御簾の向こうの事件帖

里見りんか

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第4章 消失す

1 解明されない事件と土筆への依頼

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 少し前のこと。

 羅城門の直ぐ側で、男が一人、死んでいた。

 その何でもない一人の男の死が、一部の貴族たちの間で『恐怖』と『好奇心』を伴って口の端にのぼったのは、その男の死に様が、普通の庶民の野垂れ死とは、異なる様相を体していたからだ。


 男の首には、締め跡があった。

 男の顔面は、火に炙られ、焼け焦げていた。

 男の衣服は剥ぎ取られ、全裸だった。
 しかも、剥き出しの背中には、引きずられ、爛れた跡がある。

 男の髪は、刃物のようなもので、根本近くから削ぎ取られていた。
 おそらくもとどり(頭頂で束ねた髪の毛)を取られたのだろう。


 焼かれた顔と剥ぎ取られた衣服のせいで、男の身元は、分からない。

 それでも男が、貴族ーーー殿上人か、あるいは、それに準ずる一定の身分の使用人であろうと考えられた理由は、二つある。

 一つは、背中の傷跡。
 よく見ると、近辺の道には、ところどころ人間が、引きずられた跡がある。

 それを注意深く辿っていくと、京都四条、西洞院(左京)の付近に行き着いたという。
 その辺りは、貴族たちの邸宅が多い。

 もう一つの理由は、根本から切り取られた髪。

 貴族の男たちは、皆、肩の下より長い髪を、頭頂に結い上げる。 
 もとどりと呼ばれるは、烏帽子を頭に留めるために必要なもので、通常は、烏帽子の中に隠している。

 貴族にとって、烏帽子を剥いで、髻を見られるのは、恥だった。ましてや切り取られるなど、とんでもない恥辱と言っても過言ではない。

 逆に言うと、その男を殺した犯人は、あえて烏帽子を剥いで、髻を切り取り、それを衆目に晒したのだろうと考えられた。


 この男に、相当な恨みを抱いていたに違いない。


 この話を聞いた貴族たちの中には、内心、震え上がった者も少なくないという。

 あまりに残忍。そして、非道なやり方。

 それで、ついには、そんな貴族たちの不安を解消するために、検非違使が乗り出してきて、調べをした。

 とは言うものの、この男が何者であるかが分からないことには、如何ともし難い。

 検非違使たちは、まず、この男の身分を明かすために、引きずられた跡を辿って行った先、京都四条西洞院を中心に、そのあたりに住む貴族たちの中で、行方不明になっている者がいないか聞き込みをした。

 体格からして、成人男性。

 しかし、該当しそうな者はいない。

 それで今度は、跡が消えた可能性を考え、三条やニ条まで範囲を広げて捜査をした。


 しかし、やはり、それらしい行方不明者はいなかった。


 最後はついに、各家々の使用人たちーーーその中で、髻を結うような身分にある者を調べてみたが、それでも、その男が誰なのか、ついに分からなかった。


 それから、10日経ち、20日経ち……あの凄惨な亡骸のことは、徐々に皆の記憶から薄れていった。


 そして、その頃の花房邸ーーー


 狐笛丸こてきまるの事件から、すっかり回復した土筆のもとには、今日も近衛中将、藤原時峰がやって来ていた。


 しかし今日は、ただ会話を愉しむために来たわけではない。
 土筆に頼み事があって来たのだ。

 その頼み事とはーーー

「私が、教育係……ですか?」

「はい。権大納言家の姫君である貴女に、下の身分の姫の教育係をお願い…という無礼は、重々承知の上ですが……」

 申し訳なさげに頭を下げる時峰に、土筆は、

「いえ、それは気にしていないのですが……なぜ私に?」

 時峰によると、その姫というは、式部しきぶ大輔たいふの家の娘だという。

 式部の大輔といえば、式典を執り行う式部省の、長官たる式部卿に次ぐ役職。
 式部卿は、天皇家の縁者である宮さまが就くことが多い、いわゆる名誉職だから、大輔は、式部省の実質的実務を取り仕切る者といっても過言ではない。

 わざわざ他家の、それも、ほとんど面識のない姫を頼らずとも、もっと相応しい女房がいくらでもいるだろう。

 そう言外に含ませて尋ねると、時峰は、どこか歯切れ悪く言った。

「それが……少々厄介な生い立ちの姫でして。」

 その式部の大輔は、時峰にとって、父方の叔父にあたるという。

 つまり、件の姫は時峰の従兄妹。
 だが時峰は、幼い頃にでさえ、その姫に会ったことはない。

 なぜなら、その姫は、式部の大輔がかつて明石に任官していた頃、その土地の娘に産ませた子どもだったから。

「その時すでに、叔父上には、都に正式な妻がおりました。」

 その本妻が、かなり気が強い女らしく、式部の大輔は、都に戻るとき、仕方なく女と子どもを置いていった。

 よくある話だ。

 勿論、離れてからも、暮らしに不自由はさせないように面倒はみていたし、信頼できる女房も一人、残していたらしい。

「ところが最近、置いてきた女房から、その女が亡くなったという連絡があったようで。それで、叔父上が残された娘を引き取ったのはいいのですが……。」

 昨日まで、ただの田舎娘だったのが、いきなり都の姫さまだ。
 とんでもない幸運が舞い込んだ………とは、限らないのが、難しいところ。

「呼び寄せたのは良いのですが……その姫も、慣れない都の堅苦しさに苛々しているのか、随分と反抗的な物言いをするそうでして。」

 時峰が苦々しく言った。

「それに、女房たちの方も、田舎から出てきた妾腹の娘を見下しているというから、もう状況は最悪です。」
「なるほど……。」

 さもありなん。

「しかし、だからといって、何故それで、私に白羽の矢が?」

 式部の大輔が、父と仲が良いという話は聞いたことがないから、土筆のことは、よく知らないはずだ。なのに、指名をしてくるのは、やや唐突感が否めない。

「叔父上は噂で、私が土筆姫と親しくしていると聞いたそうです。それで相談がありまして……貴女の博識ぶりは有名ですし、流石に、権大納言家の娘である貴女には、姫も大人しく従うだろうから、と。」

 話を聞きながら、土筆は、そうかしらと、内心首をひねった。

 時峰の言う通りなら、姫は、進んで都での生活に馴染もうとしているようには思えない。であれば、わざわざ都の道理に従って、高位貴族の娘だからと、土筆におとなしく従う必要はない。

 それに、土筆には、他にも気になることがあった。

「……私で務まるかしら?」

 教えてほしいのは、貴族社会で不自由しない程度の教養と作法だというが、土筆は、あまり社交的なほうではない。
 華やかな貴族社会のやり取りや機微など、教えられるだろうか。

 そう心配する土筆に、時峰は、ごくごく常識的な範囲の教養で構わないので、その点は心配いらないからと請け負った。

「それに……」

 時峰がすっくと背筋を伸ばし、真っ直ぐにこちらを向いた。

「たとえ田舎から出てきた娘だからといって、貴女は、その姫を決して見下したりはしないでしょう?」

 一塵の疑いさえ抱いていないかのように言い切る時峰の美しい顔が、御簾の向こうで柔らいだ。
 やや切れ長の目が、こちらを見ている。その瞳に映るのはーーー土筆に寄せる、強い信頼。

 向こうから見えやしないのに、土筆は思わず、パッと顔をそらした。

 心が妙にムズムズとして、落ち着かない。
 照れくさい。
 でも、悪い気もしない。

「………分かりました。」

 土筆は素直に、その信頼に応えたいと思った。

「私で良ければ、お引き受けいたします。」

 内心ドギマギしているのを表に出さぬように気をつけながら、土筆が答える。
 しかし、時峰の反応は思いの外、鈍かった。

 すっと視線を下に向け、不自然な間の後、

「………ありがとうございます。」

 どこか浮かない様子で礼を告げる。

「どうか……されましたか?」

 頼んで来たのは時峰のほうだ。
 それを土筆が了承したにも関わらず、その複雑な表情は何だろう。

「お引き受けしないほうが良かった……とか? やはり私では……」
「いえッ!」

 慌てて否定する時峰。

「貴女にお引き受け頂いて、本当に有り難いです。叔父上から相談を受け、貴女以上の適任いない………と、思ったのですが……」

 大丈夫だと言いながらも、語尾を濁す時峰に、

「何か、他にも隠していることが?」

 ここまでの付き合いで分かったことがある。藤原時峰は、生真面目だ。しかも結構、正直者。

「どうぞ、言ってください。聞かないことには、判断できませんから。」

 土筆が言うと、しばらく斜め下に視線を落としていた時峰が、やがて、「……わかりました。」と口を開く。

「これは当家の女房から聞いた、あくまで噂話なのですが……」

 時峰の家で仕えている女房の従姉妹が、式部の大輔の家にいるという。その者を通じて耳にした話。

「実は姫について、先日、一騒動あったのだとか……」
「一騒動……ですか?」

 時峰は、言いにくそうに、少しもごもごと口を動かしてから、

「……その姫、何やら隠れて誰かに文のようなものを出そうとしていたようで。」
「文……? どなたに?」

「分かりません。……が、姫と姫の女房の話を偶然聞いた者が言うには、相手はイヌマルというそうです。」

 姫が田舎から伴ってきた女房に、「これをイヌマルに……」と言って、文を託していたのだという。

「イヌマル……犬丸……ですか……。」

 男性の名だろう。幼名か、それとも身分の低い者か。その呼び方からは、親しさを感じる。だが………

「その様にありふれた名では、誰のことだか、さっぱり分かりませんね。」

「えぇ。そのとおりです。」

 犬丸だとか、犬男だとか、犬童といった名は、戌年生まれの男によく使われる名で、実に安直で、ありふれているのだ。

 姫の知り合いなら、田舎の幼なじみか恋人かもしれない。

 やり取りを目撃した女房もそう考え、すぐに主人の式部の大輔に報告した。

 折しも屋敷内にいた大輔は、話を聞くや否や、文の持ち出しを恐れ、屋敷の出入口を固め、一時的に、一切の出入りを禁じた。そうして、文を取り上げようと姫の部屋に行き、姫と女房に聞いたが、二人はしらばっくれて、何も知らぬという。

 念の為、所持品を検めたが、文らしきものは、出てこない。

「所持品を検めた……? どうやって……?」

 まさか着物を剥いで調べたわけではあるまい。そうだとしたら、異常だ。姫を信頼していないと告げているに等しい。

 何のために、何を警戒して、そんなことをするのか。

「さぁ……方法は、分かりませんが……」

 時峰は、「これは、私の想像ですが、」と前置きして、

「叔父上は、内々に、姫の嫁ぎ先を決めているのではないかと思います。」

「姫の嫁ぎ先を? 連れてきたばかりだというのに?」

 連れてきたから嫁がせる先を探したのか、政治的な意図で嫁がせたい相手がいるから連れてきたのか。土筆には、後者のような気がした。

「相手までは、具体的には、わかりませんが……。」

 時峰は、叔父の話しぶりで、そう察したらしい。

「それで、その前に、何とか姫に最低限の都のしきたりや教養を教えたいのではないか、と。」

 式部の大輔にとって、姫は政治の道具。逃げられたりしたら、困るのだ。

「なるほど。分かりました。」

 想像以上に、厄介な話だ。
 しかも嫌な役回り。

 時峰は、迷いながら、

「こんなふうに教育を施し、都に馴染ませることが、本当に姫にとって幸せなことなのか、私には分かりません。」

 田舎に恋人がいたとしたら、無理やり引き離された上に、見知らぬ男に嫁がされるのだ。
 そう思うと、姫の反抗的な態度も当然のことのように思える。

 眼の前の時峰は、憂鬱そうに顔を顰めている。

 叔父に頼まれたから、土筆のところに来たのだろうが、同時にその姫のことを思いやる優しさが、時峰らしいと思った。

 と、時峰が不意に顔を上げた。

「あぁ、それと、もう一つ気になることが……その姫の出生地なのですが……」

「出自? 明石でしたっけ?」

 式部の大輔が若かりし頃、明石に赴任していたときに出来た子という話だった。

「いえ、叔父上は明石に赴任していたのですが、その姫がいたのは、須磨だそうです。」

「須磨?! 確かですか?」

「その姫は、須磨からやって来た美しい姫、ということで、須美姫すみひめと呼ばれているそうですから、間違いないかと。」

 須磨といえばーーー

橘貴匁たちばな たかめ………」
「そのとおりです。」

 狐笛丸と称したエセ陰陽師。

 呪術のふりして毒を盛る。

 土筆は、庭の橘の木に目を向けた。
 あの晩、あそこには狐面を剥いだ、素顔の橘貴匁がいた。

ーーー貴女との出会いは、暇を持て余しそうな私の生に、何とも素晴らしい彩りを与えてくれそうです。

 と言って、不敵に笑う貴匁がいたのだ。

「須美姫が都にやって来たのは、20日程前なので、我々が狐笛丸と関わり合いになるより少し前ですが……」

 時峰が土筆を案じるように、じっと見ている。

「それでも、私は、貴女に何か危険が及ぶのではと心配で……」

 だから、土筆が望まぬなら、この依頼を断っても構わないと言う時峰に、土筆はむしろハッキリと答えた。

「いいえ。引き受けます。」

 須磨から来た姫。
 ひょっとしたら、どこかで橘貴匁と繋がりがあるかもしれない。

 あの男と土筆は、不思議な縁を紡いでしまった。
 大胆で不敵で、非道な罪人。放おっておくことは出来ない。

 これが、あの男を捕まえる糸口になるのならーーー

「是非、須美姫に、お会いしたいと思います。」

 時峰も、止めるような素振りは見せたが、結局のところ、多分、土筆がこう答えると予想していたのだろう。

 共に決意する同志のように、キュッと唇を結んで、「分かりました。」と頷いた。

「くれぐれも貴女に危害が及ばぬよう、私が貴女を守ります。」
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