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1巻
1-2
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(芸術家ならではというか、やっぱり変わった人。とはいえわたしも即返事をしたんだから、相当変わってるわよね)
だけど、嫌じゃない。舜太郎の声も言葉も、雰囲気も心地いい。恋愛感情はまだ芽生えないが、友好的でありたい。
この先、売れない画家と貧乏暮らしをするかもしれないが。
(運転手つきの高級セダンがあるから、貧乏暮らしはしない、のかな?)
舜太郎となら幾多の難問も乗り越えていけそうな気がする。なぜだろう、明るい未来が来る予感ばかりがする。
一緒に暮らすにあたり、ひとつ懸念があった。舜太郎は太っているようには見えないが、健啖家なのだろうか? 健康診断の血液検査の結果はすべて平均値で健康そのものだった。
「あの、聞いてもいいですか? 毎日食パン一本と菓子パンを数点買ってましたよね? あれ、全部毎日食べちゃってるんですか?」
あの量を毎日食べているならカロリーオーバーだし、よく飽きないなと思う。パン屋の娘が言うセリフではないが。
「菓子パンは絵を描くあいだのエネルギーにしているんです。食パンも全部食べてしまいたいのですが、聖子さん……家政婦さんと君島に止められて、一日一斤で我慢しています」
それでもカロリーオーバーだ。「一斤も?」と驚くと、舜太郎は真顔で頷き、当然であると言いたげに続ける。
「のぞえさんの高級食パンは、口当たり滑らかなのにもちもちしているから、あっという間に食べてしまうんですよ。こしあんパンも、クリームパンも、口にすると不思議とすぐ消えてしまうんです。こんなにおいしいパンに出会えて僕は幸せです」
弘行が代々受け継いできた味を褒められるのは、おもはゆい。
「それに……藍さんの笑顔は、創作するうえでなによりのエネルギーになっているんです」
「それは……、その、ありがとうございました」
知らずに誰か――舜太郎の力になっているとは思わず、藍の頬が熱くなっていく。舜太郎がほんのり照れているのも一因か。
そのとき、ふと、潤沢すぎる貯金額が浮かんだ。
(あれだけの預金がある人だから、きっと興信所を通じてわたしのことも調べたんだろうな)
後ろ暗いところはないが、最大の汚点を思い出す。それでも舜太郎は選んでくれたのだ。
まだ口にできない深い傷だ。
藍は晴れの日に相応しくない過去を心の奥にしまい込んだ。
そして、夫となった人の整った横顔を見上げた。
青い空を縁起のよいツバメがすいすい横切っている。とても、晴れやかな日だった。
2 驚きの連続です
前日の打ち合わせでは、これから一緒に住む家には身ひとつで来てほしい、とのことだった。とはいえ、着替えや化粧品類の必需品をスーツケースとボストンバッグにつめて、藍は迎えの高級セダンに乗り込んだ。
高級セダンは古い住宅街に向かう。元城下町だったこのあたりは、御屋敷町と呼ばれていて、古くて大きなお屋敷が多い。その一角でセダンがゆっくり止まり、運転手がドアを開けてくれた。
(ひぇぇ)
藍は大きな門を見上げる。どっしりとした数寄屋造りの門には防犯カメラがあり、ホームセキュリティのシールがあるのが、なんだか任侠映画を彷彿とさせる。が、このあたりには極道の組はない。
(すごいお屋敷。我ながら貧相な想像力と残念な語彙力……)
萌える木々が高い塀となり、湖月邸の屋根が見えない。この天然石張りの塀もどこまで続いているのかすぐにはわからない。
狐につままれたような気持ちを隠して、インターフォンを押す。
『はい。湖月です』
「こんにちは。野添です」
声をかけると、すぐに門が自動で開いた。おずおずと入るのは失礼だと考え、家に戻るように普通に――やや緊張して門をくぐる。
湖月邸は古き日本家屋の様式とモダンが融合した和モダンな豪邸だった。白い石畳が続く先には、おしゃれな玄関ポーチがある。広がる庭園は和風そのもので、ハナミズキが歓迎するように白い花を揺らしていた。
「藍さん。おかえりなさい」
引き戸の玄関を開けて出迎えてくれた舜太郎は、今日も和装だ。灰緑の着物に木の幹を思わせる柄の帯で爽やかだ。着慣れた感じがするから日常的に和装なのだろう。
それにしても『おかえりなさい』の言葉には少々面食らった。
初めて来たのに。結婚したのだから、おかしくはないのかもしれないが、ちょっと疑問符が浮かぶ。
だけど、舜太郎の晴れやかな顔を見ると、細かいことはどうでもいい気がした。
「湖月さん。……えっと、ただいま。それから……これからお世話になります。よろしくお願いしますね」
ぺこりとお辞儀をして頭を上げると、艶やかに微笑む舜太郎が手を差し出していた。しっかり握手をする。結婚相手というよりも、ビジネスパートナーとの挨拶みたいだ。
よく磨かれた無垢材の廊下を歩き、リビングに通される。予想をはるかに超えた広いリビングは吹き抜けで、高いところにある天井にはシーリングファンがついている。大きく開いた窓から庭園が見渡せるのが素敵だ。
和モダンな内装に合う大きなデザイナーズソファ、ライト、ローボードなど、置いてある家具のすべてがブランド品だ。高級感があるのに親しみやすい印象なのは、観葉植物や花が活けられているからだろう。
(うわぁ、広い。何十畳あるの? おしゃれなインテリアの実例のなかにいるみたい。あのデザイナーズソファ、雑誌で見たやつだ)
動画配信サイトのインテリアチャンネルみたいでワクワクするが、なんとか平静を保とうとする。が、気分がふわふわ上がってしまう。
「どうぞ楽にしてください。今日から藍さんの家なんですから」
「は、はい」
そうだ。今日からこんな超豪邸で暮らすのだ。実家のように部屋着姿で寝転べる雰囲気ではないが。
促されてソファに座る。柔らかな革張りのソファは緊張を解してくれるような座り心地だ。さすがはデザイナーズ。
澄んだリビングの空気に、ふうわりと芳ばしいコーヒーの香りが混ざる。エプロンをつけた中年女性が、華やかな柄のコーヒーカップをテーブルに置いてくれた。
「ありがとうございます」
人のよさそうな中年女性は、たれた目元を柔らかくしている。エプロンをつけているから、ホームキーパーさんだと思うのだが、それにしてはやや距離感が近い気がする。
「紹介しますね。あちらが運転などの雑務をしてくれる畠山正和さん」
舜太郎が手のひらで示す。リビング扉のほうに立っているスーツの中年の紳士は、さっきも運転をして、後部座席のドアまで開けてくれた人だ。優しげな風貌の畠山がぺこりとお辞儀をしたので、藍もお辞儀を返す。
「それから、こちらが畠山聖子さん。家政婦をしてくれている、家事のエキスパートです。正和さんと聖子さんはご夫婦なんですよ。この家の西にご自宅があり、そこから通ってくれています」
今度は聖子が人好きのする朗らかな笑顔でお辞儀をした。藍も笑顔でお辞儀を返し「よろしくお願いします」と言うと、聖子はハキハキと話す。
「こちらこそよろしくお願いします。アレルギーや苦手な食べ物、飲み物がございましたら、遠慮なくおっしゃってくださいましね。坊ちゃん……ご結婚なさったので若旦那さまですね。若旦那さまはアレルギーや好き嫌いはございませんが、ブラックコーヒーが飲めないんですよ」
ふふふと笑う聖子を、気まずい男の子のような顔で舜太郎が見やる。そういえば、舜太郎の前に置かれたコーヒーにはミルクがたっぷりと入っていた。
落ち着いた大人の男にしか見えないが、可愛い一面もあるようだ。
(これから湖月さんを知っていくと、もっと意外な面もあるんだろうな。わたしには意外なところなんてないけれど)
「わたしもアレルギーと好き嫌いはありません。でも、子供の頃はピーマンとトマトが嫌いでした」
「僕も同じでした。食べ盛りになって、旺盛な食欲が勝ったんですよ」
「あ、それ、わたしも同じです。部活していたときに食べなきゃお腹が空くのでなんでも食べました」
ささやかな共通点が場を和やかにしてくれる。
「僕は中学高校と中距離ランナーをしていました。今でもジョギングは続けているんです」
これも意外だった。画家なのだから美術部に所属していたのだと勝手に決めつけていた。難関美大に現役合格を果たしたと昨晩話していたから、よほど優秀だったのだろう。売れない画家を続けていられるのは、資産家で欲がないから? と、勝手に憶測する。
「わたしも身体を動かすのは大好きです。ジョギングにお付き合いしてもいいですか? ……あ、お邪魔でなければですけど」
「ええ、喜んで。ランニングシューズは?」
「明日、両親に運んでもらうつもりでした」
そう。どこかの慎ましいアパートで新婚生活がスタートするのだと思い込んでいたから、今日は着替えと化粧品類が入ったボストンバッグとスーツケースだけ。部屋の様子を見てから、必要なものだけ運び入れる予定だった。愛車のロードバイクは明日以降取りに行くつもりだ。
「そうそう、もうひとりの紹介がまだでしたね」
部屋の隅に、スーツを着た、フレームレス眼鏡のかっちりとした印象の男がいる。君島七瀬。
「マネージャー兼秘書の君島七瀬。僕とは兄弟のように育った人物で親友なんです。七瀬も通いで日参しています」
「よろしくお願いします」
藍がお辞儀をすると、彼はロボットのように規則正しいお辞儀を返した。舜太郎が柔和だからか、君島は堅い印象を受ける。
「若旦那さま。お喋りをしながら、おうちをご案内なさってはいかがですか?」
「ああ、そうですね」
聖子の提案を受け、舜太郎がスッと立ち上がる。和服を着慣れているのか動きに淀みがない。
整った手を差し出され、藍はエスコートされて広々としたリビングをあとにした。
湖月邸はどこも広かった。豪邸なのだから当たり前なのだが。
リビング近くのダイニングは、居心地がよさそうな大正モダン。広々とした明るく清潔なキッチンはキッチンスタジオのよう。内庭が見える和モダンな応接間とクラシカルな和室。琉球畳の仏間、客室。風呂などの水回りはまだ確認していないが、きっと贅沢で広いのだろうと想像に容易い。キッチンの近くには畠山夫妻の休憩室がある。
(個人のおうちに従業員の休憩スペースがあるのね。……ドラマかな? マンガかな?)
階段を上がり二階へ。ずっと舜太郎と手を重ねているのを意識してしまう。
階段を上がったすぐのホールにはミニバーがある。飴色の棚には、高級そうなウイスキーやバーなどで見かけるカクテル用の酒も並んでいた。昨日の舜太郎はあまりビールを口にしていなかったな、と思い出す。もしかしたら、コーヒーだけでなくビールの苦味も苦手なのだろうか?
広く、無駄なものが置かれていない主寝室には、飾り気がないクイーンサイズくらいの大きなベッドがひとつ。長いあいだひとり暮らしだったから、純粋に寝るだけの部屋になっている、と舜太郎は付け加える。カーテンなどのファブリックが素敵なのに、殺風景なのは、ちょっとだけ部屋がかわいそうだ。寝室奥のウォークインクローゼットの隣のドアはバスルームなのだと話す。一階にもバスルームはあるが、寝る前や起きてすぐにシャワーが使えて便利らしい。庶民の感覚ではバスルームがふたつもあるのに驚く。
その隣の部屋は客間なのか、高級ホテルのシングルルーム(とはいえ広い)のようだった。そこに、藍のスーツケースとボストンバッグが置いてある。
落ち着いた配色のファブリックだから、ほんとうにホテルみたいだ。
「ここが藍さんの部屋です。足りないものや家具類は、明日来るインテリアコーディネーターと相談して決めましょう。信頼できる人なので、よく計らってくれると思います」
(お抱えのインテリアコーディネーターさんがいるんだ。これだけの家だからインテリアもプロデュースされたものだろうけど。別次元だなぁ)
「無線LANのパスワードはスマホに送りますね」
「ありがとうございます。お気遣い助かります」
「ここで暮らすのですから、気遣いではなく、当然なんですよ」
「……そうでしたね」
舜太郎が帯に手を忍ばせてスマホを取り出し、なにやら操作している。
(へぇ、そういうところに挟んであるんだ。和服って便利なのかな)
すぐに、藍のハンドバッグにしまってあるスマホが軽やかな通知音を鳴らした。
スマホを取り出すと、ロック画面には水墨画の馬のアイコンと『湖月舜太郎』『パスワードなど』とメッセージの一部が見えた。
「あとで設定しますね」と返すと、舜太郎は首を傾げた。遠慮せず今やってもいいのに、と言いたげだ。
「たっぷり時間はありますから」
そう言うと、舜太郎は嬉しそうに少し目を細めた。
見慣れない美形の一挙一動が新鮮だ。
それから二階にある部屋を案内してもらう。ホテルのような広くてシンプルな部屋が三室。それから北側に見事に本だらけの書斎とトイレ。歩いていると、お掃除ロボットが行ったり来たりしている。二階には三台設置しているという。
(いくら家事のエキスパートがいても、掃除が大変そう。……掃除が好きなら、苦じゃないのかな?)
「離れが仕事場になっているんです」
主寝室に戻り、広いベランダから日本庭園をふたりで見下ろしていると、舜太郎がこんもりと萌える木々の向こうを指す。ガレージなどの反対に位置するそこには、平屋の屋根が見える。
「昔は茶室だったのですが、家をもらったときにリフォームしたんですよ」
家をもらう。庶民にはあまりない、いや、わからない感覚だ。
「ご両親は同居なさっていないんでしたよね」
「ええ、父は富士山が見える町に療養を兼ねて居を構えているんですけど、母が居着かない人で……。家族チャットやSNSの更新が頻繁なのでどこでなにをしているのかはわかるんですが……。元気でいるのは確かです」
「お母さまがお忙しいのはお仕事の都合なんですか?」
輸入品バイヤーかなにかだろうか?
「香崎亜里沙って知っていますか?」
「ええ、ジャズピアニストですよね! 父がファンでCDをたくさん持っているんですよ。え? ……まさか」
香崎亜里沙はメディアに出演するたびに若返っている美魔女だ。
「母なんです」
ほとほと困ったと言わんばかりだったので、家族は相当振り回されているのだろうと察せられた。
若いツバメがいるだの、愛人がいるだの報道されている恋多き美魔女だが、実はイメージ作りのためで、一切不貞を働いたこともないそうだ。帰国すると夫であり、舜太郎の父である岑生にベッタリで離れないらしい。
舜太郎が三十六歳でも美形なのは、美魔女譲りか。
「それで湖月さんは美形なんですね」
つるっと言ってしまい、藍は口を押さえた。舜太郎は整った眉を上げる。
「舜太郎、と。湖月は藍さんの名字でもありますから、舜太郎と呼んでください」
「あ、そうでしたね」
笑って答えると、舜太郎はなにかを期待するような目でこちらを見ている。名前を呼んでほしいのだろう。意は汲めたが、改めて呼ぼうとすると、恥ずかしさと照れが込み上げる。アラサーだというのに。
「呼んでください」
「はい。……舜太郎さん」
頬が熱い。小娘でもあるまいに、と思うのに、舜太郎が嬉しげに「はい」と、歯切れのいい返事をするものだから、ますます照れてしまった。
一階へ戻り、リビングの掃き出し窓にしつらえてあった縁側から庭に出る。
舜太郎は雪駄に、藍は用意されたつっかけサンダルに履き替えた。木のつっかけサンダルはサボに似ているが、歩くたびにカラコロ鳴るのが可愛らしい。
きちんと手入れがされた日本庭園。ポンプが水を撹拌する澄んだ池には、鯉ではなく、赤や白、錦の金魚がすいすいと泳いでいる。ハナミズキやモクレンの花びらが滑る池には、植木鉢が沈んでいた。季節になれば睡蓮か蓮が姿を見せるのだろう。庭に睡蓮が咲く家――身近に季節の草花や木々があるのは贅沢だ。
エスコートされ、サンダルをカラコロ鳴らして飛び石を歩く。すぐにモダンな平屋が見えた。玄関に置かれた傘立てには、赤い傘が一本立っていた。舜太郎が赤い傘をさしている姿を想像すると、可愛いかもしれない。
「どうぞ。散らかっていますが」
「お邪魔します」
引き戸の玄関から入ると、かすかに墨汁の匂いがする。だが、それよりも鼻を刺激したのは、油彩で使う油と癖の強いニカワの独特の匂いだ。
元は談話室だったという部屋には大小のイーゼルと作業台があり、水彩絵の具や油彩道具、アクリル絵の具、そのほかの絵の具や、パレット類、藍が知らない画材、そしてさまざまな筆が雑然としているようで、ある秩序をもって並んでいる。
美術室によくある胸像は見当たらないが、静物画用のモチーフが現代アートみたいに置いてある。壁にはいくつものキャンバスが立てかけられ、絵を乾かすためだろう棚には紙類などがあったし、引き出しがたくさんある棚もあって興味が尽きない。
飾り棚にはアニメのロボットのプラモデルや、アニメ、ゲーム、動物のフィギュアがたくさん並んでいる。それから大きなモニターが三つもあるパソコン。テーブルに置かれたモニターは絵描き用のものだと話す。そのパソコンラックには、ゲームに出てくるモンスターのデフォルメフィギュアがちょこちょこ並んでいて可愛い。
ここには、藍の知らない世界が広がっていた。
(わぁっ。男の人の部屋と美術室が融合してる)
舜太郎は大きなイーゼルを動かして、今描いている油絵を見せてくれた。
てっきり、油彩独特の肉厚で大胆な塗り方の博物画か写実的な風景画だと思っていたが、キャンバスいっぱいに描かれていたのは、ぼんやりとした青色や灰色を重ねた抽象画だった。藍は美術とは縁遠いだけに、なにが描かれているのかさっぱりわからなかった。
「習作です。これは……色を理解しようと思って描いた夜の絵です」
夜の絵。言われれば夜に見えるが。それでも、もう少しテーマを絞れるのではないだろうか? とはいえ、素人である藍には口が出せない世界だ。
「たくさん色を使っているんですね。へのへのもへじも描けない素人以下のわたしの感想で恐縮ですが、綺麗だと思います」
藍は、図画工作と美術が苦手だった。見たまま、頭に浮かんだままを画用紙に描こうとしても、手を動かすと別のへにゃへにゃの絵になる。絵画がそんなできだったから、立体はもっと悲惨だった。
仕事でプレゼン用アプリなどは使えたから、コラージュとかはできるのだろう。そう信じたい。
「慰めてくださってありがとうございます。今は……うまく描けないんです。……僕の絵画には精彩が欠けていると言われてしまって。ただの批評や批判なら気にならないのですが、師事する先生に辛口批評されて……、困っているんです。四苦八苦して、毎日描いていますが……、それでも、脱却できなくて」
イーゼルの下のゴミ箱には〈パンののぞえ〉の袋が捨ててある。ここでパンを食べながら作品を描いていたと推測される。先生の酷評から抜け出そうとして、苦心して絵と向かい合っていたのが藍にも伝わる。
「こちらの作品とか好きです。……安らぐというか、優しい気持ちになります。優美、というのでしょうか」
新聞紙一ページの半分ほどの大きさの、でこぼこした画用紙には、美しい桜が今にも花びらを画面の外に散らしそうなほど鮮明に描かれている、水彩画だった。空と桜の透明感も春らしく清々しくて好ましく思う。
「それは。近所の城山公園の桜、なんです。……それも習作ですが……よかったら藍さんの部屋に飾りましょうか?」
「ええ! いいんですか? わぁっ! 嬉しいです! ありがとうございます。わたしも城山公園までジョギングしていたんです。こんなに優しげな桜が咲いていたなんて気づきませんでした」
これまでは壁に飾るといえば、スポーツチームやアイドルのポスターくらいだった。こんなにも晴れやかで優美な桜の絵画を飾れるなんて! ドキドキして心が浮つく。
「本業はもっと色がないんですよ」
「え? 油絵じゃないんですか?」
「……はい」
舜太郎がすっと奥のふすまを開けると、そこは別の世界だった。
「……え……、わぁ、すご……」
広げた新聞紙よりも大きなキャンバスに墨だけを使った絵画があった。白と黒が織り成す水墨画なのに、空は朝の――朝だとわかる昇りたての太陽が作り出す力強いグラデーションが広がっている。
太陽が生まれたばかりの穏やかな水平線。きらめき輝く穏やかな海。さざなみの音が今にも聞こえそうな不思議な力がある。荘厳で、心が洗われるような美があった。
――どこかで見た。見かけた。同じような構図の似た絵画。
「あ! 六越デパートの展覧会の! 水墨画! 湖月舜日展!」
驚いた。先日テレビで見たばかりの絵画と似ていて、しかし大きく異なる絵画がここにある。
(テレビで見たのは、海に沈みゆく太陽だった。しかも、画面越しとは迫力が大違いだわ。これが実物……。朝日と夕日の構図は似ているけれど、凄みが、まったく違うわ。呑み込まれそう……。ほんとうに、すごい)
それに珍しい〈湖月〉という苗字が同じだ。なぜ気がつかなかったのだろう?
「知ってくれていたんですか? 六越デパートの〈落陽〉はディーラーさんが気に入ってくれて、熱意に負けて出展したんです。この〈旭日〉と対の作品で、ふたつで初めて意味をなすんですが。……〈旭日〉がとくに酷評だったので、未出展にしました」
「えええ、こんなにも美しいのに? ……すみません。その、あまりにも素晴らしいので、ほかの言葉が見当たらなくて。陳腐な言い回しになってしまって失礼になっているかもですが。……ほんとうに、綺麗……」
藍の目は〈旭日〉に向けられたままだ。
ああ、こんなにも美しい水墨画が展示されているなら、もっと早く美術館に足を向けるべきだった。なんだか悔しくなってくる。
食い入るように眺めて、惚れ惚れと溜め息を零す。
(こんな世界があるんだ……。舜太郎さんが見ている世界は空気にも豊かな色彩があって、鮮明にきらめいているのね。……もっと、見たいな。見ていたいな)
「すごく……素敵です。言葉で上手に伝えられないのが恥ずかしいです。美を称える言葉はたくさんあるんだとわかっているんですけれど、パッと出てこなくて、すみません」
「……ありがとうございます。藍さんに褒めてもらえて……、最優秀賞をもらった以上に、嬉しいです」
ふと我に返り、顔を上げると、やや照れた様子の舜太郎が隣にいてびっくりした。肩がくっつきそうだ。慌てて離れようとして、足が滑った。
「……きゃ、……わ」
転ばずにすんだのは、舜太郎の長い腕が腰を支えてくれたからだ。がっしりしすぎていないのに、支えられるくらい力強いのだと知り、どきっと胸が脈打つ。
ごく近い距離に、端麗な目が、スッとした鼻梁が、厚く締まった形のいい唇がある。
一体どんなキスをするのだろうと、考えた瞬間――
「大丈夫ですか?」
その唇が官能的に動いたので、妙に気恥ずかしくなってしまった。
(わたしったら……っ)
思いが顔に出ていたのだろうか? 舜太郎の目の奥が光ったような気がしたときには――キスをされていた。唇に彼のぬくもりを感じて、目を閉じる。好奇心と不安。もしも、キスが合わなければ? しかし、それは杞憂だった。
彼の唇の柔らかさと厚みは、藍のためにしつらえたようにしっくりとくる。ほんのわずかに離れて、別の角度から藍の唇を調べるように重なり、下唇をふにっと甘く噛まれる。この先の予感に備えてじゅわりと唾液が湧く。
ちゅっと軽い音を立てて吸った強さも藍の好みだった。藍も彼を調べるように唇をおずおず動かす。ときめきに似たテンポで鼓動が脈打つのはいつぶりだろう。
客と店員としては二か月ほどの顔見知りだが、結婚を申し込まれて三日目でキスをしている。なにも知らないまま、お互いの相性を調べ、わかり合う前に結婚してしまった。
どんな形であれ、夫婦になったのだから、キスをしているのは不思議ではない。だけど。
だけど、嫌じゃない。舜太郎の声も言葉も、雰囲気も心地いい。恋愛感情はまだ芽生えないが、友好的でありたい。
この先、売れない画家と貧乏暮らしをするかもしれないが。
(運転手つきの高級セダンがあるから、貧乏暮らしはしない、のかな?)
舜太郎となら幾多の難問も乗り越えていけそうな気がする。なぜだろう、明るい未来が来る予感ばかりがする。
一緒に暮らすにあたり、ひとつ懸念があった。舜太郎は太っているようには見えないが、健啖家なのだろうか? 健康診断の血液検査の結果はすべて平均値で健康そのものだった。
「あの、聞いてもいいですか? 毎日食パン一本と菓子パンを数点買ってましたよね? あれ、全部毎日食べちゃってるんですか?」
あの量を毎日食べているならカロリーオーバーだし、よく飽きないなと思う。パン屋の娘が言うセリフではないが。
「菓子パンは絵を描くあいだのエネルギーにしているんです。食パンも全部食べてしまいたいのですが、聖子さん……家政婦さんと君島に止められて、一日一斤で我慢しています」
それでもカロリーオーバーだ。「一斤も?」と驚くと、舜太郎は真顔で頷き、当然であると言いたげに続ける。
「のぞえさんの高級食パンは、口当たり滑らかなのにもちもちしているから、あっという間に食べてしまうんですよ。こしあんパンも、クリームパンも、口にすると不思議とすぐ消えてしまうんです。こんなにおいしいパンに出会えて僕は幸せです」
弘行が代々受け継いできた味を褒められるのは、おもはゆい。
「それに……藍さんの笑顔は、創作するうえでなによりのエネルギーになっているんです」
「それは……、その、ありがとうございました」
知らずに誰か――舜太郎の力になっているとは思わず、藍の頬が熱くなっていく。舜太郎がほんのり照れているのも一因か。
そのとき、ふと、潤沢すぎる貯金額が浮かんだ。
(あれだけの預金がある人だから、きっと興信所を通じてわたしのことも調べたんだろうな)
後ろ暗いところはないが、最大の汚点を思い出す。それでも舜太郎は選んでくれたのだ。
まだ口にできない深い傷だ。
藍は晴れの日に相応しくない過去を心の奥にしまい込んだ。
そして、夫となった人の整った横顔を見上げた。
青い空を縁起のよいツバメがすいすい横切っている。とても、晴れやかな日だった。
2 驚きの連続です
前日の打ち合わせでは、これから一緒に住む家には身ひとつで来てほしい、とのことだった。とはいえ、着替えや化粧品類の必需品をスーツケースとボストンバッグにつめて、藍は迎えの高級セダンに乗り込んだ。
高級セダンは古い住宅街に向かう。元城下町だったこのあたりは、御屋敷町と呼ばれていて、古くて大きなお屋敷が多い。その一角でセダンがゆっくり止まり、運転手がドアを開けてくれた。
(ひぇぇ)
藍は大きな門を見上げる。どっしりとした数寄屋造りの門には防犯カメラがあり、ホームセキュリティのシールがあるのが、なんだか任侠映画を彷彿とさせる。が、このあたりには極道の組はない。
(すごいお屋敷。我ながら貧相な想像力と残念な語彙力……)
萌える木々が高い塀となり、湖月邸の屋根が見えない。この天然石張りの塀もどこまで続いているのかすぐにはわからない。
狐につままれたような気持ちを隠して、インターフォンを押す。
『はい。湖月です』
「こんにちは。野添です」
声をかけると、すぐに門が自動で開いた。おずおずと入るのは失礼だと考え、家に戻るように普通に――やや緊張して門をくぐる。
湖月邸は古き日本家屋の様式とモダンが融合した和モダンな豪邸だった。白い石畳が続く先には、おしゃれな玄関ポーチがある。広がる庭園は和風そのもので、ハナミズキが歓迎するように白い花を揺らしていた。
「藍さん。おかえりなさい」
引き戸の玄関を開けて出迎えてくれた舜太郎は、今日も和装だ。灰緑の着物に木の幹を思わせる柄の帯で爽やかだ。着慣れた感じがするから日常的に和装なのだろう。
それにしても『おかえりなさい』の言葉には少々面食らった。
初めて来たのに。結婚したのだから、おかしくはないのかもしれないが、ちょっと疑問符が浮かぶ。
だけど、舜太郎の晴れやかな顔を見ると、細かいことはどうでもいい気がした。
「湖月さん。……えっと、ただいま。それから……これからお世話になります。よろしくお願いしますね」
ぺこりとお辞儀をして頭を上げると、艶やかに微笑む舜太郎が手を差し出していた。しっかり握手をする。結婚相手というよりも、ビジネスパートナーとの挨拶みたいだ。
よく磨かれた無垢材の廊下を歩き、リビングに通される。予想をはるかに超えた広いリビングは吹き抜けで、高いところにある天井にはシーリングファンがついている。大きく開いた窓から庭園が見渡せるのが素敵だ。
和モダンな内装に合う大きなデザイナーズソファ、ライト、ローボードなど、置いてある家具のすべてがブランド品だ。高級感があるのに親しみやすい印象なのは、観葉植物や花が活けられているからだろう。
(うわぁ、広い。何十畳あるの? おしゃれなインテリアの実例のなかにいるみたい。あのデザイナーズソファ、雑誌で見たやつだ)
動画配信サイトのインテリアチャンネルみたいでワクワクするが、なんとか平静を保とうとする。が、気分がふわふわ上がってしまう。
「どうぞ楽にしてください。今日から藍さんの家なんですから」
「は、はい」
そうだ。今日からこんな超豪邸で暮らすのだ。実家のように部屋着姿で寝転べる雰囲気ではないが。
促されてソファに座る。柔らかな革張りのソファは緊張を解してくれるような座り心地だ。さすがはデザイナーズ。
澄んだリビングの空気に、ふうわりと芳ばしいコーヒーの香りが混ざる。エプロンをつけた中年女性が、華やかな柄のコーヒーカップをテーブルに置いてくれた。
「ありがとうございます」
人のよさそうな中年女性は、たれた目元を柔らかくしている。エプロンをつけているから、ホームキーパーさんだと思うのだが、それにしてはやや距離感が近い気がする。
「紹介しますね。あちらが運転などの雑務をしてくれる畠山正和さん」
舜太郎が手のひらで示す。リビング扉のほうに立っているスーツの中年の紳士は、さっきも運転をして、後部座席のドアまで開けてくれた人だ。優しげな風貌の畠山がぺこりとお辞儀をしたので、藍もお辞儀を返す。
「それから、こちらが畠山聖子さん。家政婦をしてくれている、家事のエキスパートです。正和さんと聖子さんはご夫婦なんですよ。この家の西にご自宅があり、そこから通ってくれています」
今度は聖子が人好きのする朗らかな笑顔でお辞儀をした。藍も笑顔でお辞儀を返し「よろしくお願いします」と言うと、聖子はハキハキと話す。
「こちらこそよろしくお願いします。アレルギーや苦手な食べ物、飲み物がございましたら、遠慮なくおっしゃってくださいましね。坊ちゃん……ご結婚なさったので若旦那さまですね。若旦那さまはアレルギーや好き嫌いはございませんが、ブラックコーヒーが飲めないんですよ」
ふふふと笑う聖子を、気まずい男の子のような顔で舜太郎が見やる。そういえば、舜太郎の前に置かれたコーヒーにはミルクがたっぷりと入っていた。
落ち着いた大人の男にしか見えないが、可愛い一面もあるようだ。
(これから湖月さんを知っていくと、もっと意外な面もあるんだろうな。わたしには意外なところなんてないけれど)
「わたしもアレルギーと好き嫌いはありません。でも、子供の頃はピーマンとトマトが嫌いでした」
「僕も同じでした。食べ盛りになって、旺盛な食欲が勝ったんですよ」
「あ、それ、わたしも同じです。部活していたときに食べなきゃお腹が空くのでなんでも食べました」
ささやかな共通点が場を和やかにしてくれる。
「僕は中学高校と中距離ランナーをしていました。今でもジョギングは続けているんです」
これも意外だった。画家なのだから美術部に所属していたのだと勝手に決めつけていた。難関美大に現役合格を果たしたと昨晩話していたから、よほど優秀だったのだろう。売れない画家を続けていられるのは、資産家で欲がないから? と、勝手に憶測する。
「わたしも身体を動かすのは大好きです。ジョギングにお付き合いしてもいいですか? ……あ、お邪魔でなければですけど」
「ええ、喜んで。ランニングシューズは?」
「明日、両親に運んでもらうつもりでした」
そう。どこかの慎ましいアパートで新婚生活がスタートするのだと思い込んでいたから、今日は着替えと化粧品類が入ったボストンバッグとスーツケースだけ。部屋の様子を見てから、必要なものだけ運び入れる予定だった。愛車のロードバイクは明日以降取りに行くつもりだ。
「そうそう、もうひとりの紹介がまだでしたね」
部屋の隅に、スーツを着た、フレームレス眼鏡のかっちりとした印象の男がいる。君島七瀬。
「マネージャー兼秘書の君島七瀬。僕とは兄弟のように育った人物で親友なんです。七瀬も通いで日参しています」
「よろしくお願いします」
藍がお辞儀をすると、彼はロボットのように規則正しいお辞儀を返した。舜太郎が柔和だからか、君島は堅い印象を受ける。
「若旦那さま。お喋りをしながら、おうちをご案内なさってはいかがですか?」
「ああ、そうですね」
聖子の提案を受け、舜太郎がスッと立ち上がる。和服を着慣れているのか動きに淀みがない。
整った手を差し出され、藍はエスコートされて広々としたリビングをあとにした。
湖月邸はどこも広かった。豪邸なのだから当たり前なのだが。
リビング近くのダイニングは、居心地がよさそうな大正モダン。広々とした明るく清潔なキッチンはキッチンスタジオのよう。内庭が見える和モダンな応接間とクラシカルな和室。琉球畳の仏間、客室。風呂などの水回りはまだ確認していないが、きっと贅沢で広いのだろうと想像に容易い。キッチンの近くには畠山夫妻の休憩室がある。
(個人のおうちに従業員の休憩スペースがあるのね。……ドラマかな? マンガかな?)
階段を上がり二階へ。ずっと舜太郎と手を重ねているのを意識してしまう。
階段を上がったすぐのホールにはミニバーがある。飴色の棚には、高級そうなウイスキーやバーなどで見かけるカクテル用の酒も並んでいた。昨日の舜太郎はあまりビールを口にしていなかったな、と思い出す。もしかしたら、コーヒーだけでなくビールの苦味も苦手なのだろうか?
広く、無駄なものが置かれていない主寝室には、飾り気がないクイーンサイズくらいの大きなベッドがひとつ。長いあいだひとり暮らしだったから、純粋に寝るだけの部屋になっている、と舜太郎は付け加える。カーテンなどのファブリックが素敵なのに、殺風景なのは、ちょっとだけ部屋がかわいそうだ。寝室奥のウォークインクローゼットの隣のドアはバスルームなのだと話す。一階にもバスルームはあるが、寝る前や起きてすぐにシャワーが使えて便利らしい。庶民の感覚ではバスルームがふたつもあるのに驚く。
その隣の部屋は客間なのか、高級ホテルのシングルルーム(とはいえ広い)のようだった。そこに、藍のスーツケースとボストンバッグが置いてある。
落ち着いた配色のファブリックだから、ほんとうにホテルみたいだ。
「ここが藍さんの部屋です。足りないものや家具類は、明日来るインテリアコーディネーターと相談して決めましょう。信頼できる人なので、よく計らってくれると思います」
(お抱えのインテリアコーディネーターさんがいるんだ。これだけの家だからインテリアもプロデュースされたものだろうけど。別次元だなぁ)
「無線LANのパスワードはスマホに送りますね」
「ありがとうございます。お気遣い助かります」
「ここで暮らすのですから、気遣いではなく、当然なんですよ」
「……そうでしたね」
舜太郎が帯に手を忍ばせてスマホを取り出し、なにやら操作している。
(へぇ、そういうところに挟んであるんだ。和服って便利なのかな)
すぐに、藍のハンドバッグにしまってあるスマホが軽やかな通知音を鳴らした。
スマホを取り出すと、ロック画面には水墨画の馬のアイコンと『湖月舜太郎』『パスワードなど』とメッセージの一部が見えた。
「あとで設定しますね」と返すと、舜太郎は首を傾げた。遠慮せず今やってもいいのに、と言いたげだ。
「たっぷり時間はありますから」
そう言うと、舜太郎は嬉しそうに少し目を細めた。
見慣れない美形の一挙一動が新鮮だ。
それから二階にある部屋を案内してもらう。ホテルのような広くてシンプルな部屋が三室。それから北側に見事に本だらけの書斎とトイレ。歩いていると、お掃除ロボットが行ったり来たりしている。二階には三台設置しているという。
(いくら家事のエキスパートがいても、掃除が大変そう。……掃除が好きなら、苦じゃないのかな?)
「離れが仕事場になっているんです」
主寝室に戻り、広いベランダから日本庭園をふたりで見下ろしていると、舜太郎がこんもりと萌える木々の向こうを指す。ガレージなどの反対に位置するそこには、平屋の屋根が見える。
「昔は茶室だったのですが、家をもらったときにリフォームしたんですよ」
家をもらう。庶民にはあまりない、いや、わからない感覚だ。
「ご両親は同居なさっていないんでしたよね」
「ええ、父は富士山が見える町に療養を兼ねて居を構えているんですけど、母が居着かない人で……。家族チャットやSNSの更新が頻繁なのでどこでなにをしているのかはわかるんですが……。元気でいるのは確かです」
「お母さまがお忙しいのはお仕事の都合なんですか?」
輸入品バイヤーかなにかだろうか?
「香崎亜里沙って知っていますか?」
「ええ、ジャズピアニストですよね! 父がファンでCDをたくさん持っているんですよ。え? ……まさか」
香崎亜里沙はメディアに出演するたびに若返っている美魔女だ。
「母なんです」
ほとほと困ったと言わんばかりだったので、家族は相当振り回されているのだろうと察せられた。
若いツバメがいるだの、愛人がいるだの報道されている恋多き美魔女だが、実はイメージ作りのためで、一切不貞を働いたこともないそうだ。帰国すると夫であり、舜太郎の父である岑生にベッタリで離れないらしい。
舜太郎が三十六歳でも美形なのは、美魔女譲りか。
「それで湖月さんは美形なんですね」
つるっと言ってしまい、藍は口を押さえた。舜太郎は整った眉を上げる。
「舜太郎、と。湖月は藍さんの名字でもありますから、舜太郎と呼んでください」
「あ、そうでしたね」
笑って答えると、舜太郎はなにかを期待するような目でこちらを見ている。名前を呼んでほしいのだろう。意は汲めたが、改めて呼ぼうとすると、恥ずかしさと照れが込み上げる。アラサーだというのに。
「呼んでください」
「はい。……舜太郎さん」
頬が熱い。小娘でもあるまいに、と思うのに、舜太郎が嬉しげに「はい」と、歯切れのいい返事をするものだから、ますます照れてしまった。
一階へ戻り、リビングの掃き出し窓にしつらえてあった縁側から庭に出る。
舜太郎は雪駄に、藍は用意されたつっかけサンダルに履き替えた。木のつっかけサンダルはサボに似ているが、歩くたびにカラコロ鳴るのが可愛らしい。
きちんと手入れがされた日本庭園。ポンプが水を撹拌する澄んだ池には、鯉ではなく、赤や白、錦の金魚がすいすいと泳いでいる。ハナミズキやモクレンの花びらが滑る池には、植木鉢が沈んでいた。季節になれば睡蓮か蓮が姿を見せるのだろう。庭に睡蓮が咲く家――身近に季節の草花や木々があるのは贅沢だ。
エスコートされ、サンダルをカラコロ鳴らして飛び石を歩く。すぐにモダンな平屋が見えた。玄関に置かれた傘立てには、赤い傘が一本立っていた。舜太郎が赤い傘をさしている姿を想像すると、可愛いかもしれない。
「どうぞ。散らかっていますが」
「お邪魔します」
引き戸の玄関から入ると、かすかに墨汁の匂いがする。だが、それよりも鼻を刺激したのは、油彩で使う油と癖の強いニカワの独特の匂いだ。
元は談話室だったという部屋には大小のイーゼルと作業台があり、水彩絵の具や油彩道具、アクリル絵の具、そのほかの絵の具や、パレット類、藍が知らない画材、そしてさまざまな筆が雑然としているようで、ある秩序をもって並んでいる。
美術室によくある胸像は見当たらないが、静物画用のモチーフが現代アートみたいに置いてある。壁にはいくつものキャンバスが立てかけられ、絵を乾かすためだろう棚には紙類などがあったし、引き出しがたくさんある棚もあって興味が尽きない。
飾り棚にはアニメのロボットのプラモデルや、アニメ、ゲーム、動物のフィギュアがたくさん並んでいる。それから大きなモニターが三つもあるパソコン。テーブルに置かれたモニターは絵描き用のものだと話す。そのパソコンラックには、ゲームに出てくるモンスターのデフォルメフィギュアがちょこちょこ並んでいて可愛い。
ここには、藍の知らない世界が広がっていた。
(わぁっ。男の人の部屋と美術室が融合してる)
舜太郎は大きなイーゼルを動かして、今描いている油絵を見せてくれた。
てっきり、油彩独特の肉厚で大胆な塗り方の博物画か写実的な風景画だと思っていたが、キャンバスいっぱいに描かれていたのは、ぼんやりとした青色や灰色を重ねた抽象画だった。藍は美術とは縁遠いだけに、なにが描かれているのかさっぱりわからなかった。
「習作です。これは……色を理解しようと思って描いた夜の絵です」
夜の絵。言われれば夜に見えるが。それでも、もう少しテーマを絞れるのではないだろうか? とはいえ、素人である藍には口が出せない世界だ。
「たくさん色を使っているんですね。へのへのもへじも描けない素人以下のわたしの感想で恐縮ですが、綺麗だと思います」
藍は、図画工作と美術が苦手だった。見たまま、頭に浮かんだままを画用紙に描こうとしても、手を動かすと別のへにゃへにゃの絵になる。絵画がそんなできだったから、立体はもっと悲惨だった。
仕事でプレゼン用アプリなどは使えたから、コラージュとかはできるのだろう。そう信じたい。
「慰めてくださってありがとうございます。今は……うまく描けないんです。……僕の絵画には精彩が欠けていると言われてしまって。ただの批評や批判なら気にならないのですが、師事する先生に辛口批評されて……、困っているんです。四苦八苦して、毎日描いていますが……、それでも、脱却できなくて」
イーゼルの下のゴミ箱には〈パンののぞえ〉の袋が捨ててある。ここでパンを食べながら作品を描いていたと推測される。先生の酷評から抜け出そうとして、苦心して絵と向かい合っていたのが藍にも伝わる。
「こちらの作品とか好きです。……安らぐというか、優しい気持ちになります。優美、というのでしょうか」
新聞紙一ページの半分ほどの大きさの、でこぼこした画用紙には、美しい桜が今にも花びらを画面の外に散らしそうなほど鮮明に描かれている、水彩画だった。空と桜の透明感も春らしく清々しくて好ましく思う。
「それは。近所の城山公園の桜、なんです。……それも習作ですが……よかったら藍さんの部屋に飾りましょうか?」
「ええ! いいんですか? わぁっ! 嬉しいです! ありがとうございます。わたしも城山公園までジョギングしていたんです。こんなに優しげな桜が咲いていたなんて気づきませんでした」
これまでは壁に飾るといえば、スポーツチームやアイドルのポスターくらいだった。こんなにも晴れやかで優美な桜の絵画を飾れるなんて! ドキドキして心が浮つく。
「本業はもっと色がないんですよ」
「え? 油絵じゃないんですか?」
「……はい」
舜太郎がすっと奥のふすまを開けると、そこは別の世界だった。
「……え……、わぁ、すご……」
広げた新聞紙よりも大きなキャンバスに墨だけを使った絵画があった。白と黒が織り成す水墨画なのに、空は朝の――朝だとわかる昇りたての太陽が作り出す力強いグラデーションが広がっている。
太陽が生まれたばかりの穏やかな水平線。きらめき輝く穏やかな海。さざなみの音が今にも聞こえそうな不思議な力がある。荘厳で、心が洗われるような美があった。
――どこかで見た。見かけた。同じような構図の似た絵画。
「あ! 六越デパートの展覧会の! 水墨画! 湖月舜日展!」
驚いた。先日テレビで見たばかりの絵画と似ていて、しかし大きく異なる絵画がここにある。
(テレビで見たのは、海に沈みゆく太陽だった。しかも、画面越しとは迫力が大違いだわ。これが実物……。朝日と夕日の構図は似ているけれど、凄みが、まったく違うわ。呑み込まれそう……。ほんとうに、すごい)
それに珍しい〈湖月〉という苗字が同じだ。なぜ気がつかなかったのだろう?
「知ってくれていたんですか? 六越デパートの〈落陽〉はディーラーさんが気に入ってくれて、熱意に負けて出展したんです。この〈旭日〉と対の作品で、ふたつで初めて意味をなすんですが。……〈旭日〉がとくに酷評だったので、未出展にしました」
「えええ、こんなにも美しいのに? ……すみません。その、あまりにも素晴らしいので、ほかの言葉が見当たらなくて。陳腐な言い回しになってしまって失礼になっているかもですが。……ほんとうに、綺麗……」
藍の目は〈旭日〉に向けられたままだ。
ああ、こんなにも美しい水墨画が展示されているなら、もっと早く美術館に足を向けるべきだった。なんだか悔しくなってくる。
食い入るように眺めて、惚れ惚れと溜め息を零す。
(こんな世界があるんだ……。舜太郎さんが見ている世界は空気にも豊かな色彩があって、鮮明にきらめいているのね。……もっと、見たいな。見ていたいな)
「すごく……素敵です。言葉で上手に伝えられないのが恥ずかしいです。美を称える言葉はたくさんあるんだとわかっているんですけれど、パッと出てこなくて、すみません」
「……ありがとうございます。藍さんに褒めてもらえて……、最優秀賞をもらった以上に、嬉しいです」
ふと我に返り、顔を上げると、やや照れた様子の舜太郎が隣にいてびっくりした。肩がくっつきそうだ。慌てて離れようとして、足が滑った。
「……きゃ、……わ」
転ばずにすんだのは、舜太郎の長い腕が腰を支えてくれたからだ。がっしりしすぎていないのに、支えられるくらい力強いのだと知り、どきっと胸が脈打つ。
ごく近い距離に、端麗な目が、スッとした鼻梁が、厚く締まった形のいい唇がある。
一体どんなキスをするのだろうと、考えた瞬間――
「大丈夫ですか?」
その唇が官能的に動いたので、妙に気恥ずかしくなってしまった。
(わたしったら……っ)
思いが顔に出ていたのだろうか? 舜太郎の目の奥が光ったような気がしたときには――キスをされていた。唇に彼のぬくもりを感じて、目を閉じる。好奇心と不安。もしも、キスが合わなければ? しかし、それは杞憂だった。
彼の唇の柔らかさと厚みは、藍のためにしつらえたようにしっくりとくる。ほんのわずかに離れて、別の角度から藍の唇を調べるように重なり、下唇をふにっと甘く噛まれる。この先の予感に備えてじゅわりと唾液が湧く。
ちゅっと軽い音を立てて吸った強さも藍の好みだった。藍も彼を調べるように唇をおずおず動かす。ときめきに似たテンポで鼓動が脈打つのはいつぶりだろう。
客と店員としては二か月ほどの顔見知りだが、結婚を申し込まれて三日目でキスをしている。なにも知らないまま、お互いの相性を調べ、わかり合う前に結婚してしまった。
どんな形であれ、夫婦になったのだから、キスをしているのは不思議ではない。だけど。
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