御簾の向こうの事件帖

里見りんか

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第3章 あやし陰陽師とアサガオ

7 花橘の木に狐2

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 土筆が、その男の名を口にした瞬間、二人の間に、ビュンと強い風が通り抜けた。
 橘の葉がザワザワと揺れている。

 しかし狐笛丸こてきまるは、微動だにせず、じっと土筆を見下ろしていた。

橘 貴匁たちばな たかめ。それが貴方のまことの名。」

 風が止むのを見計らって、再び、土筆が口を開いた。

「そして、貴方の母は……赤子の貴方を捨てた母とは、権大納言、中平なかひら殿の北の方ですね?」

 権力や権威には興味を示さなかった狐笛丸。にも関わらず、花房資親はなぶさすけちかの信頼を得たい理由があるとしたら、何だろう。

 もしかしたら、狐笛丸には、もっと具体的かつ限定的な目的があるのではないか。

 そうして導き出した答えが、中平家。

 何もないところから、闇雲に正体を探るのは難しい。
 だが、狐笛丸の目的が中平家にあり、それが何らかの因縁に基づいていると仮定すれば、調べることは、ずっと容易い。

 時峰の調べによると、狐笛丸は、須磨から来たという。
 
 中平殿、あるいは北の方の縁の者が、須磨か、その付近の土地にいないか。そこで過ごしていた時期はないか。

 それを調べるために、土筆は父を頼った。

 花房資親には、人より長けた能力がある。
 長い耳と大きな目ーーーすなわち、優れた情報網。良きも、悪しきも、ありとあらゆる情報を得る力。

 資親が権大納言として名を馳せ、権力への階段を登らせしめているのは、一にも二にも、その情報収集力の為せる技だった。

 土筆の期待に違わず、資親は知っていた。

 権大納言、中平篤則の北の方が、二十年程前、須磨に隠れるように住んでいたことを。そして、その時に、子どもを産み落としたという噂を。

 勿論、夫の中平篤則は、その事実を知らない。

 北の方は、篤則との婚姻前に、黙って子を産んだのだ。
 望んで授かった子ではなかったという。すでに篤則との婚姻が決まっていたにも関わらず、彼女を恋い慕う下人に、無理矢理、御簾のうちに押し入られたらしい。

 それで子を孕み、進退窮まった北の方は、病気を理由に、須磨に身を隠した。
 その地で子を産み、その子を近くの神社に預けて、体調が戻るのを見計らって、都に戻ったという。
 
 望む男との子ではない。
 存在自体が、自分を苦しめる。
 だから、手放した。

 経緯ゆえに、皆、彼女に対して同情的で、この事実を知っている者たちは、噂を広めるようなことはしなかった。

 だが狐笛丸は、その事実を……自身の出生の秘密を何らかの方法で知ったのだろう。それで、自分を捨てた母に近づこうとした。

 権大納言、花房資親を足がかりに。

 何のために?
 まさか、母が恋しくてーーーではあるまい。
 見ず知らずの姫に毒を盛るなど、母恋しくてやる男の所業とは、思えない。

 ならば、答えは一つ。

 この男が仮面の下に隠しているのは、権力欲でも、義侠心でもない。

 復讐。

「ハハハハハ。」

 突きつけた事実に、狐笛丸は、唐突に笑い声をあげた。

「やはり、姫を選んで正解だった。」
「正解……?」

「普通、位の高い貴族のところに、いきなり訪ねていっても、会えるはずなんてない。だけど、変わり者と評判で、好奇心旺盛な貴女なら、会えるだろうと踏んだのですよ。」

 なかなか鋭い指摘に、土筆はやや耳が痛くなった。
 狐笛丸は土筆の眉間に寄る皺に構わず、話を続けた。

「だけど、それだけじゃなかった。貴女は、他の貴族たちとは、全然違う。」

「何が……言いたいのですか?」

「私はね、陰陽師なんですよ。」

「なに……を、今更……」

 すると、狐面が、どこか自慢気に顎をクイッと傾げる。

「土筆姫は、陰陽師を名乗るのに必要な能力は何だと思いますか?」

 狐笛丸の意図が分からない。土筆は、警戒しながら、

「魔を打ち払う呪力……ですか?」

 狐笛丸は、人差し指を立てて、「チッチッ」と左右に振った。妙に愉快げに。

「陰陽師に必要な能力とは、呪力があると人々に信じ込ませる演技力。あとは、時々、度胸と手腕。名乗るだけなら、それで十分です。」

「現実に……手を加える?」

「私がもっともらしく立ち振る舞って、呪いだと告げ、実際に体調を崩したとして、『それが呪いのせいじゃない』なんて、考える貴族は、万に一人もいませんよ。」

 狐笛丸は、仮面の位置を直すように、狐の顎に触れながら、

「彼らは皆、差し障りや不都合は、何でもかんでも呪いだ、悪霊だと言い出すから、わさわざ、予め呪われていると宣託まですれば、真実がどうであれ、それは呪いのせいになるんです。」

 狐笛丸の言うことは、分からないでもなかった。
 良くないことは、基本的に、目に見えざる力が働いて起こる。本当にそうかーーーではなく、皆がそう信じているのだ。

「でも、貴女は違う。皆にするのと同じようにやったのに、私が毒を盛ったなどと言いだすんですからね。」

「……違う……のですか?」
「いいえ、盛りましたね。」

 自身の犯した罪を、驚くほどアッサリと認めた。
 無表情な狐ゆえに、申し訳ないと思っているのか、加虐的な気持ちでいるのかは分からない。

「概ね貴女の言う通りです。」

 あの日、土筆の部屋を辞した狐笛丸は、すぐに仮面と白い狩衣を脱いだ。
 地味な姿に身を窶し、「先程訪れた陰陽師の使いだ」と名乗って、菫に接触した。

 そして、呪われている姉を助けるために、強力な加護のまじないが施してある丸薬を、彼女の食事に混ぜてほしいと頼む。
 悪霊が暴れて、一時的に悪くなるが、きっかり3日で霊を追い出せることを念押しして、渡した。

 ついでに、姉に呪いが降り掛かっている間、菫は、部屋に籠もって写経するのが吉と伝えるのも忘れずに。自分が花房邸に祓いに来た時に、下手に出くわして、些細な雰囲気等から自分の正体を感じ取られたりしたら厄介だから。

 狐笛丸は、土筆の想像以上に用意周到だった。

「その毒は、どこから手に入れたものですか?」
「どこにでも。」
「答えになってないわ。」

「貴女が知らないだけで、この世には、人に害なす力をもった動植物が五万とある。それを私は人より少し詳しく知っている、というだけのことです。」

 狐笛丸が、ふいに空を仰いだ。

「物心ついたときには、自分が捨てられた人間だ……と、気づいていました。」

 母はいない。
 でも、別にそれが特別なことではなかった。自分が育った神社には、そんな子どもたちが、一杯いた。

「寂しさは、感じたことありません。まぁ、腹立たしくはありましたけど。」

 この世は、身分ですべてが決まる。
 自分の人生の出発点は、ここだ。

 だから、この境遇を誰かのせいにするのなら、母なのだろう、と思った。

「別に、特別憎んでいたわけではありませんでしたがね。」
「特別憎んでいたのではない……というのは、どういう意味ですか?」

 しかし狐笛丸は、それには答えず、

「私が育った場所には、たくさんの種類の草花が咲いていました。山に入れば、見たこともない茸もある。私は、それらを採ってきて、時には生で、時には燻したり、粉にしたりして……そうやって与えて、試してきたんです。」

「与えた……? 誰に……?」
「…………。」

 答えない。

「周りの……人で……試したのね?」

 何を、どれだけ与えれば、どんな症状が現れるのか。どんなふうに人が死ぬのかーーー

 狐面は無表情。なのに何故か、仮面の下の素顔が微笑んだ気がした。さながら、毒花のように……ーーー

 土筆の背筋がゾクリと震えた。

 眼の前にいるものは、人ではない。怪物だ。
 母親への復讐。自分の境遇への不満ーーーもちろん、嘘ではないだろう。

 でも、それに端を発した、この者の異常性。生まれ持った狂気。

 そうか。

「母を恨んだから、復讐のために毒を知ろうとしたのではない。毒を使いたかったから、母を恨むことにしたのね?」

 土筆は大きな思い違いをしてした。
 この男の発端は、復讐心ではない。
 毒性を持つ草花に親しんでいるうちに、これを使いたくなった。だが、どうせ使うなら、憎い相手がいい。

 そして、自分を捨てた母親というのは、その対象としては、実に好都合だった。

 だから、特別憎んでいたわけではないのにも関わらず、のだ。

「実のところ、私は自分の親に、さほど関心はありませんでした。」

 狐が言った。

「ですが、人生は目標があるほうが面白い。だから私は、いつか、私が得た知識を使って、親に復讐しようと決めました。復讐という目標があるからこそ、極めることもできるし、大義名分があるから、その過程で死ぬ人がいても、致し方がありません。」

 愉しかったなぁと、ウットリとした口調で言う狐笛丸。

「この地だけでない。さらなる知識を求めて唐にも渡来しました。」

 ゾッとした。

 この男は……ーーー感情がどこか欠落している。

「貴方にはッ!! 人を想い、敬い、憐れむ気持ちがないのですか?!」

 フン……と、鼻で嗤った音がした。

 あぁ。陰陽師ではなくとも、そういう力はなくとも、この男は、只の人ではない。
 この男は……物の怪と同じ。

 土筆の心に、得体の知れない者に対する恐ろしさが芽生えた。

 そんな恐怖を煽るように、狐笛丸が横笛を唇に当てようとした。

 その瞬間。
 土筆は、手元の貝を狐笛丸目掛けて投げつけていた。

 カンッーーーと響く高い音。

 美しい蒔絵の貝は、狐笛丸の笛に当たり、狐の面に当たり、そして………弾かれた面が宙に舞う。

 仮面の下には、狐笛丸がーーーいや、悩まし気な貴公子の顔が、やや斜に構えていて、こちらを見ていた。

 あぁ、いっそ物の怪であれば………と思ったが、それでもやはり、人間だった。

「貴女が………橘貴匁なのね?」

 狐笛丸の素顔は、不思議な顔だった。

 眉、目鼻立ち、少し薄い唇。一つ一つは整っているのに、全体でみると、酷くぼんやりとして、印象に残らない顔なのだ。

 よく見ると、滅多に見かけないような上品で美しい顔なのに、大衆に紛れてしまえば、途轍もなく、どこにでもいそうな気がする。

 その男ーーー橘貴匁の薄い唇が割れるようにパカリと開いた。

「素晴らしい!」

 正真正銘、素顔で微笑む貴匁。

「話せば話す程、貴女を生かす方を選んだ自分の判断の正しさを再認識させられます。」

「生かす方……? 判断の正しさ……? さっきから、貴方は何を言っているの?」

 戸惑う土筆に向けて、貴匁は、「分かりませんか?」と、人差し指を一本立てた。

「貴女のおっしゃったことは、大部分において当たっています。でも、一つだけ大きく違う。」

「どこが……違うというんですか?」

 貴匁は、小さな子どもに教え諭すように、柔らかな表情で、酷く物騒なことを告げた。

槿あさがおの君は、本当に私に依頼したんですよ。貴女を呪い殺してくれ……と。」

 土筆は、ごくりと唾を飲み込んだ。

 貴匁が真実を告げているのか、それとも、土筆を惑わそうとしているのか、判断がつかなかった。

 貴匁は、「信じるか信じないかは、貴女の自由ですが」と前置きをした上で、

「本来、私としては、どちらでも良かったのです。貴女を呪い殺して、槿の君を手懐けてから、槿の父である式部卿の宮を脅迫しても、貴女を助けて、貴女の父の権大納言花房資親に恩を売っても。」

 中平篤則の北の方に辿り着ければ、それでいいといった。

「まぁ、脅すよりは恩を売ったほうが楽ではありますが………それでも貴女を気に入らなければ、私は躊躇なく、貴女を殺したでしょう。」

 土筆には、分かる。
 この男は、その気になれば、ほんの欠片も躊躇うことなく、土筆を殺しただろう、と。

「中平様の北の方を……自分のお母さまのことを、殺してしまったの?」

 土筆は、狐笛丸の目的が中平家かもしれないと懸念を抱いて、すぐに時峰を呼んだ。時峰がここに来られたのが、その日の日暮れ後。

 北の方に害をなす可能性があるからと、頼んで、すぐに中平家に行ってもらったのだが、やはり間に合わなかったのだろうか。

「いいえ、私はあの女を殺していません。ただ、壊しただけで。」
「壊した……とは? どういうことですか?あなたは何をしたの?」

 尚も、しつこく尋ねる土筆に、貴匁の動きがピタリと止まった。「静かに」と、唇に人差し指をあてる。

「そろそろ、表の門が騒がしくなりそうです。中将殿のお戻りだ。」

 言うが早いか、遠くから往来を駆ける複数の足音。

 多分、中平邸から引き換えしてきた時峰か、あるには遣いの者に違いない。

 何とか、この男を引き止めて、捕まえて貰わないと……ーーー

 すると貴匁は枝から腰をあげた。

「せっかくの楽しい逢瀬でしたが、邪魔者が来そうだ。私はそろそろお暇しましょう。」

「待って! まだ話が………」

 土筆の思惑が見抜かれている。
 でも……例えそうだとしても、引き止めなくては!
 
 土筆は咄嗟に道具を開けて、貝をもう一つ掴んだ。
 それを貴匁目掛けて投げつける。

 だが、今度は遅い。飛んでいった貝は、いとも簡単に、横笛に弾かれた。

「だめですよ。私は、捕まる気はありませんから。」

 貴匁が不敵に笑うと、その姿が、ゆらりと木の陰に包まれた。

 逃げられるーーー!
 覚悟した瞬間、ふいに貴匁の動きが止まった。じっと土筆を見下ろしている。

「橘……貴匁?」

 土筆が呼んだ。仮面越しではない、本物の瞳が土筆を捉えている。その目には……喜色が浮かんでいた。

「土筆姫。貴女に出会えて良かった。」

「何……を……?」

「母親への復讐という目標を遂げたあと、実のところ、この先、私はどう生きようかと思案しておりました。しかし、貴女との出会いは、暇を持て余しそうな私に、何とも素晴らしい彩りを与えてくれそうです。」

「それッ!! どういうイミ……?!」

 問う土筆を、強い風巻しまきが邪魔をする。
 土筆は、思わず目を瞑り、袖で顔を覆った。

 風に乗って、「それでは、また……」と告げる貴匁の声。

 風が収まり、再び目を開いた時、貴匁の姿は、闇に消えていた。

 狐面一つを庭に残して………ーーー
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