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第一話 子龍、目覚める
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私の名は子龍。振り返れば、我が人生は来るべき日に対して備え続けた人生であったと言えるだろう。
早朝より怒声と共に木刀の打ち込みをすること500回。その後、居合いをすること300回。終われば槍の稽古、弓、鉄砲と続き、最後は馬の稽古で締めとなる。これを毎日欠かさずこなし続けてきた。
様々な武具を集めてはその稽古を積み、読み集めた兵法書も1700冊を超えている。兵法書を読む合間も机を叩き拳を鍛えあげ、夜は甲冑を着たまま就寝し、食事は玄米に味噌だけで過ごしてきた。
それら全ては私が武士であるが故、武士として当然の務め、合戦の日がいつ来ようともそれに備え続けてきただけのことである。
しかし、私が生を受けた時には世は既に天下泰平となってから長い歴が経過していた。
『治に置いて乱を忘れず』この言葉を体現してきた私もいよいよ齢69となり、病を罹ってしまったがこの年齢なれば大往生この上ない。もはや死を待つだけのこの身であるが終ぞその乱が訪れることはなかった。
自らの費やした日々に後悔はまるで無いが、一つ思い残しがあるとしたら修練の成果を存分に発揮できる場があったらばと思うのみである。
しかし、それを口に発するは武士としてあってはならぬこと。だから、せめて心の中にのみ留めておこう。
さて、もう終わりが近いようだ。――あっ、なんかいい匂いがするな。しまったな、最後ぐらいなんか美味しいものでも食べておけばよかった……。
▽ ▲ ▽
死んだはずであった私が次に目覚めた時、世界は一変していた。見知らぬ大地、見知らぬ風景、見知らぬ世界。――我が身に起きたことを端的に表すならば輪廻転生したのだろう。
今の私の身体は齢15。何かの拍子に私という前世の記憶が呼び覚まされてしまったのかもしれない。
この身体の持ち主とは記憶や意識が融合されたような感覚がある。しかし、老齢であった私の方が成熟されていたためか私の人格の方が強く出てきてしまったようだ。
神は私の思い残しを掬い上げてくださったのか。――しかし、これは私の望んでいる形ではない。
一人の若者を犠牲にしてまで果たす思いなどあってはならない。なんとも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。私があんな願いを持ったばかりに……。
そして私は決意した。いつかこの若者の人格が目覚める日を期待して私は待ち続けるということを。それまでの間、精進を一切怠らぬと私はここに誓う。安心して目覚めるがよい、私がお主を立派な武士に仕立て上げておこうではないか。
▽ ▲ ▽
『アルトバラン王国』
国土はそれほど大きくは無いものの大国に挟まれたその立地から両国の生産物が行き交う拠点として商業が発展し栄えた国である。
城を中心に城下町を築き、ぐるりと囲うように外壁が建てられた首都バロックヘルムでは異国の商人の姿も多く、人々で活気付いている。
現国王は、武勇に優れ、内政にも通じた賢王である。この立地において今日まで存続し続けてこられたのは現国王の存在があったからこそと言っても過言では無い。
そんな国王には二人の王子がいる。第一王子レオナルドは父より武の才を色濃く受け継いでいる。勇敢であるレオナルドは国民からの信頼も熱く、次期国王として国中から期待されている。
一方の第二王子カイルはというと、そんな輝かしい兄とは対照的に、争いを好まず心優しい性格と評されてはいたが、強国に挟まれたこの国の状況下においてはそれは決して好意的な評価では無い。
頼りない、第二王子でよかったなどと陰で噂されるような立場にいた。
その第二王子カイルはまだ誰にも悟られていないとある秘密を抱えている。その秘密とは、武士道を生涯に渡り追求し続けた男『子龍』に人格が変わってしまっていることであった。
「キィアアアエエエエエ!!……ハッ!!……デェリャアアアア!!」
早速、早朝より稽古場で甲高い怒声をあげながら木刀を振るカイルの姿があった。人格が入れ替わった子龍がまず始めたのはカイルの肉体改造だ。
「はぁ……はぁ……なんとも貧弱な身体だ。これでは木刀の打ち込みを500こなすのもやっとではないか……」
運動をしてこなかったとは言え、少し本気で動けば息絶え絶えになるカイルの身体の貧弱さには呆れるものがあった。人一倍修練をこなしてきた子龍だからこそ余計にこの体たらくは許せるはずもない。
「よ、497……498……はぁ、はぁ。よ……よんひゃく……99っ!……500っ!!……くそっ!もう腕が動かぬか。……おのれ。これしきの稽古で根をあげるとは。動け、動かすのだ!子龍!」
滝のように汗をかきながらもなんとか気合いで木刀の打ち込み500回を終え、次の鍛錬へと入ろうとするが身体は既に限界を超えている。
生前はこれに加えて更にいくつもの鍛錬を続け様にこなしていたのだが、流石にいきなりは無理なようであった。
ここは少しずつやって行くしかないかと諦め、プルプルと震える手で桶を持ち中庭にある噴水で頭から冷水を浴び一気に汗を流す。
これも以前ならば平気であったはずの行為であるのだが、カイルの身体は過敏に反応しブルルっと震え上がってしまった。
「けしからん!なんとも軟弱な身体か!しっかりせんか!」
まるで自らに対して喝を入れるかの如くそう呟くと、ずぶ濡れのままプンプンと怒った様子で自室に戻る子龍。
自室に戻ると部屋の前にはメイドが待機しており、ずぶ濡れのカイルの姿を見るや慌てて着替えを用意して後に続いて部屋に入ってくる。
「すまない。自らで着替えるので置いておいてくれ」
メイドが着替えまでしてきそうになったため、すぐさま制止させると部屋から出るよう指示を出す。
(なんとも高待遇であるな。こんな待遇を受けていては堕落してしまう)
常に合戦を意識し、過酷な環境下においても耐えうる身体作りを心掛けてきた子龍にとってはこの高待遇は寧ろ忌むべき存在だ。
この環境では己の精神を追い込むことは難しいなどと考えながら着替えていると、今度は盆を抱えた別のメイドが料理を持って部屋に入ってきた。
「カイル様。ご朝食にございます」
「うむ。ありがとう。――置いておいてくれ」
まるで将軍様にでもなったのような扱いに悪い気はしなかったが、当然子龍はこの待遇にも気が緩むことを良しとしない。
同じくメイドを自室から退出させると机の上に置かれた料理をジッと眺める。まるで腫れ物でも見ているかのような眼差しだ。
「ふむ……。パンに……ポタージュ、サラダというやつか。前世では玄米と味噌だけであったが、さてどうしたものかな」
この料理をみていると、やはり自らが以前とは全く違う世界にいる事を突きつけられているようだった。
不思議なのはこの料理が何であるかが分かるということだ。分からない自分と分かる自分が混在している今の状況はなんとも表現のし難い現実感の無さがある。
まるで夢の中にでも迷い込んだような気にさえなってくる。
「それにしても。衣服を用意され、しまいには料理までとは。――カイルよ。お前は産まれた時からこうであったのだろう。こんな軟弱な身体である事も頷けるというものだ。――けしからん。全くもってけしからぬぞ」
ぶつくさと文句を垂れながら席に着くと、出されたものを残す訳にはいかぬと結局食べることにした。
だが、心内は依然前向きな訳ではない。見るからに贅沢そうなこの料理を食べることにはやはり強い抵抗がある。恐る恐るスプーンでポタージュを掬い上げ、とりあえずで匂いを嗅いでみる。
「――なんだこの甘ったるい匂いは。……ポタージュ。匂いだけで贅沢な品であることがわかるとは。――けしからん。まったくけしからっ…………!」
相変わらずウダウダと文句を言いながらポタージュを口に運んだ瞬間、子龍に衝撃が走る。
(うまぁぁぁぁ~!!なななななんだこれは!こ、こんなにも美味いものが存在するのか。ただの汁如きでこの美味さだとっ?)
あまりの旨さに思わずポタージュに顔を近づけ凝視する子龍。長らく玄米と味噌だけという極端に摂生していた食事からのこの振り幅は子龍にとてつもない衝撃を与えてくる。
(なんという極上な旨味っっっ!こ、こんなものを口にしてはもう元には戻れなくなる――と、止まらんっ!)
子龍はポタージュに恐怖すら覚えながらもそのスープを口に運ぶことを止める事ができずにいた。
「喝ーっ!!」
突如部屋中に子龍の叫びが響き渡る。子龍はその強靭な精神力で強引に自らを自制した。この流れをここで絶つなどという芸当は子龍以外にはできぬことであろう。
やっとの思いでポタージュを口に運ぶの止め一息つくと、次はパンを取ろうと手を伸ばす。
「いや、ちょっと待て。待て待て!まさか……このパンとやらもとんでもない味わいなのではないだろうな?――だとしたらまずい。これまで美味いとなれば次は止められる自信が流石にないぞ」
子龍の背後は既に断崖絶壁。もはや、この状況においては背水の陣で望むほか道は無い。
覚悟を決め、恐る恐るそのままパンを掴むと、今度は一気に口に含み噛みちぎる!
すぐに衝撃に備えたが、口の中のそれはなんだかモサモサとしていて思った以上の衝撃はやってこない。
「うむっ!うむうむ。――このパンは良い!このもさもさとした食感。水分を持っていかれるこの感じ。これであればちょうど良い具合だ。よかった。やはりこのポタージュが特別であったのだ。恐るべし、ポタージュ。……おっと」
ホッとして気が少し抜けてしまったのか、子龍には珍しくパンを手元から落とし、べちゃりとポタージュにパンが浸かってしまった。
「いかんいかん。早速気が緩んでしまっているではないか。これだからダメなのだ!このような食事をしていたら堕落してしま~~っ!!!」
ぶつくさと文句を言いながら落ちたパンを掴みまた口に入れたところで再び子龍に衝撃が襲い掛かる。
(何と言うことだっっっ!このパンはポタージュと合わせることでその真価を発揮する食い物であったのか!――カイルよ、よもやお主が私をこれに導いたのではあるまいな。スープが染み込んでしっとりとしたこの食感、そして次々に溢れ出るポタージュの味わいにパンの香ばさが合わさり、これこそまさに水を得た魚の如し。質素な味わいであったパンが生き生きとしておるわっ!!)
それからはもはや感服したといった様子でガツガツと食べ進めていく子龍。サラダも含め、ペロリと全てを平らげてしまった。
そして、すぐさま頭を抱えるように下を向く。あとに残ったのは満足感と同じくらいの罪悪感である。
「だれか。……だれかおるか?」
おもむろに扉に向かって声をかけるとすぐさまメイドが返事をし、中に入ってくる。
「カイル様。何か御用でしょうか」
メイドは礼儀正しく一礼をして用件を聞いてくる。この教育された具合には関心を覚えるほどである。
「うむ。料理人に伝言を頼みたいのだが……」
「何か不手際でもございましたでしょうか?先程も何か叫び声が聞こえましたが」
心配そうな顔つきでメイドがこちらを見てくるが用件はそうではない。
「……いや。この料理のことなのだが……」
なにやら葛藤している様子で言葉を濁しているカイルの様子にメイドはより一層心配な顔つきになっている。
「今度から私に出す食事はもっと不味くして欲しいのだ。こんなに美味しくてはこの身が持たぬ。そう伝えて欲しい」
決心した様子でそう言うと不思議とメイドの顔つきが和らいだのが見えた。
「あらまぁ。――畏まりました。料理人に伝えておきましょう」
「あぁ、宜しく頼む」
伝言を託けるとメイドは空になった食器を片付け退出していった。席を立ち窓の外を眺める子龍には哀愁の色が見える。
「危なかった……この私が思わず言うのを躊躇ってしまった。それほどにこの料理には中毒性があるのだろう。ポタージュ……正直もう口にできないのは残念であるが、これで良い。あの味を一度でも味わえた。それだけで十分である」
感慨深く外を眺めたのちに、椅子に座ると午後は酷使した身体を休めるようにゆっくりとした時間を過ごした。
この時の子龍はまだ自分の犯した過ちに気づいてはない。
その日の夜、子龍は驚くこととなる。カイルの伝言を聞いた料理人は『この上ない誉れ』と感激し、いつも以上に腕を振るって食事を用意するのだった。食卓には豪華絢爛な料理が並び、その前で喜びと困惑が入り混じった複雑そうな顔をする子龍の姿があった。
早朝より怒声と共に木刀の打ち込みをすること500回。その後、居合いをすること300回。終われば槍の稽古、弓、鉄砲と続き、最後は馬の稽古で締めとなる。これを毎日欠かさずこなし続けてきた。
様々な武具を集めてはその稽古を積み、読み集めた兵法書も1700冊を超えている。兵法書を読む合間も机を叩き拳を鍛えあげ、夜は甲冑を着たまま就寝し、食事は玄米に味噌だけで過ごしてきた。
それら全ては私が武士であるが故、武士として当然の務め、合戦の日がいつ来ようともそれに備え続けてきただけのことである。
しかし、私が生を受けた時には世は既に天下泰平となってから長い歴が経過していた。
『治に置いて乱を忘れず』この言葉を体現してきた私もいよいよ齢69となり、病を罹ってしまったがこの年齢なれば大往生この上ない。もはや死を待つだけのこの身であるが終ぞその乱が訪れることはなかった。
自らの費やした日々に後悔はまるで無いが、一つ思い残しがあるとしたら修練の成果を存分に発揮できる場があったらばと思うのみである。
しかし、それを口に発するは武士としてあってはならぬこと。だから、せめて心の中にのみ留めておこう。
さて、もう終わりが近いようだ。――あっ、なんかいい匂いがするな。しまったな、最後ぐらいなんか美味しいものでも食べておけばよかった……。
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死んだはずであった私が次に目覚めた時、世界は一変していた。見知らぬ大地、見知らぬ風景、見知らぬ世界。――我が身に起きたことを端的に表すならば輪廻転生したのだろう。
今の私の身体は齢15。何かの拍子に私という前世の記憶が呼び覚まされてしまったのかもしれない。
この身体の持ち主とは記憶や意識が融合されたような感覚がある。しかし、老齢であった私の方が成熟されていたためか私の人格の方が強く出てきてしまったようだ。
神は私の思い残しを掬い上げてくださったのか。――しかし、これは私の望んでいる形ではない。
一人の若者を犠牲にしてまで果たす思いなどあってはならない。なんとも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。私があんな願いを持ったばかりに……。
そして私は決意した。いつかこの若者の人格が目覚める日を期待して私は待ち続けるということを。それまでの間、精進を一切怠らぬと私はここに誓う。安心して目覚めるがよい、私がお主を立派な武士に仕立て上げておこうではないか。
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『アルトバラン王国』
国土はそれほど大きくは無いものの大国に挟まれたその立地から両国の生産物が行き交う拠点として商業が発展し栄えた国である。
城を中心に城下町を築き、ぐるりと囲うように外壁が建てられた首都バロックヘルムでは異国の商人の姿も多く、人々で活気付いている。
現国王は、武勇に優れ、内政にも通じた賢王である。この立地において今日まで存続し続けてこられたのは現国王の存在があったからこそと言っても過言では無い。
そんな国王には二人の王子がいる。第一王子レオナルドは父より武の才を色濃く受け継いでいる。勇敢であるレオナルドは国民からの信頼も熱く、次期国王として国中から期待されている。
一方の第二王子カイルはというと、そんな輝かしい兄とは対照的に、争いを好まず心優しい性格と評されてはいたが、強国に挟まれたこの国の状況下においてはそれは決して好意的な評価では無い。
頼りない、第二王子でよかったなどと陰で噂されるような立場にいた。
その第二王子カイルはまだ誰にも悟られていないとある秘密を抱えている。その秘密とは、武士道を生涯に渡り追求し続けた男『子龍』に人格が変わってしまっていることであった。
「キィアアアエエエエエ!!……ハッ!!……デェリャアアアア!!」
早速、早朝より稽古場で甲高い怒声をあげながら木刀を振るカイルの姿があった。人格が入れ替わった子龍がまず始めたのはカイルの肉体改造だ。
「はぁ……はぁ……なんとも貧弱な身体だ。これでは木刀の打ち込みを500こなすのもやっとではないか……」
運動をしてこなかったとは言え、少し本気で動けば息絶え絶えになるカイルの身体の貧弱さには呆れるものがあった。人一倍修練をこなしてきた子龍だからこそ余計にこの体たらくは許せるはずもない。
「よ、497……498……はぁ、はぁ。よ……よんひゃく……99っ!……500っ!!……くそっ!もう腕が動かぬか。……おのれ。これしきの稽古で根をあげるとは。動け、動かすのだ!子龍!」
滝のように汗をかきながらもなんとか気合いで木刀の打ち込み500回を終え、次の鍛錬へと入ろうとするが身体は既に限界を超えている。
生前はこれに加えて更にいくつもの鍛錬を続け様にこなしていたのだが、流石にいきなりは無理なようであった。
ここは少しずつやって行くしかないかと諦め、プルプルと震える手で桶を持ち中庭にある噴水で頭から冷水を浴び一気に汗を流す。
これも以前ならば平気であったはずの行為であるのだが、カイルの身体は過敏に反応しブルルっと震え上がってしまった。
「けしからん!なんとも軟弱な身体か!しっかりせんか!」
まるで自らに対して喝を入れるかの如くそう呟くと、ずぶ濡れのままプンプンと怒った様子で自室に戻る子龍。
自室に戻ると部屋の前にはメイドが待機しており、ずぶ濡れのカイルの姿を見るや慌てて着替えを用意して後に続いて部屋に入ってくる。
「すまない。自らで着替えるので置いておいてくれ」
メイドが着替えまでしてきそうになったため、すぐさま制止させると部屋から出るよう指示を出す。
(なんとも高待遇であるな。こんな待遇を受けていては堕落してしまう)
常に合戦を意識し、過酷な環境下においても耐えうる身体作りを心掛けてきた子龍にとってはこの高待遇は寧ろ忌むべき存在だ。
この環境では己の精神を追い込むことは難しいなどと考えながら着替えていると、今度は盆を抱えた別のメイドが料理を持って部屋に入ってきた。
「カイル様。ご朝食にございます」
「うむ。ありがとう。――置いておいてくれ」
まるで将軍様にでもなったのような扱いに悪い気はしなかったが、当然子龍はこの待遇にも気が緩むことを良しとしない。
同じくメイドを自室から退出させると机の上に置かれた料理をジッと眺める。まるで腫れ物でも見ているかのような眼差しだ。
「ふむ……。パンに……ポタージュ、サラダというやつか。前世では玄米と味噌だけであったが、さてどうしたものかな」
この料理をみていると、やはり自らが以前とは全く違う世界にいる事を突きつけられているようだった。
不思議なのはこの料理が何であるかが分かるということだ。分からない自分と分かる自分が混在している今の状況はなんとも表現のし難い現実感の無さがある。
まるで夢の中にでも迷い込んだような気にさえなってくる。
「それにしても。衣服を用意され、しまいには料理までとは。――カイルよ。お前は産まれた時からこうであったのだろう。こんな軟弱な身体である事も頷けるというものだ。――けしからん。全くもってけしからぬぞ」
ぶつくさと文句を垂れながら席に着くと、出されたものを残す訳にはいかぬと結局食べることにした。
だが、心内は依然前向きな訳ではない。見るからに贅沢そうなこの料理を食べることにはやはり強い抵抗がある。恐る恐るスプーンでポタージュを掬い上げ、とりあえずで匂いを嗅いでみる。
「――なんだこの甘ったるい匂いは。……ポタージュ。匂いだけで贅沢な品であることがわかるとは。――けしからん。まったくけしからっ…………!」
相変わらずウダウダと文句を言いながらポタージュを口に運んだ瞬間、子龍に衝撃が走る。
(うまぁぁぁぁ~!!なななななんだこれは!こ、こんなにも美味いものが存在するのか。ただの汁如きでこの美味さだとっ?)
あまりの旨さに思わずポタージュに顔を近づけ凝視する子龍。長らく玄米と味噌だけという極端に摂生していた食事からのこの振り幅は子龍にとてつもない衝撃を与えてくる。
(なんという極上な旨味っっっ!こ、こんなものを口にしてはもう元には戻れなくなる――と、止まらんっ!)
子龍はポタージュに恐怖すら覚えながらもそのスープを口に運ぶことを止める事ができずにいた。
「喝ーっ!!」
突如部屋中に子龍の叫びが響き渡る。子龍はその強靭な精神力で強引に自らを自制した。この流れをここで絶つなどという芸当は子龍以外にはできぬことであろう。
やっとの思いでポタージュを口に運ぶの止め一息つくと、次はパンを取ろうと手を伸ばす。
「いや、ちょっと待て。待て待て!まさか……このパンとやらもとんでもない味わいなのではないだろうな?――だとしたらまずい。これまで美味いとなれば次は止められる自信が流石にないぞ」
子龍の背後は既に断崖絶壁。もはや、この状況においては背水の陣で望むほか道は無い。
覚悟を決め、恐る恐るそのままパンを掴むと、今度は一気に口に含み噛みちぎる!
すぐに衝撃に備えたが、口の中のそれはなんだかモサモサとしていて思った以上の衝撃はやってこない。
「うむっ!うむうむ。――このパンは良い!このもさもさとした食感。水分を持っていかれるこの感じ。これであればちょうど良い具合だ。よかった。やはりこのポタージュが特別であったのだ。恐るべし、ポタージュ。……おっと」
ホッとして気が少し抜けてしまったのか、子龍には珍しくパンを手元から落とし、べちゃりとポタージュにパンが浸かってしまった。
「いかんいかん。早速気が緩んでしまっているではないか。これだからダメなのだ!このような食事をしていたら堕落してしま~~っ!!!」
ぶつくさと文句を言いながら落ちたパンを掴みまた口に入れたところで再び子龍に衝撃が襲い掛かる。
(何と言うことだっっっ!このパンはポタージュと合わせることでその真価を発揮する食い物であったのか!――カイルよ、よもやお主が私をこれに導いたのではあるまいな。スープが染み込んでしっとりとしたこの食感、そして次々に溢れ出るポタージュの味わいにパンの香ばさが合わさり、これこそまさに水を得た魚の如し。質素な味わいであったパンが生き生きとしておるわっ!!)
それからはもはや感服したといった様子でガツガツと食べ進めていく子龍。サラダも含め、ペロリと全てを平らげてしまった。
そして、すぐさま頭を抱えるように下を向く。あとに残ったのは満足感と同じくらいの罪悪感である。
「だれか。……だれかおるか?」
おもむろに扉に向かって声をかけるとすぐさまメイドが返事をし、中に入ってくる。
「カイル様。何か御用でしょうか」
メイドは礼儀正しく一礼をして用件を聞いてくる。この教育された具合には関心を覚えるほどである。
「うむ。料理人に伝言を頼みたいのだが……」
「何か不手際でもございましたでしょうか?先程も何か叫び声が聞こえましたが」
心配そうな顔つきでメイドがこちらを見てくるが用件はそうではない。
「……いや。この料理のことなのだが……」
なにやら葛藤している様子で言葉を濁しているカイルの様子にメイドはより一層心配な顔つきになっている。
「今度から私に出す食事はもっと不味くして欲しいのだ。こんなに美味しくてはこの身が持たぬ。そう伝えて欲しい」
決心した様子でそう言うと不思議とメイドの顔つきが和らいだのが見えた。
「あらまぁ。――畏まりました。料理人に伝えておきましょう」
「あぁ、宜しく頼む」
伝言を託けるとメイドは空になった食器を片付け退出していった。席を立ち窓の外を眺める子龍には哀愁の色が見える。
「危なかった……この私が思わず言うのを躊躇ってしまった。それほどにこの料理には中毒性があるのだろう。ポタージュ……正直もう口にできないのは残念であるが、これで良い。あの味を一度でも味わえた。それだけで十分である」
感慨深く外を眺めたのちに、椅子に座ると午後は酷使した身体を休めるようにゆっくりとした時間を過ごした。
この時の子龍はまだ自分の犯した過ちに気づいてはない。
その日の夜、子龍は驚くこととなる。カイルの伝言を聞いた料理人は『この上ない誉れ』と感激し、いつも以上に腕を振るって食事を用意するのだった。食卓には豪華絢爛な料理が並び、その前で喜びと困惑が入り混じった複雑そうな顔をする子龍の姿があった。
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