桜子さんと書生探偵

里見りんか

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第二幕 交錯

16 『時津』という男

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 扉をコンコンと叩くと、中からカタンと、何かを置くような小さな音がした。少し待つと、内側から扉が開く。

「お待たせしました。」

 いつもと同じように、皺一つない白いシャツの上に黒いベストを着た時津が、スラリとした立ち姿で新伍を出迎えた。

 今夜、部屋を訪れることは、事前に伝えてある。
 夜着や気楽な格好でないのは、気を許すつもりはないという意思表示だろうか。

「どうぞ、お入りください。」

 時津の後について、新伍も中に入る。

 家令の時津には、私室が与えられている。

 飾り気のない部屋の真ん中には、小さなテーブル。それを挟んで簡素な椅子が二脚。
 部屋の片側の壁にピタリと沿うように、洋式のベッドが置かれていて、反対の壁の一番奥には執務机。その隣の本棚には、びっしりと隙間なく本が並べられている。索引順の、歪みのない並べ方は、この人間の性格を体現しているかのようだ。

 部屋の中には、若草に、ほんのりと甘みが混じったような芳ばしい香りが漂っている。

「この薫りは、煙管キセル……ですか?」

 小机の上に、煙草盆。盆に乗った灰吹はいふきの右奥の縁に、刻み煙草の燃え尽きた灰が付着していた。新伍の訪問で、直前まで咥えていた煙管の火皿に残った灰を、灰吹に落としたのだろう。

「時津さん、煙管を吸うんですね?」
「稀に、この部屋の中でだけ。お嬢さまの前では、吸いません。」

 言いながら、煙草盆を奥の執務机に運び、片付けた始めた。

「では本日は、珍しく煙管を吸いたくなるような考え事でも?」

 新伍の言葉に時津は、僅かに嫌そうに顔を顰めた。

「時津さんは、桜子さんに拾われてここに来たそうですね?」

 時津が、煙管の火皿の内側を、清掃布で拭う手を止め、「それが何か?」と聞き返す。

「おや? 何故そんなことを知っているのかと、聞かないのですか?」
「イツが話したのでしょう? 律儀に、私のところに謝りに来ましたからね。あれは、そういう娘です。貴方も、分かっていたのでは?」

 確かに、イツならば時津に報告をするかもしれないということは、新伍も想定していた。だからこそ、時津に煙管を吸いたくなるような考え事をしていたのか、と尋ねたのだ。

「まぁ、隠しているわけでは、ありません。皆、知っていることです。しかし、」

 時津は非難めいて、やや大げさな、ため息をついた。

「勝川警部補のときもですが、貴方は情報を引き出すために、煽るような聞き出し方をする、子供っぽいところがあるようです。特に、イツの桜子さまへの忠義心を利用するような聞き方は、褒められたものではありません。今後は、止めてもらいたい。」

 時津の苦言。あれに関しては、新伍にも、多少強引だったという、幾ばくかの良心の呵責はあった。

「うーん……自重しましょう。」
「自重?」

 時津が睨んだから、新伍は、「分かりましたよ」と軽く両手をあげる。

「イツさんに、そういう聞き方は、もうしません。」
「いいでしょう。」

 煙管の片付けを終えた時津が戻ってきて、新伍の向かい合わせの椅子に腰を下ろした。


 新伍が、この部屋に入るのは、二度目。

 初めて訪れたのは、湖城重三郎氏に、脅迫状の件を依頼された、その日の晩。

 部屋を訪れた新伍は、時津に向かいに座るとすぐに、懐から羊皮紙を一枚取り出した。それを机に置き、時津の方へ、ツイッと滑らせた。

「ここに何か書いていただけませんか?」

 時津は、その意味を即座に理解した。

「筆跡鑑定のつもりですか?」
「えぇ。まぁ、有り体に言うと。」
「私は、字が下手ですよ?」

 誰かから、そういう噂は聞きませんでしたか、と肩をすくめる。

「僕は、何事も自分の目で確かめないと気がすまない質でして。」

 書き渋っているーーーというわけでは、なさそうだ。

 時津は立ち上がり、引き出しから、万年筆とインク壺を持ってきた。

「何を書けばいいんですか?」
「何でも………」

 言いかけてから、

「そうですね、時津さんのお名前を。」

 時津は、紙を自分に近づけると、右手に持った万年筆の先に、たっぷりと墨を含ませた。

 それから、豪快な字で

 時津 一

と書いた。

 本人が予め申告したとおり、字は上手くない。筆圧は強いが、不安定で、均衡のとれていない字。あの本の並べ方からは、想像出来ない。

「本当に下手で、驚いたでしょう?」
「時津さんの名前は、ハジメと読むんですか?」
「えぇ。横に一本引けば済む簡単な名前なのが、救いです。」

 何事においても卒なくこなしているように見える時津が、

「どうも文字だけは、いくら練習しても上達しないのです。」

 と、苦笑した。

 このやり取りがあったのが、数日前。


 あのときは、時津自身のことについて、突っ込んだ質問をしなかった。しても、おそらく、この男は何も話さないだろうと思っていたから。

 その取っ掛かりを掴んだのが、今日の午後。
 それで、改めて、時津の私室を訪れたのだ。

 新伍が、聞きたいことは、二つ。

 一つ目は、桜子と時津の関係及び、時津の過去について。
 新伍は、イツから聞いた話を、直接本人に、ぶつけてみることにした。

「時津さんが、湖城家に来る前のことを伺っても?」
「何も話すことは何もありませんね。」

 時津が、にべもなく言う。これは、なかなか手強そうだ。

「失礼ですが、生まれはどちらですか?」
「……………。」

 時津は、腕を組んで深く腰掛けた姿勢のまま、しばらく黙っていたが、やがて、

「…………物心ついたのは、鮫河橋さめがばしです。」
「えッ?!」

 意外な地名に、新伍は吃驚した。

「鮫河橋? 四谷鮫河橋ですか?」

 四谷鮫河橋と聞けば、それがどんな場所なのかは、誰でも知っている。
 鮫河橋の一帯には、都市の最下層の住人たちが、狭い区域にひしめき合うように暮らしており、皆、荷役やくず拾いで稼いだ日銭で命を繋いでいる。
 言うなれば、貧民窟スラムだった。

「私は小さな頃に、親に捨てられました。残飯を漁って、何とか生き延びましたが、毎日、腹をすかせ、死なないことだけを………目の前の飢えを凌ぐことだけを考えていたのです。」

 洗練された仕草で、全てを完璧にこなす湖城家の家令としては、俄に信じがたい生い立ち。時津の、指先一つの動きまで、華麗にみせる身のこなしは、その過去を知らなければ、幼い頃から訓練されたものだと思うだろう。

「四谷鮫河橋がどういう場所かは、でしょう?」

 やけに素直に話してくれたかと思った途端、返す刀で切りに来る。

 なるほど、これが時津という男。

 確かに新伍は、四谷鮫河橋のような貧民窟の暮らしがどういうものか、

「僕のことを、調べましたね?」
「当然です。」

 平然と言い切る時津。

「桜子さまの側に、得体のしれない男を置いておくわけには、いきませんから。貴方の出自から、三善中将みよしちゅうじょうの元に辿り着くまで、全て調べさせていただきました。」

 新伍の口元に、自然に笑みが浮かんだ。それは、楽しいときに浮かぶものというより、強敵を前にしたときに、思わず込み上げてくる類の笑いだった。

「構いませんよ。別に、僕も隠していませんから。」

 互いに探り合うような視線が交差する。

「桜子さんと初めて出会ったときには、どんな会話を?」
「……………特には、なにも。」

 時津は、ゆっくりと瞬きをしてから、

「何も話していません。空腹で倒れたのを、この家まで、運んでくれたようです。」

 と、今度は時津が、

「私からも、質問してもいいですか?」
「時津さんが? 調べて尚、わざわざ僕に聞くことが?」
「貴方個人への質問ではなく、園枝有朋そのえ ありとも氏のことです。」
「あぁ。」

 捜査の行方が気になっているのだ。

「ご存知のとおり、あの日、僕は園枝邸で、悲鳴の直後、有朋氏の元に駆けつけました。」

 途中で会った藤高貢ふじたか みつぐに桜子を託して、声のした方へ走った。

 事件があったのは、園枝邸の奥の小さな温室。透明なガラス窓で囲まれた箱みたいな小屋の真ん中に、園枝有朋は、うつ伏せになって倒れていた。

 小屋の中には、大小の鉢がいくつか置かれているが、数はそう多くはない。

 そして、有朋のすぐ側に、割れた鉢が一つ。鉢の破片と土と、それから咲きかけの若い菊の花。

 有朋は、頭から血を流して倒れていたから、鉢で後頭部を殴打されたというのは、一目瞭然だった。

「ちなみに、近くに踏み台や椅子は………」
「ありませんでした。」

 鉢植えを置く棚はあったが、有朋が倒れていた場所とは、距離がある。

「園枝さんは、殴られる直前、どのような姿勢をとっていたのか分かりますか?」
「足の真っ直ぐに伸びた状態で倒れていましたから、立ったまま、強く後ろから……という可能性が考えられますが、断言は出来ません。」
「それならば、犯人は男性では?」

 園枝有朋の身長は、新伍より、やや高い。その有朋の後頭部を、持ち上げた鉢植えで殴打するのだ。

「立ったままの有朋氏を殴るなら、それなりの身長と腕力が必要でしょうね。」

 例えば、有朋より頭一つ分近く低い桜子が、有朋の後頭部を土の入った鉢植で殴り殺すのは、無理だろう。桜子がそれをするとなると、園枝よりも高い位置を陣取り、落下させる必要がある。

「棚は備え付けで、固定されていたので動かすのは難しいです。確認したところ、誰かに触られた形跡もありませんでした。」

 新伍は警察が到着する前に、勝手にあれこれ見て回った。その限りでは、犯行は極めて、衝動的だと思われた。

「もし、有朋氏より背の低い人間が、頭を殴打しようとすると、有朋氏に低い姿勢を取らせる必要があります。例えば、床に落ちたものを拾わせる……とか。」

 可能性は排除できない。地面には、幾重にも足跡がついていたから、どういうやり取りがあったのか、判別することは容易ではない。

「仮に立っている状態の有朋に凶行に及んだ場合、あの日、園枝邸の中で、その肉体的条件を満たす人物はかなり、限定されるでしょう。」

 まず、新伍は当てはまるだろう。当然、新伍より背の高い藤高貢もだ。軍で鍛錬している貢は、細くみえるが、腕力も強い。

 それから、東堂樹もだろう。背丈は、藤高には及ばないが、有朋よりは高い。身体つきは、貢より、がっしりとした印象がある。

 無論、この他にも園枝家に仕える使用人たちの中に該当する者はいる。

 一方で、有朋が身体を屈めている状態を作り出せれば、候補者は限りなく広がる。

 今、警察は園枝家と出入りしている人間の行動について、洗い出しをしているはずだ。

「状況は、よく分かりました。」

 時津の、組んだ腕に這う細い指が、トントンと忙しなく動いている。

「なんにせよ、桜子さまが疑われなければ、それでいい。」
「桜子さんは、悲鳴が上がるまで僕らと一緒でした。状況的に疑われる余地がないことは、分かっていたと思いますが?」
「念のためです。万に一つでも、そのような要素があっては、なりませんから。」

 口では、そう言いながらも、時津の指の動きは、新伍の話に満足しているようには見えなかった。

「お教えいただき、ありがとうございました。」

 時津が、「では、これで。」と、話を打ち切ろうとしたので、

「待ってください!」

 慌てて、新伍が引き止める。

「もう一つ、聞きたいことがあります。」
「まだ他に………なにか?」

 時津は、浮かしかけた腰を、再びおろした。

「もう夜も遅い。手短にお願いしますよ。」

「時津さんと桜子さんが出会ったときに、一緒にいた車夫のことについて、教えてください。」
「車夫……? つつみ……大ニだいじのことですか?」

 この質問は、時津にとって、予想外だったらしい。

「なぜ……今、堤のことを?」
「堤大ニさんは、少し前に、ここを辞めたと聞きました。」
「えぇ。でも、もう、一月ひとつきも前のことですよ?」

 桜子の婚約騒動が持ち上がるよりも前であることは、新伍も分かっている。だが、なぜだか引っかかる。

「なんでも、辞めたのが突然だったので、皆さん驚いたのだとか。」
「え……えぇ、まぁ………」
「堤さんが辞めた理由を聞いても?」
「理由……ですか?」

 一瞬、時津の目が泳いだ。時津は、理由を知っている。

「…………それが、何か関係ありますか?」
「あるかもしれない、と思っています。」

 だが、隠したがっていた。

 時津は、また腕を組んだ。長い指が再び、コツコツと右肘を叩いている。

 思案しているのだ。

 できれば話したくない。だが、桜子のために、話すべきか。

 長いため息のあと、

「分かりました。お話します。ただし、このことは、湖城財閥の名誉に関わりますので、くれぐれも内密にお願いします。」
「勿論です。」

「それから、一つ条件があります。私からのお願い、とでと言うべきか。」
「条件? 何でしょう?」

 時津の出した条件は、新伍にとって、やや意外なものだった。

「樹さまについて、有朋さん殺害の容疑者から外れるような証拠を探してほしい。」

「樹さま? 東堂樹とうどう いつきさんのことですか?」

 時津が頷く。

「なぜ、樹さんを?」
「樹さまは、我が家とは古い馴染みの方ですし、お嬢さまの大切な婚約者候補ですから。」

 婚約者候補ならば、藤高貢も、そのはず。わざわざ樹だけを抜き出すのは、なぜか。
 たぶん、古い付き合いということだけが理由では、あるまい。時津は、『桜子の婚約者には樹が相応しい』と考えているのだろうか。

「今のところ、五島さんが先程述べた体格的条件に、樹さまは合致する。」
「まぁ……そうですね。」

 東堂樹なら、有朋が立ったままの状態で犯行に及ぶことも可能だろう。しかも、有朋と同じく桜子の婚約者候補。状況的には、動機があるように捉えられかねない。

「ですので、樹さまが犯人ではない、という証拠を見つけてほしいのです。」

 新伍は、少し考えてから、

「お約束は、できかねますね。」
「なぜですか? 樹さまは、そのような度胸のある方では………」
「僕も、そう思います。ですが、僕と樹さんの付き合いは短い。心証だけで判断することはできません。加えて、当日の樹さんの行動を、僕は知らない。」
「だから、それを調べてくれ、と………」
「そもそもですが、」

 新伍は、懐から便箋を取り出し、時津の前に置いた。

「僕が頼まれたのは、桜子さんに届いた怪文書の差出人を探すことで、有朋氏殺害の犯人を探すことでは、ありません。」
「それは、承知しています。だから今、あえて、お願いしているのです。」

 これを引き受けぬなら、堤大ニについては、語らぬと言う。

「念の為、言っておきますが、私以外の使用人に聞いても、皆、堤に起こったことは知りません。」

 堤のことを知りたいのなら、取引しましょう、と不敵に突きつける。

「それに実のところ、園枝有朋氏殺害については、五島さん自身も調べたいと思っているのでは?」
「……何が言いたいのですか?」
「貴方のその子供っぽい好奇心が、真相を知りたくてウズウズしているように見えますよ?」

 こちらを探るような、見透かすような視線。しかも、なかなか、鋭いところを突いてくる。

 なかなかどうして、この男は……

 人のことを子どもっぽく煽るだなんだと批判したくせに、やってることは自分だって同じだろう。

「………分かりました。」

 新伍は、わざとらしく、ため息をついた。

「ただし、あくまで、調べるだけですよ? 樹さんの無罪の保証は出来ませんので。」

 新伍の提案に妥当性を見出したのだろう。時津は、「いいでしょう」と了承した。

「それでは、堤大ニについて、話しましょう。」

 時津は、一呼吸置くように背筋をただし、膝の上で両手を組みなおす。何かを覚悟するように、うつむいた眼差しのまま、一呼吸おいて、重い口を開く。

「車夫の堤大二は、誘拐事件を起こしたのです。」
「誘拐事件ッ?!」

「正確に言うと、誘拐未遂ーーーですが。幼い女の子を誘拐しようとしたところを私に見つかり、解雇しました。それまでは、真面目に働いてくれた気のいい男だったのですが。」
「なぜ………また、そんなことを?」

 時津は、分からない、と小さく首を振った。

「私と旦那さまも、しつこく問い質したのですが、理由は頑として話しませんでした。」

 代わりにクビにしてくれと申し出たらしい。
 何も解雇しなくても、と温情を見せようとした湖城氏にも、「万が一、この件が表沙汰になるようなことがあったとき、迷惑をかけるから。」と言い、譲らぬ。

 湖城財閥としても、理由を話さぬ以上、言う通りにするしかなかった。

「……今、堤さんが、何しているのかは、ご存知ですか?」
「残念ながら。」

 時津は、小さく首をふった。

「どこで、何をしているのか、元気でいるのかすら、知りません。」

 時津の口調には、どこか寂しげで、長く勤めた仲間の身を案じているような温情が感じられた。

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