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道場破りはお静かに
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柳生十兵衛三厳の娘・於松は、子供の頃を思い出すにつけても、なぜか父の笑った顔だけが思い出せないのであった。
松が十一のとき異郷の地で帰らぬ人となった父は、世に名の知られた優れた剣豪であった。将軍の腹心の臣下であるとともに、学問も怠らなかった。
道場で門下生に稽古を付けていたときの厳しい声や、それとは打って変わって娘である自分や妹には優しかったのは覚えている。
しかし、活発な松が見様見真似で木刀を振り回す度に、父は「お前は女子なのだから手習いでもしてきなさい」と困ったように言うだけで、決して褒めてはくれなかった。
*
松は大名家の姫であった幼い頃に一度、父に連れられて江戸城へ登城したことがある。
そのとき祖父・宗矩が大和柳生家の当主、父の三厳は次期当主だった。そして、松が七つ、妹の於竹は五つの春であった。
祖父と父が将軍に謁見している間、年端もゆかぬ姉妹は大奥の梅香御前の元に預けられた。
時の将軍は、江戸幕府三代将軍・徳川家光であった。
梅香御前は家光最愛の側室である。このとき二十三の若さでありながら、家光の乳母・春日局亡き後の大奥を取り仕切る女主人であり、家光の正室・鷹司孝子を凌ぐ権勢を誇っていた。
しかし、梅香御前に家光の子が授かることはなかった。そのため子ども好きの梅香御前は、大奥の女あるじとして登城した大名の子女の接待することを何よりの楽しみとしていた。
松は梅香御前に初めて会ったとき、まるで天女のようだと思った。
清らかな美しさと優しい物腰に憧れ、梅香御前のような姉がいたら……と思ったほどである。
姉妹が梅香御前から賜った菓子を頬張っていたとき、ひとりの少年が物欲しそうにこちらを見ていた。
「あら、若君」
梅香御前に若君、と呼ばれた少年は松より歳下であるようだった。きっと将軍の長子だろう。
「若君もご一緒に召し上がりませぬか」
梅香御前が鈴を転がすような声で言うと、若君は去っていった。
松は咄嗟に何かを思いついた。
「梅香様、菓子を少し持っていってもかまいませんか」
「ええ。さあ、この懐紙に包みなされ」
梅香御前は桜の花びらの絵柄のついた懐紙を差し出す。
「ありがとう存じます」
松は席を立ち、若君を追いかける。
「ふふ、ほんに松姫様はお優しいこと」
梅香御前は松の活発な後ろ姿を見守っていた。
若君はひっそりとした狭いところにひとり座っていた。
「竹千代君でいらっしゃいますか?」
若君はこくりと頷いた。
松は若君の隣に座り込む。
「少し持ってまいりました。一緒に食べましょう」
凛とした少女は、懐紙に包んだ色とりどりの菓子を竹千代に見せた。
竹千代は、差し出された懐紙から小さな菓子をひとつ取り、口に運ぶ。
「美味しゅうございましょう?」
竹千代はこくりと頷く。
竹千代が生まれる前に嫁いだ姉よりも、目の前の少女の方が姉のように感じられた。
「向こうに行ったらいっぱいありますよ。行きましょう」
松は竹千代の手を引いて、元いた部屋へ戻ろうとするが、戻り方が分からない。
来たはいいが、帰れないのだ。
松は、このまま父や母、妹、祖父たちに二度と会えないような気がして、さぁっと血の気が引くのを感じだ。
松が十一のとき異郷の地で帰らぬ人となった父は、世に名の知られた優れた剣豪であった。将軍の腹心の臣下であるとともに、学問も怠らなかった。
道場で門下生に稽古を付けていたときの厳しい声や、それとは打って変わって娘である自分や妹には優しかったのは覚えている。
しかし、活発な松が見様見真似で木刀を振り回す度に、父は「お前は女子なのだから手習いでもしてきなさい」と困ったように言うだけで、決して褒めてはくれなかった。
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そのとき祖父・宗矩が大和柳生家の当主、父の三厳は次期当主だった。そして、松が七つ、妹の於竹は五つの春であった。
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しかし、梅香御前に家光の子が授かることはなかった。そのため子ども好きの梅香御前は、大奥の女あるじとして登城した大名の子女の接待することを何よりの楽しみとしていた。
松は梅香御前に初めて会ったとき、まるで天女のようだと思った。
清らかな美しさと優しい物腰に憧れ、梅香御前のような姉がいたら……と思ったほどである。
姉妹が梅香御前から賜った菓子を頬張っていたとき、ひとりの少年が物欲しそうにこちらを見ていた。
「あら、若君」
梅香御前に若君、と呼ばれた少年は松より歳下であるようだった。きっと将軍の長子だろう。
「若君もご一緒に召し上がりませぬか」
梅香御前が鈴を転がすような声で言うと、若君は去っていった。
松は咄嗟に何かを思いついた。
「梅香様、菓子を少し持っていってもかまいませんか」
「ええ。さあ、この懐紙に包みなされ」
梅香御前は桜の花びらの絵柄のついた懐紙を差し出す。
「ありがとう存じます」
松は席を立ち、若君を追いかける。
「ふふ、ほんに松姫様はお優しいこと」
梅香御前は松の活発な後ろ姿を見守っていた。
若君はひっそりとした狭いところにひとり座っていた。
「竹千代君でいらっしゃいますか?」
若君はこくりと頷いた。
松は若君の隣に座り込む。
「少し持ってまいりました。一緒に食べましょう」
凛とした少女は、懐紙に包んだ色とりどりの菓子を竹千代に見せた。
竹千代は、差し出された懐紙から小さな菓子をひとつ取り、口に運ぶ。
「美味しゅうございましょう?」
竹千代はこくりと頷く。
竹千代が生まれる前に嫁いだ姉よりも、目の前の少女の方が姉のように感じられた。
「向こうに行ったらいっぱいありますよ。行きましょう」
松は竹千代の手を引いて、元いた部屋へ戻ろうとするが、戻り方が分からない。
来たはいいが、帰れないのだ。
松は、このまま父や母、妹、祖父たちに二度と会えないような気がして、さぁっと血の気が引くのを感じだ。
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