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第一幕 事件
3 不穏な手紙と婚約者たち
しおりを挟む女学校から帰っきた桜子が自室に戻ると、すぐに女中のイツが部屋にやってきた。
「ちょっと……よろしいですか?」
周囲を気にするような、仕草が気にかかり、
「何かあったの?」
イツは閉めた扉を厳重に確認してから、桜子の側に近づいてきた。
「今、よろしいですか?」
「ええ。ちょうど、これから貴方の落とした御守りを探しに行こうと思っていたところよ。」
イツが呆れたような、困ったような顔で、
「それは、やめてくださいって、お願いしたじゃなありませんか!」
「昼間なら、いいかしら、と思って………。」
「だ、め、で、す!! そのことは、自分で何とかするので、桜子さは忘れてください!!」
イツの剣幕に押された桜子は、
「わ……わかったわ。それよりイツ、どうしたの……? 私に、何か用事でしょ?」
「あぁ、そうでした。あの………これ……」
差し出されたのは、品の良い桜色の封筒。
「これ、何?」
「たった今、時津さんに言われて、門の前を掃除していたときに、近所の子に渡されたのです。桜子さまに渡してほしい……と。」
「私……に?」
イツから受け取った封筒を、くるりと返す。表にも裏にも、差出人も宛名もない。
「子どもの話では、確かに『桜子さまに』と。」
桜子は、手紙をもう一度、表に返した。
「中は見た?」
「いえ……」
イツが、ふるふると首を横に振った。イツの言う通り、手紙はキッチリと封がされていて、解かれた様子はない。
「時津さんを呼びましょうか?」
イツが心配そうに尋ねたが、
「いえ。別に、いいわ。」
桜子は、机の上のペーパーナイフを取って、勢いよく封を切った。
中からは、封筒と同じ、桜色の便箋。桜の花びらの透かしが入っている。
その便箋を開くと、中には流れるような美しい字で、何やら書いてある。どうやら、本当に桜子宛の手紙らしい。
・・・・・・・・・・・・・・
湖城桜子サマ
貴女は、私の心を知っていますか?
貴女は、私にとって、太陽のように眩しい。
貴女は、私にとって、満天の星空よりも輝かしい。
私は貴女という美しい花を、他の誰にも渡したくはない。
唯、私の側に置き、愛で、慈しみ、守り抜きたい。
貴女が他の誰かに嫁ぐなど、私にとっては、耐え難く、許し難いことなのです。
貴女が私から離れていこうとするならば、私は、たとえ、どんな手を使っても、阻んでみせましょう。
どんな手を使っても、必ずそうしてご覧にいれますよ。
だから、貴女は、どうか永遠に私の側にいてください。
・・・・・・・・・・・・・・
手紙を読み終えた桜子は、そのままイツに渡した。受け取ったイツは、手紙に二度三度、目を走らせ、
「これは……恋文ですか?」
「そう……みえる?」
「みえます。それも、なんていうな………かなり熱烈、ですね。」
「熱烈……ね。」
熱烈というより、最後は、ほとんど脅しにみえる。
「心当たりは、あるのですか? 差出人は、書いていないようですが。」
桜子はもう一度、文を見てから、首を横に振った。
「ないわ。」
女性の手蹟と言われてもおかしくないほど、優美な字。
「この内容からすると、どなたか、桜子さまの身近にいらっしゃる方では?」
「こんな手蹟、一度見たら忘れないわよ。」
そもそも、女学生の桜子は、男性との交流など、限られている。こんな手紙を書いてくるような、深い関係の知り合いなど…ーーー
桜子は、机の上に視線を投げた。
そこには、今朝、父から手渡された封筒が無造作に置かれていた。
桜子の視線の先に気づいたイツも、机の上の封筒を見る。
「あの……それ、もしかして?」
桜子が、うなずくと、イツは、「きゃっ」と両手を口許に当てて、小さな声をあげた。
やや興奮している。イツは、桜子より4つ上だから、結婚というものが現実的に感じるの強かもしれない。
「その様子だと、イツもお父さまから聞いているのね。」
「えぇ、正確には時津さんから、ですけど。」
主だった使用人たちに、時津から今回の婚姻に関して、おかしな誤解が起きぬよう、説明があったのだという。
「3人の殿方の中から、桜子さまがお選びになるなんて……素敵ですね!」
イツは、「ほう。」と、小説のようなロマンスに思いを馳せて、目をうっとりさせている。
「候補は、どんな方なんですか?」
「まだ見ていないの。」
「ひょっとして、今回の恋文の差出人が、候補の方の中にいる……という可能性も?」
「えぇ? この中に?」
「開けてみてくださいよ。」
イツに促され、桜子は、封筒を手にとって、中を出した。
中身は、父のいった通り3人分の釣書。
桜子は、イツと顔を見合わせ、頷き合うと、一枚ずつ、確認し始めた。
一人目、《園枝 有朋》
園枝財閥の御曹司。園枝財閥の跡取り。27歳。
釣書には、細かい経歴とともに、写真が添付されていて、そこには、甘い顔立ちで、西洋の菓子のように、にこやかに微笑む優男が写っていた。
二人目、《藤高 貢》
陸軍少尉。父は陸軍中将。
中学校を卒業後、隊付勤務を経て、士官学校に入学。士官学校を優秀な成績で卒業。陸軍大学校へ進学予定。
写真には軍服を着た男が、園枝有朋とは対照的に、広角一つあげぬ真面目くさった顔で座っていて、真っすぐに、こちらを見ていた。
そして、三人目。
三人目には写真がない。
それも、そのはず。写真など必要ないほど、よく見知った人間だからだ。
「えっ!! そんなっ……まさか、この方が……!?」
横から覗き込んでいたイツが、驚きのあまり声を上げた。そして、それが無礼なことであったと、すぐに気づき、
「も……も、申し訳ありませんっっっ。」
「いいのよ。私も驚いているから。」
そこに書かれていた名は、《東堂 樹》。
うちにも、よく出入りしている東堂商会の次男で、桜子のよく知っている人物。
桜子よりも8歳年上の、幼なじみのお兄さん。
東堂商会の前身は、老舗の東堂呉服店で、明治維新後、海外向けの生糸の需要の高まりを期とみるや、紡績業にも手を広げ、現在、急速に成長している。
「樹さまと……婚約なさるのですか?」
「樹兄さん……と? 私が?」
確かに、樹は、この中では唯一よく知っている人物だ。人当たりが良く、性格は温厚。優しい人だから、結婚したら、不幸になることはないだろう。
(でも……でも、この人とは………)
樹の良さは、よく知っている。でも、それにも関わらず、樹と結婚するというのがピンとこない。
兄のように親しい存在だからだろうか。
それとも、自分の好みとは違うのか。
いや、好みって言ったって、男性の知り合いなんて、ほとんどいないんだから、そんなの比較のしようも…………
ーーーこんな夜更けに、イイトコのお嬢様が何をやっているんですかねぇ。
ふいに、あの暗い路地裏で行燈に照らされた男の顔が蘇る。
一見、無邪気で掴みどころのない……けれど、ズバズバと言い当てる聡明な書生。五島新伍と名乗る、あの青年。
桜子は慌てて頭を振った。
(なんで今、あの失礼な人のことを………!)
「あの……」
傍らのイツの声に、桜子は、思考を手紙に戻した。
「あの恋文………樹さま、ということは、ない……ですよね?」
イツが恐る恐る聞いてきたので、「ない、ない」と、手を振る。
「だって、字が全然違うもの。」
かなり上流の家庭の、それも女性が書いたものとさえ思うほどの流麗な字。
樹の字も読みやすくて綺麗だが、もっと、一字一字を丁寧に書く。
「いっそ、時津みたいな字だったら一発なんだけど。」
「あ……あぁ、時津さん、字は少し………特徴的ですもんね。」
「あれは、汚いって、言うのよ。」
桜子は、しばらく、じっとその文の字を眺めていたが、やがて、ビリリと破ると、ポイっと屑籠に放り込む。
「い……いいんですか? せめて、時津さんにお伝えしては……?」
「いいのよ。必要ない。どうせ、イタズラでしょ。」
イツが心配そうに、屑籠を覗いていた。
◇ ◇ ◇
その数日後、いつもより早く帰宅した父から呼ばれた。
「園枝くんが来るから、お前も晩餐に同席しなさい。」
「園枝くん?」
父が、ムッと顔をしかめる。
「なんだ、読んでないのか?釣書を渡しただろう。」
「あっ!」
あの3人の婚約者候補のうちの一人、園枝有朋のことだ。
「いえ、あの……読んでいます。」
慌てて、父に言い繕う。
「園枝……財閥のご令息……ですよね。」
「そうだ。その、園枝くんが、今晩、我が家に来る。まぁ、仕事のついでだがね。それで、桜子への紹介もかねて、晩餐をともにしようというわけだ。」
仕事と桜子への紹介、どちらが『ついで』なのだろうか。
たぶん、これが、以前に父が言ってきた、婚約者を選ぶために用意された場、ということなのだろう。
父の予告どおり、有朋は、その日の夕刻に現れた。
格子柄の焦げ茶色のスーツは、中に着込んだベストまで合わせて仕立てた一品ものだろう。フワリと靡く柔らかな髪に、甘い顔立ち。
今まで会った日本人の中で、こんなにもスーツが似合う人を見たことがなかった。
普段は小袖に海老茶袴の桜子も、今日は、有朋に合わせて、洋装を着せられていた。
イツが、「今日は、舞踏会ではありませんからね。綺羅びやかなものよりは、控えめで上品な装いにいたしましょう。」とか何とか言いながら、はりきって準備したものだ。
対面するなり、有朋は、早速、桜子の装いを褒めた。
「美しい御方に、ご挨拶させていただいてもよろしいですか?」
有朋は、父と桜子に許可を得ると、スッと桜子の手を取り、唇を当てる。
流れるように自然で、優美な仕草だった。こういう洋式の挨拶に慣れているのだろう。やや緊張して身体が強張ってしまった桜子に、有朋は、甘い笑みを寄越した。
そのあと、皆で席につき、晩餐が始まった。
これと言って特筆すべきこともないほど、実に平穏で、恙無く進行していく。
ただ、一つわかったのは、園枝有朋という人が、湖城桜子という存在を、好意的に受け入れている、ということだった。
有朋は、終始、温和な笑顔で、桜子に話しかけた。女学校ことについて尋ねたり、自分が見に行った芝居について語ったりと、尽きることなく話を振ってくれる。
話題も豊富で、所謂、社交的な人物らしい。
会食も終わりに差し掛かる頃、紅茶を飲みながら、園枝が言った。
「桜子さんが、貴女のような方で良かった。」
桜子は、良家の子女らしく、控えめに微笑んで、「どういうことでしょう?」と尋ねる代わりに、首を傾げてみせた。
「湖城さんの鬼神のような経営者ぶりを、よく存じているので、どんな方が現れるのかと案じていたのですよ。」
「まぁっ! 鬼神だなんて。」
「おいおい、有朋くん。」
「いえ、本当に……想像以上に可愛らしい方でした。」
苦笑いする父の重三郎をよそに、貴公子の微笑みを浮かべる。
「流石、湖城家のご息女。所作も美しく、西洋風の食事のマナーも完璧。」
「そんな……お褒めいただくほどのことでは……」
「謙遜なさらないでください。貴女のような方を妻に迎えられたら、これ以上の喜びはありません。」
ジッと見つめる瞳に、桜子は、思わずもじもじと下を向いた。
「ゥオッホン……」
父が咳払いをした。
「有朋くん。今日はあくまで、挨拶ということで。」
「えぇ、勿論です。」
中年男性相手にも、その笑みは崩れない。
「しかし、」
有朋は、再び桜子に向き直り、
「桜子嬢には、また、是非ご一緒させていただきたいと思います。」
甘い顔立ちが、さらに甘美に華開く。
どう答えるべきか、ちらりと父の顔を伺うと、父が頷いたので、桜子も応じた。
「よろしく……お願いいたします。」
有朋が帰ったあと、夜着に身を包んだ桜子の髪を梳かしていたイツが、好奇心を抑えられない、キラキラとした目で聞いた。
「園枝さまは、いかがでしたか?」
「そう……ね。悪くなかったわ。」
「嫁いでも良い、と?」
「え……えぇ、そう……ね。そう………なのかしら?」
あたりの柔らかい、社交的な人だった。桜子に、対して好意を抱いているし、家柄も申し分ない。
だけど………
なぜだか、素直に受け入れられない。
「どうかしましたか?」
「ううん。なんでもないわ。」
「そう………ですか?」
(きっと、まだ婚姻ということに現実味がないから、こんな気持ちになるんだわ。)
そんなことを考えていると、桜子の髪を整え終えたイツは、少し心配そうな顔で覗き込んだ。
「………縁談、うまくいくと良いですね。」
「そう………ね。」
桜子の元に、再び、あの手紙が届いたのは、翌日のことだった。
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