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第5章 至福の薫香
8 御簾の内側
しおりを挟む御簾の内に行ってもいいか、と尋ねる時峰に、土筆は、「いいえ。」と断る言葉が、出てこなかった。
「貴女が怖がることは、致しません。」
時峰が言った。
「どうして……どうして、突然そんなことをおっしゃるのですか? 今まで、そんな強引なこと、一度だって………」
質問で返すのはズルい答えだ、とは分かっていた。
受け入れる勇気は、まだない。
でも、もしここで断ったら、もう二度と時峰が来なくなるんじゃないかと思うと、それもまた出来ないのだ。
「姫が、尚侍として出仕するーーーと聞きました。」
「それっ……は、まだ……」
「いいえ。貴女は、尚侍になります。」
なんてこと!!
確かに打診はあった。
でも、あれ以来、具体的な話はなく、何も決まっていないはずだ。
にも関わらず、時峰の耳には、すでに確定した事実として伝わっている。
しかも、これだけハッキリと言い切るということは、土筆の気持ちとは裏腹に、事実、物事は決まっているのだろう。
「貴女は、尚侍として出仕する。だから私は、ここに……貴女の元に、通していただけなくなったのです。」
「……どういう……ことですか?」
寝耳に水だった。
「時峰さまが、お見えにならなかったのは、いらしていなかったから……ではなく、来ても通してもらえなかった、というこですか?」
時峰が悲しげに微笑んだ。
「尚侍は、帝の政務を補佐するという立派な仕事がありますが、実質的には、女御に継ぐ帝の后と見る向きも大きい。出仕する以上、いつ帝の手がついてもおかしくはない、と大納言殿は考えたのでしょう。」
「お父さまが……」
あのときの様子からすると、この尚侍の話は、父とは関係がないところから出たはずだ。
だが、決まった以上は、政治的な利用価値がある。
だから父は、土筆の周りをうろつく時峰を排除しようとした。
時峰が言うには、ある日突然、花房家の者たちが冷たくなり、門前払いをくらったのだという。
「何度も来たんですよ?」
居ても立っても居られず、なんとかタマを捕まえたこともあるという。
「ですが、タマさんからも申し訳ないと謝られるばかりで……」
「タマまで……?」
そんなことが、自分の知らないところで、起こっていただなんて。
「そんな……ヒドイ。何も教えてくれなくて……」
信頼していた女房だ。誰よりも、心を開いていた。なのに、聞いても逃げるばかりで、こんなことになっていることを、何一つ教えてくれなかった。
「いえ、タマさんを責めないでください。今晩、ここに通してくれたのは、タマさんです。」
「えッ?! どういうことですか?」
時峰が、「今日の昼間のことです。」と言った。
「また追い返されている私を捕まえ、今晩、早々に部屋を暗くするので、庭から忍んでくるように、と。」
「そんな……ことが?」
昼間、部屋を下がるときのタマの様子を思い出す。
時峰に会えなくて辛いか、と尋ねたタマ。何かを決意するような顔は、これだったのだ。
時峰が、今度は少し情けなく笑って、
「余程、私を憐れに思ったのでしょう。」
違う。
土筆は、時峰の言葉を頭の中で、否定した。
タマは、時峰を憐れに思ったのではない。
私が、この人に会えないことに……その辛さに気づいて、タマが呼んでくれた。
タマは、土筆を憐れに思ったのだ。
そんなことなど露知らぬ時峰が、話を続けた。
「だけど、貴女のお父上も、決して手放しで喜んでいるわけではなさそうですよ。」
時峰が、タマと別れて家に着いた後のことだという。
「花房資親殿から、手紙が届きました。」
内容は、何故に土筆が尚侍に選ばれたのか、調べて欲しいということだった。
「どういう経緯で姫が内裏に呼ばれることになったのか、情報を集めて貰いたい。そして、もし娘が何かに巻き込まれようとしているのなら、力になって……守ってやって欲しい、というものでした。」
父にとっては、娘が尚侍になるのは喜ばしいが、一方で訝るような気持ちもあった。
表立っては、時峰の来訪を断たせておきながらも、単純に、慶事に踊らされているわけではない。状況を見極めつつ、どにらに転んでもいいように、時峰との繋がりも、確保しておく。
その老獪さは、流石、実力で権大納言に成り上がった父だけある。
「私に……断る選択肢はないのですか?」
土筆が尋ねると、時峰は頭を横に振った。
「選択肢があっても、貴女は断らないでしょう。」
「どういう意味……ですか?」
「その様子だと、ご存じないようですね。」
御上から、土筆の知らない、追加の文が届いているのだという。
「そこには、どうしても土筆姫の出仕が難しいようなら、妹姫を出仕させよ、と書いてあったそうです。」
尚侍の欠員は困る。聡明な姫の妹なら、同じく聡いことだろうから、代わりに寄越せと。
「な………な……なんですってッ!?」
土筆の声が震えたのは、驚きではない。怒りだ。
「菫を? 尚侍に?? そんなこと、できるわけありませんッ!!」
あの子は男も苦手だが、それ以前に、人見知りだ。
その菫を出仕させるだなんて。一体、誰がそんなことを……ーーー
………いえ、違うわ。
土筆は、そのことに気がついて、思わず身震いした。
「……気味が悪いわ。」
「え?」
「だって、それ……目的は、菫じゃないと思うんです。」
どうやら、土筆を呼び込もうとしている人間は、土筆が考えている以上に、土筆のことを知っているようだ。
菫が社交的ではないことは、世間に、よく知られている。純粋無垢で、上等な織物で何重にも包むかのように、大事に大事に守られてきた、深層の姫。
その菫に、宮仕えが勤まるはずがない。
それなのに何故、菫なのか。
多分、その男は、知っているのだ。
菫を持ち出せば、土筆が動くであろうことを。
土筆が、絶対に菫を身代わりになど、せぬことを。
「これは、私のことをよく知る人物が考えた策略です。」
「策略?」
土筆がそう言うと、時峰は、「いや、しかし……」と戸惑いながら、
「失礼ながら、妹姫ほどではなくとも、貴女も決して交友関係が広い方ではありますまい?」
それは、確かにそうだ。
それなりに交友関係の広い時峰ですら、実際に会うまで、『花房家の次女』を噂程度でしか知らなかった。
その上、土筆と菫の関係性や行動原理まで正しく把握しているというと、相当に限られてくる。
「心当たりは、あります。ただ、それが、誰か分からないのですが……」
「どういう……ことですか?」
木の上の男。
土筆の語る話に、時峰は驚愕して、目を見開いた。
「なんてこと! 貴女は……貴女は、無事ですか? 危険な目にあったりは……」
「大丈夫。それは、大丈夫です。」
橘貴匁のこともある。
時峰が案じるのは、もっともだ。
「狐笛丸だけでなく、他の男にも貴女の庭に侵入を許してしまうなんて……」
時峰は悔しそうに言ったが、土筆は、それどころではない。
「時峰さま。その男に、心当たりありませんか?」
尋ねると、時峰はすぐに冷静に戻って、首を横に振った。
「帝ではない、というのはおっしゃる通りです。その日、私は宿直をしており、御上(帝)にお会いしていますから。ですが、近しい者……というと、すぐには……。」
せめて、もう少し特徴なりが絞れていないと難しいという。
「ですが、やはり御上に親しき人間だという、姫の考えに間違いないでしょう。何故なら、宮中には、貴女のことを最もよく知る人間がいますから。」
「……え?」
「女御ですよ。」
「あ………」
土筆の姉。三姉妹の長女、牡丹。
美しく、華やかで、人付き合いも良い。気遣い上手で、土筆とはまた違った意味での頭の良さを持ち合わせている。
今上帝を虜にする、完璧な貴婦人。
「牡丹が………?」
「自発的に話したのか、御上なりを通して聞きつけたのかは分かりませんが、女御なら、貴女のことをよくご存知でしょう?」
そう。その通りだ。
「でも、その男……なんのために、私のことを調べて……?」
呟いてから、愚問だと気づいた。
あの桃の男の狙いは、一つ。
「その、妙な練香のことでしょう。」
時峰が言った。
「おそらく、その練香とやらの調査のために、貴女の協力を仰ぎたいのです。そのために自分の近くに引っ張ったのでしょう。確かに貴女ならば、その者の期待に添う働きができるでしょうから。」
心から、そう信じている様子でキッパリと言い切った時峰だったが、一転、「ですが………」と、悩ましげに視線を伏せた。
「どうかされましたか?」
「実は、もう一つ気になることが……」
先程、話しそびれたことだと前置きをして、
「権大納言殿が私に、貴女の出仕に際して、情報を集めて欲しいと言った理由が、他にもあります。」
「お父さまが、時峰さまを頼った理由?」
時峰は、憂うような顔で頷くと、ゆっくりと告げた。
「私たちの知る限り、尚侍は欠員していないのです。」
「え……?」
通常、尚侍の定員は二人。だが、そのどちらも、宮中から下がるという話は、聞いていない。
「でも、確かに手紙には……」
ちょうど、尚侍に空きがあるからーーーと言っていたはず。
「尚侍を臨時で増員するのか、内々にどちらかが下がると決まっているのか……意図が分からず、不気味なのです。」
「そう………そうなのね。」
練香に、怪しい男。
狐笛丸、姉。そして、欠けていない尚侍。
物事は複雑な体を様して、まだ何もわからない。
けれど、それならば、私は………
私の答えはーーー
「時峰さま。」
土筆は、一度大きく深呼吸をすると、自らの決意を見失わないように、ハッキリと言った。
「私、出仕します。」
良くわからないまま招聘されるのは嫌だったが、本当に何か理由があるのであればーーーそれに、自分が役立てるのならば、その役割を果たせばいい。
あの練香は、摂津が出どころだという。事の経緯からして、時峰の叔父が絡んでいる可能性もあるのだ。
場合によっては、土筆が、時峰の役に立てるかもしれない。
だが、土筆は、帝の后になる気はない。
出仕して、自分の成すべきことをして、それが全て終ったら、離任と里下がりを願い出る。
「私にできることは、力になりたいと思います。」
口に出した決意。
それは同時に、当分の間、こんなふうに時峰と過ごすことが出来なくなる、という宣言だった。
今、時峰はどんな顔をしてきるのだろう。
少しは寂しいと思ってくれているだろうか。
月明かりだけでは、表情の細部までは読み取れない。
「貴女なら……」
時峰が静かに言った。
「貴女なら、そう言うと、初めから分かっていました。」
菫の名が出てきた時に、時峰は、とうに覚悟を決めていたという。
「時峰さま………」
心は決めているのに、少しだけ揺れる。
土筆は手を伸ばし、御簾を少しだけ上げた。
「時峰さま、あの……」
御簾の下、空いた隙間から、おずおずと手を差し出すと、勇気を出して告げた。
「………お手を、触れてもいいですか?」
ただ、指先に触れたかった。
いつかの……初めて会った、花の宴の、あの晩のように。
眼の前に、確かに時峰がいるのだと、感じたいだけだった。
はずなのに……ーーー
指先が触れ合った瞬間、部屋の外の簀子を、誰か歩く足音がした。
「あッ?!」
気づいたときには、土筆は時峰を、御簾の内に引き込んでいた。
「あ……あの……」
咄嗟の行動だった。
時峰を受け入れるために、ふわりと持ち上がった御簾の裾が、余韻でユラユラ揺れている。
引き込まれると同時に、時峰は勢い、土筆を抱きしめる格好になった。だから今、土筆は、時峰の香が薫る上等な直衣に、くるりと包まれている。
「ご……ごめんなさいッ!」
「申し訳ありません……」
土筆と時峰が、同時に謝る。
「私のために、ここに引き入れてくれたのだ、とわかっています。」
時峰にも足音が聞こえたのだろう。だから、これが不可抗力だと、互いに分かっている。
分かっているはずだけど………ーーー
「貴女が怖がるようなことは、決してしませんから。」
その言葉とは裏腹に、土筆を離す気配はない。
むしろ、先程よりも強く抱きしめ、
「土筆姫………」
耳元で、時峰の低い声が囁く。
湿った吐息が耳朶をくすぐり、そこから端を発した熱が、土筆の全身に広がる。
薫衣香に混ざる、時峰の香り。土筆を包み込む温もり。心臓が、忙しなく早鐘を打っている。
「貴女が、好きです。」
時峰が言った。
「貴女を、恋しいと思っている。私だけのものにしたい。手離したくは……ない。」
ずっと貴女に触れたかった、と泣きそうな声で言いながら、髪を梳くように、優しく撫でる。その指先も、土筆の背に回した逞しい腕も、少し震えていた。
それだけで、時峰の想いが、いかに真実か分かる。
どうして、気づかなかったんだろう。
なんで、軽いものだ……と思っていたんだろう。
この人は、危険を侵しても、尚、ここまで会いに来てくれたというのに。
土筆を包み込む時峰の、上等な直衣から匂い立つ、焚きき染められた薫衣香。
土筆の頭に、ふいに『至福の薫香』という言葉が思い浮かんだ。
人を狂わす、あの練香は、一度嗅ぐと忘れられぬ、とんでもない程の幸せを感じさせる香りだといっていた。
一体、どんな香りなんだろう。
でも、どんな香りだったとしても、多分、これには敵わない。
上品で優雅だが、真っ直ぐで、生真面目。
一見、完璧なようで、時折、土筆に見せる、ほんの少しの茶目っ気と遊び心。
まさに、近衛中将、藤高時峰そのもの。
直に触れ、感じて、分かる。
土筆を包みこむ、この香こそが、土筆にとっては紛れもなく、『至福の薫香』なのだ、と。
土筆は、時峰の着物の袖に手を伸ばした。
「……時峰さま」
名を呼ぶと、不思議と身体の強張りが解けていく。時峰に身体を預けるように、寄り添い、
「時峰さま……」
そのまま、もう一度呼ぶと、時峰がギュッと強く抱きしめ、それから、少しだけ身体を離した。
目と目が合う。
「……待っていても、いいですか?」
時峰が囁くように、聞いた。
「貴女が全てを終え、暇をいただき、戻ってくるまで、待っていてもいいですか?」
「でも……そんなことをしたら、時峰さまの縁談が……」
「断ります。全部。」
「え………?! そんなことをしては……!」
いけない。
仮にも名家の息子なのだ。
「太政大臣のお父さまにも、ご迷惑が……」
「誰にも、文句は言わせません。」
「そういうワケには……!!」
離れようとする土筆に反発するように、時峰が再び、グッと土筆の身体を引き寄せ、抱いた。
「私が貴女を待ちたいから、そうするんです………私が、貴女を好きだから……」
時峰の手が、ゆっくりと撫でるように、土筆の髪から頬に降りてくる。
「土筆姫……」
名を呼ぶ時峰の、凛々しい眉に添うような、切れ長の綺麗な瞳が、土筆を捉えていた。
あぁ、私はもうとっくに、この瞳に捉えられている。
私の心は、ずっと前から、この人にあったんだ。
時峰が、僅かに顔を傾げた。応えるように瞳を閉じようとしたところで、ふと、
「……私の名前は………」
話しかけた土筆に、時峰が動きを止めた。
土筆は、あのときのマナツのことを思い出していた。
あの日、去り際に自分の名を伝えた、大切な友人。
今、彼女の気持ちが、よく分かる。
本当に大事な人には、自分の名を知っていてほしい。それは、とても自然な感情。
土筆は、自分の手のひらを、頬に触れる時峰の手に重ねた。
「私の名前は……青子です。花房青子。」
「青子……」
「青々とした、の青子です。」
説明してから、
「可笑しいでしょう? まっ茶色で、頭でっかちな『土筆』とは、真逆ですもの。」
自嘲気味に言うと、時峰が小さく……本当に小さく、首を横に振った。
かと思うと、スッとその顔が側に寄って来てーーー土筆は、瞳を閉じた。
青子、と囁くように名を呼んだ時峰の唇が、そのまま土筆に触れた。
柔らかく熱い唇が、喰むように土筆の唇を包み込む。
優しい時間だった。
静かで、永遠のように永く、一瞬。
そして、ゆっくりと離れてゆく。
それから、また目と目が合って、時峰が、今度は照れたように、はにかんだ。
半分跳ね上げた御格子から差し込む月明かりが、二人を囲むように照らしている。まるで、この世界には、たった二人しかいないように。
* * *
その、一月後。
山が錦を纏う頃、土筆は尚侍として、密やかに宮中に出仕したのだった。
自らに課せられた役割を全うすべく、大きな決意を胸に抱いて。
ーーー 第一部 完 ーーー
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はじめまして。
最新話(3章)まで読ませていただきました。
私はミステリーが大好きでして、大感激しています。
物語の時代設定が平安時代でありながら
魔法とか妖術とかの特殊能力は無しに、
事実だけをもとに分析し、推理し、真実を明らかにしていく推理小説。
私には新しい出会いで、すごいうれしいです。
平安時代。
あのころは、起きた犯罪の数々は、
おそらくろくな捜査もおこなわれなかったでしょう。
そして結局、モノノケの仕業とか、呪いとかによるものとされてきたのでしょう。
でも。土筆姫は違います。
事件現場の様子や起きた事実だけをもとに、真実を明らかにしていきます。
しかも土筆姫は深窓のお姫様。外出などできません。
なので第2章までは、
現場検証したり、容疑者と対面したりするのは、パートナーの時峰様でした。
お二人は、最高のチームですね!
そして第3章では……
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土筆姫の活躍で真犯人がわかり、動機もわかったけれど
この後もまだ何か起こりそうで怖いです。
時峰様、どうかどうか、大切な人たちを護りぬいてくださいっ。
長々と書いてしまいました。すみません。
これからもずっと応援しています。
感想ありがとうございます!
こちらこそ、このような熱い感想をいただき、大感激しています!!
平安時代でありながら、あくまで「探偵小説」を貫きたいという作者のこだわりも、
外に出られないがゆえに「安楽椅子探偵」にならざるを得ないという設定も、
丸っと感想に込めていただき、「なんて素敵な感想なんだ!!」
と、何度も読み返してしまいます!!
ちょうど、安楽椅子探偵(というより推理小説…)の難しさに
頭を抱えていたところだったので、とても励みになりました。
この先も、「その時代だからこそのミステリー」を意識しつつ書いていけたら、
と思っています。
更新遅めですが、引き続き、気長にお待ちいただけたら幸いです。