすぶる小さな不満を、つい口にした。
「それにしても……」
下唇を尖らせ、新伍をみる。
「お手伝いさせてくださいってお願いしたのに、黙ってお出かけになられるなんて……」
園枝家に行くだけなら、危険もなかっただろう。自分も連れて行ってくれても、良かったのではないか。
「すみません。あちらから指定の時間が、ちょうど桜子さんの女学校の時間だったので。」
確かに桜子とて、学校をサボるわけにはいかない。
「今日は、まだ、これからどこかに出掛けるんですか?」
「いえ、特に予定はありません。部屋で少し頭の整理をしてみようと思います。」
「……本当ですか?」
「本当ですよ。」
新伍が、「それでは」と言って、部屋に戻っていった。
桜子は、自分の部屋に戻ると、窓際に置いた椅子に座って外を眺めた。
手元に女学校で出た縫製の課題を置いてみたものの、なかなか手が進まない。
手を止めていると、いろいろなことが頭を巡る。
藤高貢に嫁ぐことは、イツにだけ打ち明けた。
イツは、ハッと驚いた顔をしていたが、すぐに、「おめでとうございます。」と頭を下げた。
時津には、まだ告げていない。
以前、時津は、嫁ぐなら樹が最善だと言っていた。なんとなく、藤高貢に対して、あまりいい印象は持っていないように見えたから、言い出せずにいた。
(嫁いだら、こんなふうに、この部屋から庭を眺めることもなくなるのね。)
窓の横の木は、いつの間に伐採したのか、枝ぶりがスッキリして、遠くまで見渡せる。木のむこうに広がる庭を見ていたら、
「あら?」
門の外に出ていく新伍の姿。
(どこかに出掛けるのかしら?)
慌てて立ち上がると、部屋を出た。階段を駆け下り、家の外へ。
(今日は、もうどこにも出掛けないって言ったのに……)
追いかけたのは、騙されたという不満が半分。
そして、もし追いついたら、また、この前のように一緒にお団子でも食べられないかしら、という淡い期待が、もう半分。
桜子は誰にも告げずに門を出て、新伍の後を追いかけた。
新伍の足は早い。
普通に歩いているふうなのに、小走りしている桜子が、全然追いつけない。
(人力車にでも乗ってしまったら、追いつけないわ。でも、人力車を使わないってことは、そう遠くには行かないのかしら?)
ところが、新伍は、どんどん先へ先へと歩いてく。
いつの間にか、湖城の屋敷から随分離れて、民家の立ち並ぶ一角へ。同じような形の家がひしめき合うように軒を連ねている。
(このあたりは、初めて来たわ。帰れるかしら………。)
こうなると、なんとしても、新伍を見失わないようにしないといけない。
そう思っていたのにーーー
ついさっきまで、そこにいたはずの新伍がいない。
(どこに行ったのかしら?)
慌てて辺りを探したけれど、どこにもいない。どこかの家に入ったのだろうか。でもーーーどこに?
似たような家ばかりで、自分がどっちの方向から来たのかすら、分からないのに、この中から、新伍の入った家を探すなんて、到底無理だと思えてくる。
「どうしよう……」
まさか、こんなところで、迷子になってしまうなんて。
キョロキョロとあたりを見回していたら、背後から、人影が現れた。
桜子が、振り返る。その人物の顔を認め、
「あら……あなたは………?」
その瞬間、桜子の意識が遠のいていった。
◇ ◇ ◇
湖城桜子が誘拐されたーーーという知らせが湖城邸にもたらされたのは、その夕刻のことだった。
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