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第5章 至福の薫香
4 怪しい北の方2
しおりを挟む「実は私も北の方の言動には思うところがあったのだ。」
という父、資親の言葉に、土筆と時峰は、「えっ?!」と、同時に声を上げた。
「あっ、いや……勿論、北の方殿には無理だと分かっているのだが。」
「無理? なぜですか?」
土筆が尋ねると、父が
「笑み少納言のことを忘れたか? にこやかで人当たりは良いが、かなりの剛力で腕の立つ男だ。」
確かに、少納言の体躯は、父より一回り大きい。
「そういえば以前、御前で狩会をしたときの逸話がありましたわね。仕留めそこねた鹿が、皆に向かって突進してきたのを、少納言さまが太刀一本でくい止めたという……」
「左様。あれ程の男が、女と刀の打ち合いをして、やられるわけがない。」
狭い塗籠には、壁面に無数の刀傷があったという。相当激しく争ったのだろう。
その末に、北の方が笑み少納言を、喉を一突きに打ち取った…というのは、あまりにも無理がある、という父の主張は、確かに、その通りだった。
それくらいは、土筆にだって分かる。
だが一方で、
「刀傷を後からつける、というのは、どうでしょう?」
「後からつける?」
「はい。例えば深酒をして眠っている少納言さまを襲って、息絶えたのを確認してから、塗籠の壁に、まるで切合をしたかのような傷をつけるのです。」
強盗が忍び込んで争ったかのように。
そして、全ての処理が終わってから、たった今、それを目の当たりにしたかのように、悲鳴を上げるのだ。
土筆の説に、資親が「むむむ」と唸った。
「面白い考えではあるが……」
「しかし塗籠の傷は、相当深かったと聞きましたよ。」
父に代わって異を唱えたのは、時峰だった。
「抉れるように削れたものや、六尺近い場所についていたものもあったとか……」
「六尺?!」
「いや……まぁ、実際に測っているわけではないだろうから、見た者が多少大げさに言っているところはあるかもしれませんが……。」
六尺というと、180センチ程度。一般的な成人の男の背よりも高い。
「普段、刀を握り慣れていない女性が、争い後のように壁中を傷だらけにするなんて、無理ですよ。手が血豆でボロボロになってしまう。北の方殿の手に、そんな跡はありましたか?」
問われた土筆は、あのときの北の方の揃えた手を思い出す。
「小さな……切り傷が、ありました。」
人差し指だった。血は止まっていて、大したことないと言われた。
父と時峰が、顔を見合わせた。
「刀を握っても、指先に切り傷はできん。それは関係ないだろう。」
「でも………」
あのとき、案じる土筆に、北の方は、傷を隠すように反対の手で覆ったのだ。確かに、その手は白く美しく、マメなどできている様子はなかったが、どことなく不自然だった。
すると、また時峰が、
「それに、刀の問題もあります。」
「刀……ですか?」
「姫は普段、刀など握らないから、ご存知ないでしょうが、深く人に差し込んだ刀は、抜けば、激しく血が溢れ出る。」
「あ………」
時峰の言わんとしていることが分かった。父も補足するように、
「塗籠の刀傷には、多少血が混じった物もあったようだが、喉に刺さった刀を抜いたら、そんな程度では済まない。辺り一面血溜まりだし、抜いた者の返り血も相当だろう。」
「と、言うことは、もし、姫の仰るように、先に少納言を殺してから塗籠に傷をつけるとなると、少納言を刺したのとは別の刀があった、と考えたほうが自然です。」
これには土筆も、「なるほど」と納得せざるを得ない。
「時峰さまのおっしゃる通りですね」
では下手人は、刀を二本用意したのか。
そうなると、気になるのは、そもそもの刀の出所だ。
「少納言さまのお命を奪った刀というのは、どのようなものなのでしょう? 元から少納言邸にあったものですか?」
「少納言邸の塗籠にあったものだそうだ。北の方殿は恐ろしがって確認できなかったそうだが、屋敷に残った使用人のうち、古くから仕えて来た者が認めた。」
「少納言邸の刀は、それ一本だけですか?」
「その老齢の使用人が言うには、以前は、もう一本長刀があったが、事件よりも前に失くなったらしい。」
主人がいつの間にか処分したようだが、それは、いつ、どこに消えたのかは、分からない。
「ただ、もし、その失せた刀を……あるいは、他の刀を北の方さまが持っていたとしても、皆を呼ぶまでに隠さなくてはならないでしょうから、その範囲は自ずと限られてきますわね……」
父と時峰は、「それなら、探せば出てくるかもしれない」や、「検非違使に進言してみましょうか?」などと言いながらも、土筆も含め、皆、内心、北の方にはやはり無理だろう、と思っていた。
そして、様々な意見が出尽くすと、誰も、それ以上、有効な考えを思いつかず、沈黙が場を支配した。
土筆は改めて、事件の登場人物たちに思いを巡らせた。
北の方の言動は、やはり不審。
橘貴匁は、言わずもがな。
かと言って強盗も、嘘だと断じるには決め手にかける。
じゃあ、他に誰がいるだろう。
旅に出ている息子に、娘。屋敷に残った使用人たち。
全てが怪しいのに、どれもピタリと嵌まらない。
そんな気持ちの悪さがあった。
その時、父がポツリと言った。
「あいつ、何か悩んでいたのかなぁ………」
「え?」
「あぁ、いや……」
父は、ポリポリと頭の後ろを掻いて「笑み少納言のことだ。」と言った。
「どうして、狐笛丸なんていう、怪げな男を引き込んでしまったのかと思ってな……」
確かに、本当に狐笛丸と会っていたとするの、その理由は2つしかない。
呪うか、呪われるか……ーーー
笑み少納言の人柄は、土筆も良く知っている。明るく、誰にでも別け隔てなく笑みを振りまく、気持ちの良い人。
「少納言さまが人を呪う……だなんて、考えられません。」
「私も、そう思う。」
しかし、少納言が呪われるというのも、また、呪うのと同じくらい、ピンとこない。
少納言が、人から恨みを買うような人間だとは思えないのだ。
「しかしなぁ……私とて、少納言とは付き合い旧く、よく知っているつもりだった。だが、本当のところのあいつの本心を知っているか……と、問われれば、それは、良くわからない。」
「呪われるようなことをされている……と?」
土筆が避難めいた口調で尋ねると、
「そういうことではない。」
父は、すぐに否定した。
「そういうことではなく、あやつは……あやつは、いつも陽気で、頼まれると否と言わない人間だった。だが、心の奥底では何か辛いことがあったのか、悩んでいたのか、そういうことを、私は見逃していたのかもしれぬ、と思ってな……」
父の言葉には、もう二度と本心を聞くことが叶わぬ友への後悔が滲んでいた。
* * *
その日の晩の出来事だった。
土筆は、また、あの音を聞いた。
びゅぅびゅぅという風の音に紛れるように響く、獣のような低い唸り声。
やはり気の所為ではない。
方向は……昨日と同じく、菫の部屋のほう。
今夜は風音が小さいせいで、ハッキリと耳に届く。
もしかして北の方さまは、どこか具合が悪いのかしら。
それとも、何か隠し事が……ーーー?
怪しい北の方。
昼間の話が、土筆の頭をよぎる。
土筆は、横に寝ている菫を起こさないように起き上がると、近くにかかっている袿を取って、肌着の上から羽織った。
忍び足で扉まで行き、掛けがねをはずして、外に出る。
秋の始まりらしく、夜風は冷たい。
その風の音に混じって、やはり人の声のようなものが聞こえる。部屋の中にいる時よりも、はっきりと。
土筆は、袿の前をキュッとつかんで、外の簀子を通り、隣の部屋と繋ぐ渡殿(渡り廊下)へと向かった。
声は、やはり菫の部屋ーーー今は、少納言の未亡人のいる部屋から出ていた。
部屋の前まで来ると、もう疑いようもないほど、しっかりと、人の声が唸っている。
「あぁ“……う……うぅ………」
息苦しそうな、辛そうな呻き。
やはり、北の方に何かあったのだ。そうに違いない。
「あ……あの?」
土筆は意を決して、扉の内に声をかける。
「大丈夫ですか? 具合が……悪いのですか?」
控えめに、トントンと扉を叩いた。だが、返事はない。
それで、扉を押してみたが、内側から掛けがねが降りているのか、開かない。
すると突然、ガンッと何かが壁に当るような音と揺れ。いや、当たるという表現では、生易しい。激突した、というほうが正しいくらいだ。
「北の方さまッ? 大丈夫ですか?!」
土筆が慌てて呼びかけ、扉を引くと、今度はギギギと動いた。今の衝撃で、掛けがねが外れたらしい。
隙間から、そっと中を覗き込む。
初めは暗くて、良く分からなかった。
だが、それを認識した瞬間ーーー土筆の背筋が、ゾワリと粟だった。
北の方は部屋の中央に、うずくまるように突っ伏していた。膝を折り、背を丸め、床についた両手の間で、ガンガンと頭を下に打ち付けている。
長い髪を振り乱し、「あ“ー……う“……」と呻きながら、何度も、何度も。
土筆が覗いているのにも気づかずに。
声をかけなくては。
止めないと、お顔が傷だらけになってしまう……
でも、土筆の足は恐怖で竦んで、動けない。
不意に、北の方が頭を上げ、何もないはずの正面に向かって呼んだ。
「あ……あ…あなた……」
風の音に掻き消えそうなほど小さな声で、
「ごめんなさい、ごめんなさい………でも……」
こうするしかなかったの……と、うわ言のように繰り返す。
怖いーーーと思った。
見てはいけないものを見てしまった。
北の方は、何かに憑かれているのだわ。
悪霊か魔のモノか……。
どちらかと言うと、その手のことに鈍い土筆だったが、初めて人ならざる者の存在を、心の底から信じた。
土筆の身体は、恐怖で後退りしていた。
逃げなくては。
このまま、気付かれないうちに部屋を去ろう。扉を閉めようとしたとき、カタン、と小さな音が鳴った。
その瞬間、北の方の首がグリンと高速で動いて、こちらを振り返った。
ゾッとした。
空疎な瞳。
土筆は慌てて、扉を閉めた。
踵を返し、渡殿をひた走る。
背には冷たい汗が流れ、土筆の胸は、恐怖で高鳴っていた。
目が合った?
気が付かれた?
いいえ、あの目は私を見てはいなかったーーー
でも、もし私が覗いていたことに、気づかれていたら……
足がガクガクと震える。肩の袿が風に靡いて、重い。自分の部屋までが、とんでもなく遠く感じる。
土筆は部屋に入るなり、しっかりと掛けがねを下ろした。
北の方が追いかけ来るかもしれない。
聞いてしまった懺悔のような言葉が、耳に残って谺する。
ーーーごめんなさい………でも……こうするしかなかったの……
何を……?
北の方は、何をしたのーーー?
土筆は、荒い呼吸を何度も繰り返しながら、扉に顔をつけて、しばらくの間、じっと耳を澄ませた。
だが、人の気配はしない。
土筆は、ようやく扉から顔を離すと、床に戻って、目を閉じた。
鼓動は相変わらず、速く波打っている。
それに交じるように、菫の静かな寝息が聞こえていた。
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