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第5章 至福の薫香
7 急展開
しおりを挟む土筆が朝起きたときには、事態は急転していた。
「日が昇る頃に検非違使庁の方がみえて、北の方さまを連れていかれたそうです。」
土筆より少し早く目を覚ましていた菫が、教えてくれた。
「私が起きたときには、もうお姿が見えなくて、お父さまが、今日より自分の部屋に戻ってもよい……と。」
言いながらも菫は、一向に土筆の部屋から立ち去る気配がない。
「じゃあ、今晩から、菫は自分の部屋で休むの?」
土筆の方から水を向けてみると、菫は躊躇いがちに、「実は……」と、俯いた。
「様子を見ていた女房たちの話で、北の方さまがいなくなったあとに、検非違使の方が私の部屋の調度品をあれこれ開けたり、触ったりしていたそうで……。」
両手で、身体を擦るようにして、「気味が悪いんです。」と怯えている。
検非違使たちの目的は、例の練香なのだろう。
それを菫の部屋の何処かに隠していないか確かめるために、検めたのだ。
あの話を聞いてしまった土筆としては、そんな危険なものが菫の部屋に残されているかもしれないと思うと気が気でないので、つぶさに調べてくれるのは大歓迎なのだが、当の菫は知る由もなく、気味悪がるのも当然だろろう。
教えてあげるわけにもいかないし……。
「しばらく、お姉さまの部屋にいてもいいかしら?」
不安げに言う菫に、自分ができる精一杯の気持ちを込めて、
「もちろんよ。貴女の好きなだけ、ここにいたらいいわ。」
もともと繊細な子だ。そんな部屋では気が休まらないだろう。
土筆の言葉に、菫は「ありがとう」と、ホッとしたように、頬を緩ませた。
* * *
その後の成り行きを、土筆は知らない。
父に尋ねたこともあるが、言葉を濁され、教えてもらえなかった。父が、あの怪しい練香のことを、どの程度知っているかも分からないから、あの男のことを軽々しく話すことも躊躇われる。
時峰でも来てくれれば聞くこともできようが、父と三人で話した日以降、会っておらず、今の土筆には他に知る術はない。
結局、事件の真相は、あの正体不明の男が言った通りだったのだろうか。
あの男……何者なんだろう。
橘貴匁でないことだけは確かなようだが、男の残した言葉ーーー私はタチバナではなく、桃ーーーの意味も分からぬままだった。
だが、土筆なりに考えたこともある。
何故、北の方が橘貴匁を想起させる「白い着物」を持ち出したのか。
あの桃の男の言うとおり、笑み少納言が狂い香を使っていたとしたら、それを少納言に渡していたのが、橘貴匁だったのではないか。
もともと植物毒の効能や、調合に詳しい男だ。
少納言邸に出入りしていたことを考えると、摂津から、どういう経緯があったのかは分からないが、手に入れた練香を少納言に渡していた。そして、北の方も、それを知っていたのではないか。
であれば、北の方には、夫がこんなことになってしまったことに……あの練香が夫の心を蝕み、命を奪ったことに対して、憎しみの気持ちは少なからず、あったはず。
検非違使から問われたことで、彼らが貴匁の………狐笛丸という怪しげな人物の存在を知っているのだと気付いて、あの男を追うように仕向けたのは、北の方からの精一杯の復讐だったのではないか。
危険な賭けだ。
自分にも害が及びかねない。
だが、あの晩、泣きながら謝っていた北の方の姿を思い出すにつれ、北の方にも、覚悟があったのかもしれない、とも思うのだ。
夫を死に追いやった者への憎悪が、自分にも困難が降りかかることを承知の上で、「白い着物」と告げさせたのではないか…と。
そんなことを考えながら、一人、碁盤に石を並べているときだった。
「土筆姫はいるかッ?!」
いつもの如くーーーいや、いつもより大仰に、父の資親がやって来た。
「お父さま、どうされたのですか? そんなにドスドスと。足音で部屋が揺れてしまいそうだわ。」
軽口を叩いた土筆とは対象的に、父は、ギンと見開いた瞳で部屋をぐるりと見回すと、
「土筆一人か?」
「菫は、お母さまのところに。」
少し前、母の根雪のところに行くと出ていったばかりだ。
「どうかなさったのですか? 菫を呼びにまいりましょうか?」
土筆が尋ねると同時に、優秀な女房のタマが腰を浮かしかけたが、
「いや、いい。」
制した父の顔には、興奮と驚きと戸惑いがごちゃまぜになった、何とも形容しがたい感情が浮かんでいた。
権力欲旺盛で、本心を隠すのが上手い父の顔に、これだけの感情が一斉に現れているのは、珍しい。これは、よほどのことがあったに違いないと、心配している土筆に、
「帝が……」
父が口を開いた。だが、すぐに言葉を切って、ハッハッと短く息を吐いた。
それから再び、
「お前…最近、帝か……あるいは、帝に近しい者に、会ったか?」
土筆は、「はぁ?」と眉根を寄せて、
「帝……御上のことでございますか?」
あまりにも突拍子もない質問だ。
土筆は、基本的に家に引きこもっているわけで、そもそも他人との交流が限られているのに、帝になんて関わるワケがない。
「いいえ、お会いしておりませんが……なぜですか?」
父は、土筆が問い返したのも無視して、
「ふぅむ。ならば、何故に………」
と、顎の下に手を当て、首を捻っている。
そこで初めて、土筆は、父の手に文が握られていることに気がついた。
「それは……?」
尋ねると、父が、「あぁ……」と両眉を上げてから、土筆に文を差し出した。
「お前のことだ。」
土筆が受け取るが早いか、
「お前を尚侍に寄こせ、と書いてある。」
「えッ?!」
驚きのあまり、土筆は危うく、拡げかけた紙を破るところだった。
「な………な……尚侍ですか? 何故に?」
その話は、父が一時、野心を抱いて色気をみせていたが、土筆が嫌だとハッキリ断って、流れたはずじゃないか。
しかし父は、
「それが分からんから、私も驚いている。」
その反応からすると、こちらから何かを仕掛けたわけではなさそうだ。
では一体、どこから、そんな話が降って湧いてくるというのだ!!
「その手紙の内容を一言でいうと、お前の慧眼に恐れ入ったから、力を借りたい。ちょうど尚侍に空きがあるから出仕しろ、という話らしい。」
「まさかッ?! そん……な、こと……?」
本当に書いてあるのかと、信じがたい気持ちで文を読んだが、果たして父の言う通りだった。
「慧眼に恐れ入った、という書きぶりからして、どこかでお前と接触しているはずだと思ったのだがな。」
「御上にお会いして、覚えていないはずがありません。」
土筆の反論に、父も「そりゃあ、そうだよなぁ。」と頭をかいたが、ふと、土筆の頭に過ぎったのは、あの正体不明の桃の男の姿だった。
まさか………?
あの正体不明の怪しげな桃の男……ーー
いや、しかし、流石に御上が、あんなふうに出歩いたりはするわけない。
「あの……」
それでも、念の為、父に、「御上は、どんな方ですか?」と尋ねてみると、
「御上……?」
「はい。お父さまは、お会いになっていますよね。あの………お顔ですとか、体つきですとか……何かこう…特徴みたいな?」
「そりゃあ、勿論、私は直接お会いすることもあるが……。」
父は少し考えてから、
「穏やかな方だな。身体つきは時峰殿より大柄で、武芸にも秀でているから目を惹くが、穏健で優雅な方だから、無骨な感じはないな。」
時峰より大柄………あの木の上の男はどうだっただろう?
そんなに大きかったようには思えないが……距離がある上、姿の大部分が隠れていたから、分からない。
ただ、あの木の上に腰掛けるヤンチャぶりや、やや挑発的な物言いは、『穏健で優雅』という形容とは、重ならない。
「もともと幼少より落ち着いた雰囲気の方だったが、先帝の譲位を受け、口髭を生やされてからは、ますます……」
「口髭?」
土筆が父の話を止めた。
「御上は、口の上に髭があるのですか?」
「ああ、即位と同時に生やされてな。綺麗に八の字に整えられた髭だ。」
「髭……」
姿は、見えなかった。
顔も。
唯一、視認できたのは、暗く生い茂る葉の間から、ポッカリと浮かびあがる白い肌の口元。そこにはーーー髭などなかった。
「そう……でしたか。」
当たり前だが、帝本人なわけがない……か。
しかし、あれくらいしか土筆に思い当たる接点と呼べそうなものはないのだ。
あの男は、検非違使の動向を把握していた。しかも怪しげな練香が出回っているのを調べている。
どう考えても、只者ではない。
とすると、検非違使庁か、あるいは近衛ーーー事務官ならば、蔵人所あたりの役人だろうか。
蔵人所は、帝の政務を補佐する機関だから、機密事項を多く扱うという。
いずれにして土筆の存在を、帝に進言しうる人物に違いない。
時峰なら、思い当たる人物がいるだろうか。
今度来た時に、尋ねてみようかしら?
そう思って待っていたのに、不思議なことに、待てど暮らせど、一向に時峰がやって来ない。
今までは3日とおかず顔出していたのに、もう何日も、文一つ寄越さぬ。その突然の沈黙に、土筆は少なからず動揺していた。
事件が一定の解決をみてから、すでに5日。
菫は昨日から、自分の部屋に戻っている。
もう遠慮する必要はない。
にも関わらず、時峰の音沙汰が、全く聞かないのだ。
何かあったのかしら?
最後に会ったときーーーこの部屋で、父と三人で話した時に、自分は、何かおかしなことをしてしまったのだろうか。
不安になって考えてみても、何も思い当たることはない。
こちらから文をしたためてみようかしら……ーーー。
そんなことばかり考え、思い悩んでいた土筆は、ついに、自らタマに尋ねた。
「ねぇ、最近、中将さまはお忙しいのかしら?」
「え……?」
タマは明らかに、動揺した様子で、くりくりと視線を逸らせると、
「えぇーっと……中将さま……というのは、どちらの中将さまですか?」
「何を言っているのよ。時峰さまに決まっているでしょう?」
「あ……あー、藤高時峰さまですね。」
つい先日まで、時峰が来たとあらば目の色を変えて喜んでいたくせに、今のタマときたら、「そうですよねぇ」、「最近見ないですわねぇ」などとブツブツ呟いている。
かと思うと、突然、
「あっ! 旦那さまが呼んでいる……」
「呼んでいる?」
「気がしますので……失礼いたします。」
不自然な笑顔を浮かべながら、後退りして、部屋から出ようとした。
これは、いよいよ、おかしい。
タマは絶対に、何か隠している。
「おタマちゃん?」
吐かせなければ、と意気込んむ土筆。
「何か……知っているのよね?」
タマがビクリと肩を震わせた。
「何かしら?」
常になく、にこやかに問いかけると、
「あの………その…あの………」
と、あたふたしていたかと思うと、突然、諦めたように肩を落とした。
深いため息を一つして、
「姫さま………」
一転、真剣な眼差しを土筆に向けた。
「……時峰さまが、いらっしゃらないと、寂しいですか?」
「えっ?!」
「お会いできないと、お辛いのですよね?」
突然差し出された想定外の問いかけに、土筆は慌てふためき、
「あの……別に寂しいとかではなくて、ただ、どうしているのかしら、と……お尋ねしたいこともあるし……。」
しどろもどろに答えたものの、これではまるで自分が、時峰が来ないことに動揺しているみたいだわ……と、かえって恥ずかしくなる。
「あ……あの?」
土筆は誂われるのを覚悟したが、タマは神妙な顔で、ただ、「分かりました……」とだけ言うと、くるりと踵を返した。
「あっ……待ッ………て」
呼び止める声も耳に入っていないのか、タマは、さっさと部屋から出ていった。
土筆は、しばらく呆然としていたが、だんだんと、なぜだか、自分に腹がたってきた。思わず口から文句が漏れる。
「………もうッ!! 一体なんなのよ!!」
そもそも、何でこんなに落ち着かないのか。
時峰が来ないから?
タマが何も教えてくれないから?
タマの質問が………核心を突いていたから?
土筆は、ブンブンと頭を振った。
確かに、時峰さまは良い方だわ。
今は土筆にとって、良き友人……より、ちょっとだけ上にいる。
………いえ、正直に言うと、やっぱり、それでは少し足りないわ。
顔が見れないと淋しく思うし、お会いしたいと思う。つまりーーー土筆にとって、大切な人。
時峰も、土筆のことを、それなりに好いてくれてはいるようだ。
でも……それは、どの程度、本気なのだろう。
時峰が、噂ほど浮ついた遊び人でないことを、今の土筆は知っている。結構、生真面目だし。だからこそ、少し変わり者の土筆が興味深いのだろう、とも思う。
だが、だからと言って、本当に、本気で土筆に恋をしているなどとは、とても信じられないのだ。
土筆には、姉のような華やかさも、妹のような可憐さもない。
十人並みの容姿に、賢しさばかりが取り沙汰される自分のことを、本気で好きになるだなんて………ーーー
そんなことを考えていると、なぜだか鳩尾のあたりが、ズンと重くなった。
どうしてだろう。
この憂鬱は、初めての感情。
きっと、少納言さまのことがあって、疲れているに違いない。おかしな男は現れるし、怪しげな練香の話は聞かされるし、おまけに尚侍だもの。
土筆の暗い表情に気付いたタマが、「今晩は、早めにお休みになったほうがいいですよ。」と、早々に寝支度を整えてくれ、灯りを消して出ていった。
一人になった部屋で土筆は、せっかくタマが準備してくれた床にも、横になる気になれななかった。
風通しのためにと半分跳ね開けた蔀戸から見える月を眺めていた、そのとき。
コンコンと扉を叩く音。
多分、タマだろう。蔀戸を、後で閉めに来ると言っていたから。
「タマ。蔀戸は、まだ降ろさないで欲しいのだけれど……」
土筆が声を掛けると同時に、扉がギギギと音を立てて開いた。
その向こうに、月明かりを背にした人影。
背が高い。
烏帽子に袴。タマではない。
男性だ。
「………土筆姫?」
「あ………」
自分を呼ぶ声にーーー聞き覚えのある、低く響く、その声に、ひょっとしたら…と抱いた淡い期待が、当たっていたと分かり、胸がときめいた。
「時峰さま。」
「部屋に入っても、いいですか?」
「はい。」
土筆は、慌てて御簾をおろして、内側に行く。
時峰は、闇に紛れて滑り込むように静かに部屋の中に入ると、ゆっくりと扉を閉めた。
外に跳ね上げるように開いた半蔀から、月明かりが差している。
閑かな夜に、時峰の徐々に近づく足音だけが聞こえていた。
一歩、一歩と近づく音に、土筆の身体が緊張で、グッと力が入ってしまう。
時峰は、土筆のいる御簾の前まで来ると、無言で腰掛けた。夜が創る影のせいか、整った顔が、いつもより険しくみえる。
「あの……お、お久しぶり……ですね。」
土筆がかけた声は、少し上ずっていた。
時峰が、会釈をするように、小さく頷く。
「随分と……お見えにならなかったので、その……何かあったのかと、心配いたしました。」
言ってから、来なかったことを責めているように聞こえはしないかと、慌てて言い訳しようとしたが、何を言ったらいいのか、分からない。
下唇をキュッと噛んで時峰の言葉を待ったが、時峰は何も答えず、ただ、ジッと睨みつけるようにこちらを見ているばかりだ。
「………時峰さま?」
沈黙が続いた。
風の音もなく、ただただ、静かだった。
雲が月灯りを隠して、また、仄かな明かりが差した。
やがて、時峰が口を開いた。
「そちらに……」
射るような真剣な眼差しは、どこか追い詰められているような切迫感を伴って、土筆に向けられている。
時峰が、ゆっくりと尋ねた。
「その御簾の内側に……行ってもいいですか?」
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