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第5章 至福の薫香
5 犯人は…
しおりを挟む昨晩、覗き見てしまった衝撃的な光景を引き摺りながら眠りについた土筆は、朝餉の後まで、気が滅入っていた。
一体、あれは何だったのか……。
やはり北の方は、何かに憑かれていたのか。
だとしたら、北の方をあのまま、菫の部屋に置いておいて良いのだろうか。
北の方の息子が戻るまで、早くて、あと2日程。
今日も北の方は、菫の部屋に引きこもって過ごすのだろう。
タマに聞いたら、北の方の様子が分かるかしら。昨晩のことを、後で父にも伝えておかないと。
そんなことにアレコレ頭を悩ませていた土筆だったが、無邪気に「お姉さま! 今日は、碁をいたしましょう!」と誘いをかけてくる菫を見ていると、ひょっとしたら昨晩のことは全部、夢だったのかもしれない、などとも思えてくる。
菫に誘われるまま、気を紛らわせようと、五目並べをしていると、タマが部屋にやって来た。
「あの……」
土筆の側に寄ると、戸惑うように、
「北の方さまが、お二人にご挨拶をしたいとおっしゃっているのですが……」
「北の方さまが?」
土筆は、碁石を打つ手を止めた。
あれ程、「構わないでほしい」と言っていた北の方が、自ら?
土筆はあまり良い予感がしなかった。
もしかして、やはり昨晩、土筆が覗いていたことに気がついていたのか?
それで、探りを入れに来たのではないか?
土筆のそんな疑心など、つゆ知らぬ菫は、慌てて碁石を片付けている。いざという時には、自分が、この純真無垢な妹を守らなくては。
そう意気込んで迎えた土筆だったが、北の方は、予想に反して、上機嫌に現れた。
「まぁ、まぁ、まぁ~」
高い声で陽気に近づいてくると、
「先日はロクにお話もせず、申し訳ございませんでしたわ。この度は、本当に、何から何までお世話になってしまいまして。」
頬は変わらず痩せているが、表情がグッと明かるいせいか、悲愴感がない。
「おタマさんってば、気が利くものですから、何から何まで頼りきりで……土筆さまには、おタマさんをお借りしてしまい、随分とご不便をおかけしているのではと、そればかりが気になりまして。」
「い……いえ、とんでもございません。北の方さまのお顔色が随分と良くなったようで、安心しました。」
すると、北の方は目頭に軽く手を当て、涙を堪えるようにして、
「夫を亡くしたときは、悲しく、辛く……この世の終わりのように思っておりましたが……でも、」
蒸気した頬をパッと上げると、
「昨晩、良く眠れたせいかしら? 心が落ち着いて参りまして、いつまでも悲しんでいても仕方がない……と思えたの。」
と、華やかに笑った。
その笑顔は、人好きだと言われた、在りし日の北の方の姿を想起させたが、昨日までとのあまりの落差が、土筆には、かえって不気味に思えた。
「昨晩……良く眠れた…のですか?」
警戒を顔に出さぬように、慎重に尋ねると、
「えぇ、それは、もう!!」
北の方が、上機嫌に何度も頷く。タマが横から、
「何でも、香を焚かれたそうで……それが良かったようですよ。」
頼まれて、火種の入った香炉を寝る前に用意しておいたのだという。
「昨晩……香を?」
すると北の方が、
「えぇ、えぇ。唐物の希少な香でして、それはもう素晴らしい香りで……それを焚くと、不思議と、とても気が落ち着くのです。」
土筆が覗いたときには、香を焚いているような匂いはしなかった。すると、焚いたのは、あの後だろうか?
だとすると、あのときの北の方はやはり、夫を亡くしたことで、心が乱れていたということか。
耐え難い思いをされたのだ。きっと心が千切れそうな程に辛かったに違いない。それで、あんなふうに取り乱されていたんだ。
土筆が部屋に戻った後、その希少な香とやらを焚いたおかげで、よく眠れて気が晴れたのかもしれない。
それならば、良かった。
良かった……けれど、では昨晩のあの台詞は……?
北の方の、あの懇願するような……
ーーーごめんなさい………こうするしか、なかったの…
土筆は、頭を振った。
いいえ、あまり気にしすぎることないわ。混乱していたのなら、深い意味なんてないのよ。
目の前の、別人みたいににこやかで饒舌な北の方。
「今朝起きたら、随分と頭がスッキリと冴え渡りましてね。それで、今までひどくお世話になりっぱなしだったことに、気がついたのです!」
大げさな仕草で、「私は、なんてことをしていたのかしら……」と、口元を覆ったかと思うと、瞳を爛々と輝かせ、
「先程、急ぎの文が届きましたの。明日には、息子が帰ってくるそうで、これはいけない、今のうちにお世話になった礼を言わなくては! と慌ててタマさんに、お願いしましたのよ。」
「明日……?」
予定より早いのではないか。
タマがまた、「息子さんだけ一人で、先んじて戻ってくるそうですよ。」と付け足した。
「息子が帰りましたら、私も元の家に戻りまして、今後のことを決めたいと思いますので。」
北の方は、明日の朝には発つつもりだと言うと、後はくどい程に礼を言って、去っていった。
土筆は、北の方がいなくなると、「ふぅ」と一息ついた。
これで終わり。
結局、強盗事件の真相は分からず終い。
あの北の方の腑に落ちない言動も、奇妙な行動も、台詞も全て、土筆が気にすることではない。
スッキリした顔の北の方とは対象的に、土筆の心にはモヤモヤとしたものが残っていたが、それでも自らに、もう関わる必要はないのだから、と言い聞かせて納得させた。
実際、土筆がこれ以上、深入りすることはないーーーはずだった。
その正体不明の男が、やって来なければ。
しかし、土筆は、突如現れたその男のせいで、思わぬ形で事件の真相と、そして裏の裏を知る事になるのだった。
◇ ◇ ◇
その晩の土筆も、なかなか寝付けなかった。
何も気にすることは、ないのだ。
どうせ北の方は、明日の朝には発つのだし……と、頭では分かっていても、小さな違和感が、土筆の中に燻ぶっていた。
北の方の奇行のことは、父にも伝えてある。
父は、少しだけ険しい顔をして、「分かった」と短く答えた。今夜は、北の方の居住している菫の部屋の庭側に、見張りの人を置いてくれているはずだ。
土筆は、しっかりと御格子を締め、何度も掛けがねを確認してから、菫と二人、眠りについた。
今夜は何があっても、外に出ないようにしよう。
そう強く決意していたーーーはずだったのに、結局、土筆は再び部屋の外に出てしまった。
昨夜の呻き声が聞こえたわけではない。
今晩聞こえたのは……ーーー笛の音だった。
閑かな晩に、微かに聞こえる笛の音を捉えた瞬間、土筆は床から跳ね起きた。
「……?!」
あたりを見回す。部屋の中は暗い。隣の菫は、今夜も良く眠っている。
土筆は、昨日と同じように袿を肩にかけると、掛けがねを外して外に出た。
簀子を通って、庭に回り込む。
音は、土筆が外に出るのと同時に止んだ。
代わりに、庭の橘の木の枝に、男が一人座っている。
あの日、狐笛丸と名乗る橘貴匁が座っていたのと全く同じ場所だった。
白い花がとうに落ちた橘の枝は、濃い緑の葉が繁る間に、ところどころ黄金色の実が成り始めている。
男の顔は、葉に隠れて見えない。
まるで、橘の枝葉が男の姿を見せまいと、意志をもって覆い隠しているような気さえした。
「橘………貴匁なの?」
「………」
男は、返事をしない。
「どうして………ここに来たの?」
「………」
やはり沈黙。
土筆は、緊張で乾いた喉に、ゴクンと唾を一つ飲み込んだ。
「貴方が………貴方が、少納言さまを殺したの?」
瞬間、強い風が吹いて、枝がザザザッと揺れた。
ブルリと身が震え、土筆は袿の襟元をギュッと掴んで手繰り寄せた。
「………何も答えないのね。」
溜息をついて、
「じゃあ、どうして……何をしに、ここに現れたの?」
すると、橘貴匁らしき男は、口を開いた。
「………君は、少納言を殺したのは誰だと思う?」
瞬間、土筆の心に芽生えた違和感。
橘貴匁の声は、こんなだったかしら?
話し方は……ーーー?
土筆は、必死で記憶を辿った。
思い出せない。
狐面を外した『橘貴匁』という人間は、姿形も、声さえも、ともかく記憶に残らない男なのだ。
土筆は、男の顔が多少でも見えないかと、じっと葉の隙間に目を凝らした。だが無駄だった。
男はただ、じっと座ったまま、土筆の返事を待っているようだった。
「………どうして、そんなことを聞くの?」
土筆が尋ねた。
だが男は、その質問に答える気はないらしい。代わりに、
「君は、少納言を殺したのは強盗だーーーと、思うかい?」
と、また聞いた。
「………いえ。」
仕方なく土筆が答えると、
「では、北の方か?」
何故だか、男に試されているような気がした。
「………いいえ。北の方さまには、無理かと思います。」
「何故だい? いくら偉丈夫な少納言でも、寝ている間にブスリと殺られれば、ひとたまりもなかろう?」
塗籠の壁一面についた刀傷など、少納言を殺してからつければ可能だという男に、土筆は、父や時峰と話したことを、そのまま答えた。
「なるほど、傷跡の位置に、刀……ね。」
男は、「ふぅん。」と一つ、頷くと、
「他に、気になることは?」
「え?」
「他に気になることは、ないのか?」
些細なことでもいいから、話してみろと言う男に、土筆は、父や時峰の前では口にはしなかった小さな引っかかりを告げた。
「割れた壺……」
「壺?」
「あっ……いえ、本当に大したことではないのですが……」
庭に落ちていたという壺。強盗が逃げる時に、足にあたって蹴り落とし、割れたという。
その破片が、主殿の簀子の下に散らばっていた。
「割れる前の壺は、どこに置いてあったのでしょうか?」
「ほう?」
男が「何を言いたい?」と、興味深げに先を促したから、
「最初、父から話を聞いた時に気になったのですが……壺のようなものは、大抵、塗籠に置いておきますよね? でも部屋の真ん中あたりの塗籠から、部屋の外の、さらに簀子の向こうまで壺を蹴り落とすなんて、よほど脚力に自信のある方が蹴鞠のように気合を入れて蹴らないと、飛ばないかな……と。」
もし北の方の言うように、逃げる強盗の足に当たったのなら、そんなところにまで転がるのは、不自然だ。
「壺は、初めから簀子に置いてあったんじゃないのか? 少納言は月見酒をしていたから、酒のアテに、美しい壺を眺めていた、というのはどうだい?」
それも、あり得る。だが……
「だとすると、外を眺めながら月見酒をしていた最中の、腕のたつ少納言さまが、たった一人の強盗の侵入を許したうえに、主殿の奥の塗籠までアッサリ押入れられて、そこで激しく闘った、と?」
土筆の感じたことを正しく理解しているのか、いないのか、男は、「なるほどな。」と何度か頷いて、
「昨晩、ちょっと少納言邸を見てきたが、確かに、刀傷は、塗籠にしかなかった。」
「昨晩………見てきた?」
「あぁ、いや。気にしないでくれ。」
そう言うと、男はまた、「気になることは、それだけか?」と、聞いた。
「え?………えぇ、それだけです。」
土筆が頷くと、橘の葉がガサリと揺れた。嫌な音だった。
「嘘だな。」
男が言った。
「君には、まだ気になることがあるんだろう?」
男に問われ、土筆は驚いて、「えッ?!」と、声を上げた。
それで、男は何かを確信したらしく、
「気になることは、何だ?」
言ってみろ、と煽るように言う。
「何でも……ありません。」
またも否定する土筆に、
「少納言の、名誉に関わることか?」
「何故、それを?!」
驚いて、思わず問い返した。だが、男は変わらず冷静で、
「やはり、そうか。だから、口に出すのが憚られるんだな?」
橘の葉の向こうで、男が深く頷くのが見えた。
まるで土筆の頭を過ぎったことを、見透かしているかのように。
「それならば、君の代わりに私が言おう。」
「ちょッ………」
止めようと声を上げた土筆を制するように、男が片手を上げた。
そして、ゆっくりと、土筆の心を掠めた疑惑を代弁する。
「君も考えた通り……笑み少納言は、ジシで間違いないだろう。」
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