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第Ⅰ章 平穏90%・歪度10%

brocen 11 悪夢防止に添い寝だけ

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 その日の深夜、二時ごろだろうか。寝返りを打つと急に体が何かに引き寄せられた気がした。翼と背中の間に腕が回される。ん、ん!? 抱きしめられてる?
 寝ぼけた頭が徐々に冴えてくる。目をこすって彼のほうを見た。目を瞑っている。寝息を立て、安からな顔で眠っていた。
 無意識に抱きしめたらしい。どうしよう。起こさないように少しずつ離れようとしても、がっちりと結んでいる彼の両腕は離れず、むしろもっと強くなった。

「ね、ね……」

 揺らしても起きる気配はない。

「んー……」

 小声で「ディアンシャ」と唱える。返事はなし。
 迷った末、仕方なくそのまま寝ることにした。彼に意識がないなら仕方ない。今まではそっか、バリアがあったから勝手に抱きしめられることもなかったのか……。


 次の日の朝、いつもどおりわたしのほうが早く起きた。まだ腕が回っているままだったので、少し苦労しながら彼を剥がした。
 まだ眠ってるみたい。朝のぶんの血を机に置いて、仕事へ出かけた。

 次の日も、その次の日も、というか、あれから毎日彼はわたしを抱きしめて寝ていた。ディアンシャのほうが力が強いから、寝ぼけ頭では剥がすことができない。
 それにわたしの知る限りでは、わたしを抱いているあいだは彼は魘されていないように思えた。ふつうに隣で寝ているときでも、二日か三日に一回は必ず悪夢を見て、唸り声を出したりや苦しそうに動いたりしていたのに。

 どこかのタイミングで、わたしが朝起きてまた彼の腕を剥がそうとしていると上から声が落ちてきた。

「……セラエル?」
「あ。ディアンシャ、起きたの?」
「ん」

 彼はわたしを抱きしめていたことに気づいて、胡乱な顔で腕を外した。

「なにしてたの?」
「ええ? ディアンシャがいつも抱きしめてくるんだよ?」
「いつも? 俺が?」

 本当に覚えていないみたいだ。

「寝てるとき……。ここ毎日、ずっと」
「あー……悪い。ほんとに」

 すまなそうに言葉を濁す。

「寝苦しかったよな」

 わたしはおずおずと疑問を口にした。

「最近も悪夢見てる?」
「ここ数日は見てねえな」
「そっか……」

 天使の翼は幸せの匂いを纏っている。でも、天使そのものがそもそも神聖な存在だし、もしかして悪夢を祓う効果とかがあるんだろうか? 魔法で祓ってあげても意味がないことがほとんどだったのに、天使ってやっぱりすごい。
 でもそれはそれとして、毎日抱きしめられて寝ているのは……あんまりよくないよね。友達がやることじゃ、ないよね? 彼と一緒に見たドラマや映画を思い出すと、男女の恋人が抱きしめ合って寝ていた気がする……。それはちょっと、まずい。
 控えめに声を落として言った。

「わたし……ソファで、寝ようかな」

 怒られるかな。嫌がるかな。目を伏せて彼の返事を待った。

「……そうだな、悪い。代わりに休日の昼に寝ていいよ」

 拍子抜けする言葉に驚き、ぽかんと口が開いた。

「え? そうなの?」
「天使的によくねえだろ」

 わたしの気持ちを測ってくれたらしい。やっぱりディアンシャは優しいな……。布団を顔のほうまで持ちあげる。でも、引き止めてくれないのがちょっぴり寂しい気もした。

「えと、ありがとう。じゃあそうするね」

 彼は頷き、体の向きを変えて寝なおした。あと一時間くらいしたら起きるだろう。そっと布団を持ちあげ、ベッドから立ちあがった。



 ソファで寝るのは、翼が邪魔をしてちょっぴり居心地が悪いけど、昼間に寝かせてもらえるのであまり支障はなかった。でも、寝つきが悪いことも手伝って、彼が魘されているとすぐに起きてしまう。
 手燭しゅしょくを作って寝室に向かう。呻き声を上げているので、体を揺すって起こしてあげようした。でも目は一向に覚めない。うわ言のように「やめてくれ」と呟いている。

 悪魔に襲われたときのことを思い出しているんだろうか。それとも、怪我に残った呪いがまだ彼の心を蝕んでいるのかな……。
 安眠を送れるように魔法をかけてみても、眉間によった皺は消えない。こんなに酷いのは最初の数日以来だ。お腹の怪我は治ってきているのに……。
 天使の翼を二度三度羽ばたかせて、幸せの香りを送った。少しマシになったかな?

 わたしはソファに戻った。

 思い返してみれば、わたしがベッドの隣で寝ているときも酷い悪夢が減っていたような気がする。最初はたしか、彼の叫び声のようなものにびっくりして起きたこともあった。

 心が憂いに沈んでいく。
 どうしよう……。だけど……ああいうのは……。うーん……。
 考えているうちに睡魔が襲い、体を丸めたまま眠った。


 それから二週間くらいのあいだ、彼の悪夢はたびたび続いた。軽く魘されているだけのときは揺らせば起きてくれて、そのあとはちゃんと眠れているようだった。起こしても魔法をかけても意味がないくらい酷い夢を見た次の日は、ディアンシャはどこか疲れた顔をしていて、早めに寝るようになっていた。
 ……かわいそうだな、どうしようかな。

 答えを出せないまま、また一週間すぎた。
 深夜すぎ、また彼の声に気づいて目が覚める。そろそろと部屋を移動した。翼を羽ばたかせてみても様子が変わらなくて、どうしようかと肩を落とす。
 辛そうなディアンシャの額に手を当てた。流れている銀髪を触る。怪我はともかく、彼も天使と同じくらい顔が綺麗だ。
 薄く目が開いた。

「セラエル……。てんし」

 熱に浮かされたような声だ。徐々に閉じて、最後は消え入るような声だった。

「おれのてんし。せらえる」

 苦しめている罪悪感に駆られ、同時にわたしを求めていることに悦びを覚えた。なんとなくわたしのことがわかったのかな。眠っているときも考えてくれたんだろうか。ディアンシャの悪夢は収まったようなので、わたしはソファに戻った。
 やっぱり……明日、彼とちゃんと話そう。



 タイミングを見計らって、昼過ぎにベッドに座る彼の隣に腰を下ろした。
「最近さ……寝つき悪くない?」
「あー、そうかも」

 彼は誤魔化すように顔を背けた。

「わたしが隣にいたときのほうが寝やすかった?」

 一拍置いて、淡白に返事をする。

「まー。そうかな」
「天使ってそういう効能があるのかな……」

 わたしが俯いていると、ディアンシャは笑みを含んだ声で言った。

「そういや、お前いつもいい匂いするな」
「あ、これは幸せの匂いだよ。相手を幸せにするような匂いになるの」
「へえ。たしかに……」

 ディアンシャは翼のほうに少し顔を近づけた。

「好きな匂いだ」

 彼はもう、わたしに隣で寝たほうがいいとは言わないだろう。わたしが堕天のことを気にしているのはわかっているし、わたしを困らせたくないと思ってくれてる。
 髪を耳にかけ、ぎくしゃくした動きで彼の膝に手を乗せた。

「やっぱりさ……わたしはディアンシャの隣で眠るよ」
「いやー」彼は首を傾げた。「また抱きしめるかもしれねえし」
「そうだけど……」
「大丈夫だよ、ほんとに」

 彼の好意に甘えていいんだろうか。天使として正しい選択はどっちだろう。ううん、決まってるよね。困ってる人を自分の都合で助けないのは、天使失格だ。

「ううん。やっぱり一緒に寝る」

 わたしは顔を上げて、凛とした声で言った。
 ディアンシャはわたしの決意を見てとり、口元に手を寄せて考える素振りをする。

「じゃあ、俺の腕縛ってもいいよ?」
「ええ? 本気で言ってるの?」
「うん」

 彼はどこかおかしそうに頷いた。

「いいよそんなの。隣の人が縛られてるなんて、なんだか嫌だよ。わたしの存在が癒しになるなら、一緒に寝ます」

 背筋を伸ばしてうやうやしい声色で言った。ディアンシャは肩を竦め、わずかに首を傾けた。髪がさらりと落ちて光に煌めいた。

「それはじゃあ、抱きしめていいってこと?」
「ま、まぁ……そういうことになるのかな」

 彼も同じように丁寧に言葉を送った。

「なにからなにまでありがとう。ほんとに無理させてねえか?」
「うん! 早く治ってほしいから」

 返事代わりに朗らかな笑みを静かに湛え、わたしの頭を撫でた。子供だと思われてる? でも、子を愛する母とはまた違う瞳をしているような気がした。


 夜になって、約束どおり一緒にベッドに入った。ふかふかの布団は、やっぱりソファよりも寝心地がいい。自分のためにもこっちの選択肢にしてよかったかも。

「セラエル」

 彼のほうを向いた。ほの明るい光が逆光になって、彼の顔に影を作っている。青い眼が細まった。

「こっち来て」
「ん?」

 少しばかり体を引きずって動いた。顔がよく見えるくらいにまで近づくと、ディアンシャは布団から手を出し、ぐぃと体を引き寄せた。胸元に顔を押し当てられる。

「あー、落ちつく」

 既に背中にしっかりと腕が回っている。

「え? え? 最初からなの!?」

 見下ろした眼が媚びるように瞬きをした。

「だめ?」
「えー……だって……」

 悪戯っぽく笑う顔が見える。

「いいじゃん。結局変わんねえし」
「心の準備が……。意識があるのとないのも違うような……」
「まあ、どうしても嫌なら離すけど」

 寂しい声つきに変わったのに気づいて、躊躇いがちに答える。

「い、いいです。大丈夫です」

 彼はわたしの首の下に腕を通した。腕枕というやつかな? 怪我をしたほうの手は頭を撫でて、そのあと軽く翼に添えられる。

「セラエルは優しいな」

 顔を上げ、笑顔で答えた。

「ディアンシャのほうが優しいよ? でも、わたしもディアンシャのこと幸せにしたいから」
「へえ……」

 細めた目つきが妖しくわたしの顔を撫でていき、すらりとした指が頬を包んだ。爪が何度か皮膚を引っ掻く。

「どしたの?」
「いやあ?」

 蠱惑的な目線が横に逸れ、またこちらへ戻る。

「かわいいな」

 顎を摩っていた指が下唇に沿わされる。フェザータッチの指遣いが行き来して、ぞくぞくと鳥肌が立った。
 彼は首筋に顔を埋めた。何度かリップ音がして、皮膚に冷たい感触が伝わる。啄むようなキスのあと、湿った舌がぞぞぞとなぞり這う。

「ぁ、……ん。ひゃ」

 これ、よくわからないから怖い。わたしは彼の服を強く掴んだ。耳元で吐息が落とされる。

「……俺のもんにしたい」

 湿った声色が耳をくすぐり、耳朶を食んで舐められる。

「ぁ……な。どう、いう……こと」

 わたしは誰のものでもないよ?
 首筋を長い舌がしっとりと舐める。唾を啜る音が聞こえた。触れられていないところまでずきずきと脈打ち、体が熱っぽく頭はぼうっとしてくる。

「あんまりかわいいこと言わないで」
「えー……。なにも……ッツ。言ってな、ゃん。あ……」
「そういう声もだめ」

 ディアンシャが変なことするからじゃん。わたしは強めに体を押して上目遣いに彼を見た。知らぬ間に目が潤み、視界の中の彼が揺らいでいる。

「なんか……変な感じするんだもん」
「へえ?」艶めいた微笑が歪む。「変な感じって?」
「わかんないけど……脈もおかしいし……」
「嫌だ?」
「嫌ではない……けど。これなに?」

 ディアンシャは右上を見て考えを巡らせている。

「お仕置き?」
「わたし悪いことしてないよ?」
「じゃあー……ご褒美」
「どっちなの? 全然違うものだよ?」

 唇を尖らせると、彼は観念したように笑った。

「悪りい。俺もお前に悦んでほしくてやったのかな。あとは『ちゃんと幸せだよ』って、お前に伝えるために」
「……そっか」

 心地のよい声はすとんと心の底まで落ちた。背中を優しくとんとんと叩いてくれる。近くに感じる彼の息遣いや、背中越しの腕の感触、天使の翼を覆う悪魔の翼の重み、すべてが快くて、わたしは久しぶりにぐっすりと眠った。

 
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