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第Ⅰ章 平穏90%・歪度10%

brocen 9 天使のオシャレ事情

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 次の日、またいつものように治癒魔法をかけ、わたしの血を飲ませた。少し膨らんだ喉仏が上下するのをぼうっと眺める。昨日のことが嘘だったかのように、彼はまったくの普段どおりだ。
 そうだよね、悲しいことは引きずっちゃいけない。切り替えて生きていかなきゃ。

 パタパタと寝室を出てキッチンに向かうわたしを、ディアンシャはベッドに座り頬杖をついて見ていた。帰ってきても同じポーズのままで、わたしは首を傾げる。

「どうかした?」
「セラエル。お洒落でもしてみないか?」
「おしゃれ?」

 これはきっと、ディアンシャがまた面白い提案をしてくれる合図だ。ふふふ。密かに心が踊る。

「パソコン取って」
「うん!」

 いつかに作ったパソコンをテーブルにのせた。天界仕様だから、電気や電波は必要ない。この家にある電灯も魔法の力で点いている。
 彼はネットサーフィンをして、慣れた手つきでいくつか言葉を打ちこんだ。出てきた写真をわたしに見せる。

「これ着てみて」
「えぇ~。こういう服、天界では着ないものなんだよ?」
「俺の前でだけ。おねがい」

 顔を少し傾けて、掠れた低音のトーンがわずかに上がる。彼の〝おねがい〟はずるい。天使のわたしからすると、哀れな子羊のように見える。

「少しだけだよ……?」

 写真を改めて見てみる。
 特別変わった服ではない。人間が普段着ているような服だ。えーっと、下のスカートはデニムの生地で、上に丸襟のシャツ。カーディガンがちょっと大きめなんだ。手の甲が隠れ、腕周りにゆとりのあるダボッとした白いカーディガンを作る。あとは帽子を被って──……。

「天使の輪っか、キャップ被っても大丈夫なんだ?」

 つばを持ちあげ、頭の上を見た。そりゃあそうだ。天使の輪っか──光輪アウレオラは物質的なものではなく、天使同士ですら触れない特別な光で作られている。

「うまくできてるかな?」
「できてる。翼が生えた人間ぽい」
「それって……人間なの? つまり天使でしょ?」

 ちらりとベットの横に立てかけてあった全身鏡を見た。うんうん、そんなに悪くない。

「じゃあ今度はこれ」

 ディアンシャはカチカチとキーボードを叩く。『スーツ』と打ち込まれている。
 人間が仕事に行くときに着ているやつだ。紺色のシルクのジャケットと、ストライプ模様のネクタイ。今度は綺麗にアイロンがけされたズボンね……。翼は変わった服を着ていても、自然と服の外に現れるようになっている。

「あ~。いいね。仕事ができそうな天使って感じ。明日はそれで行ったら?」
「それってつまり、普段は仕事ができなそうに見えるってこと?」

 ぷうと頬を膨らませる。一応わたしも鏡で見てみた。うーん、なるほど。彼の言うこともちょっとわかるかも。スーツを着るとかっこよくなるね。特に色の濃い紺のジャケットと、ストレートの長い金髪や白妙の翼とのコントラストがキマっていて、より天使らしさが映えているように思える。

「はい、次」

 今度はレースやリボンが至るところに飾られた、人形が着るようなワンピースだ。胸元に大きなリボンのついた白いブラウス。肩紐のついたネイビーのワンピースは腰にボタンが四つ縦に並んでいる。

「んー、まあ、似合うよなって感じ」

 ふむふむ、たしかに。ワンピース自体はあまり明るい色じゃないので、翼や光輪アウレオラがあってもうるさくならない。

「これは?」
「なにこれ! こんなのだめ!」

 検索窓を見ると『バニーガール』と書いてある。こんなセクシーな衣装、天使が着ていたらきっと神様に怒られる。
 彼は「ちぇ~」とてきとうに相槌を打ち、今度は『悪魔 コスプレ』という検索結果を見せてくる。

「ちょっと……わたしのこと着せ替え人形にしてない?」
「うん。今気づいたの?」

 彼が無垢な瞳を向ける。悪戯っぽい笑みにどきりと胸が音を立てる。そういう笑い方、やめてほしい。なんだか天界では見慣れない表情だから戸惑っちゃう。

「悪魔の格好はダメだよ?」
「じゃあこれは?」

 ふわふわもこもこのピンクの生地に身を包んだ女の人が現れる。『パジャマ 猫』と書いてある。たしかにフードには猫の耳が、服の真ん中に肉球の形のポケットが二つついている。

「これならいいかな……」

 簡単な作りなので、すぐに服が切り替わった。これも変わった服だ。特に触り心地がいい。自分の袖を撫でて、柔らかい感触につい顔が綻んだ。こういうのは好きかも。かわいい。

「セラエル」

 彼が手招きをするので、ベッドに膝をついた。近づくと、後ろにあったフードを被らされる。

「もこもこじゃん」

 フードの上から頭を撫でられ、そのあと腕や脇の下に手を伸ばす。少し緩んだ彼の表情に、わたしまで嬉しくなる。

「天使で猫耳とか、属性てんこもりだな」
「属性?」
「人間はこういうのが好きらしいぜ?」

 ふぅん、とフードを引っ張ってみる。召喚されたらこういう姿で現れればいいってこと?

「次は?」

 彼はにんまりと笑ってまたパソコンに向きなおった。
 そのあとは、各国の伝統衣装を一通り試して、アニメのキャラクター──わたしが許せるものをいくつか着た。服の着替えくらいならそんなに魔力は使わない。とりどりの服の種類に、わたしも楽しくなってきた。きっと全部で二十着はあっただろう。

 中にはわたしが気に入ったものもある。例えば着物。天使が普段着ているものと同じく、一枚の布でできていて、腰に帯を巻く仕様になっている。でもその柄は豪華でいて繊細に染めあげられ、帯の巻き方にまで種類があることには舌を巻いた。
 メイド服というものを着たときは、「それで地獄の俺の家に住んでほしい」と言われた。でも、これもきっと〝属性のてんこもり〟ってやつだよね?

「ディアンシャもなにか着てよ。わたしがやるから」
「まあ、こんなぼろぼろの体でよければ?」

 こうして遊んでいるときは、彼はあまり痛がる素振りを見せない。でも朝起きるときや眠っているあいだは苦しそうに顔を歪めるので、ただ我慢してくれているだけなんだろう。悪夢は今もまだ見ているようで、たまに夜中に声に気づいて起きてしまうことがあった。怪我をした姿も合わせて、本当に痛ましい。

 そもそも、今彼が着ている服もあちこち破けているので、新しい服を着せてあげたほうがいいかもしれない。天界でしか着られないかもしれないけど……。

 ディアンシャがベッドから立ち上がろうとするので、慌てて止めた。座っていても服は見れるし、怪我のことを考えたらずっと立っているのは辛いだろう。

 わたしが魔法をかけると、彼がもともと着ていたものによく似た、黒い貴族風の衣装に変わった。
 大きな襟の付いたジャケットには、いつかのイギリス王朝の国章になったブローチが飾られている。首は苦しそうなので緩めのブラウスを着せて、腰のベルトはちょっとお洒落に。ダイヤがあしらわれたゴールドのベルトだ。

「悪くねえな」
「ほんと?」
 センスを褒められたようで嬉しい。
 彼はそっと尋ねた。

「翼をさ、天使の翼に変えたりできる?」

 視線を揺らした。

「それは……無理かも……。悪魔の翼は消えないし、それにちょっと、よくないっていうか……」

 これも傷つけちゃうかな。だけど天使の翼は神聖なものだから、そう簡単に魔法でも付けてはあげられない。

「だよな。言ってみただけ」

 彼はわたしに気を使って、明るい声で返事をしてくれる。ほっと肩を撫でおろした。
 今度は着物を着せてみた。グレーの生地に薄い格子模様が入っている。黒い羽織を着せて、腰元にはちゃんと刀まで再現する。

「わー。これはまた、属性てんこもりなやつ」

 ディアンシャは腕を上げて服を確かめている。『武士 服』と検索して出てきた衣装だ。たしかにこれに悪魔の翼はちょっと……合わないかもしれない。

 今度はオフホワイトのタキシードを作ってみた。ポケットには青い薔薇なんて飾ってみて、中のシャツはネイビーに。時計も付けちゃおっかな?
 ディアンシャはにやにや笑って、胸元の薔薇を取りだした。

「いいね。こういうの好き」

 薔薇にそっと口づけをする。それがなんとも様になっていて、まるでどこかの王子様プリンスみたいだ。今度の服は翼や角ともよく似合っていた。
 わたしは腰を下ろす。

「こういうのも……たまになら楽しいかも」
「だろ?」
「人間は凄いねえ」
「暇だよなあ」

 そういう感想になっちゃうの? わたしがむっと眉間にシワを寄せると、彼は目を細めて笑った。

「じゃあ最後にさ、これ着てよ」

 白、ドレス、ミモレ丈、と打ち込んでから、彼はカーソルを回した。数秒して、わたしに画面を見せる。ふんわりと膝丈まで伸びる純白のドレス。透けたレース素材が表面を覆い、あちこちでダイヤモンドが光っている。デコルテを露にして、肩紐が腕まで下がっている。
 ちょっと、天使っぽいかも。
 丁寧に写真を見ながら、多少のアレンジを加えて少しずつドレスの再現をする。間違えているところがないか、先に鏡の前に立って確認してみた。

「うわぁ……!」

 かわいい、かわいい! 火照った頬を包んだ。今まででいちばん似合ってる。いつも着ている天使の服より好きかもしれない。柔らかな天使の翼が大きく羽ばたき、レースのドレスがふんわりと揺れた。

「ねえ、見て!」
 振り向くと、ドレスと一緒に翼が回り、辺りに甘い香りを漂わせた。
 膝を立てて座っていたディアンシャがこちらを向く。「あー……」彼は口元に指を添え、横に視線をずらした。「やばい」

 やばい?
 彼は腰を上げて腕を掴んだ。ベッドに座らされる。

「後ろ向いて」
「え?」
「髪いじってやる」
「ん、うん」

 彼に指定されたスタイリング用具をぽんぽんと出していく。ディアンシャは迷いのない動作で髪を巻いたり結んだり、ピンを付けて整えたり。最後にわたしの作った髪飾りを頭に指して、肩を動かされた。鏡に映った自分を見る。

「わあ……。かわいい……」

 耳の脇は編み込みが入って、緩やかなウェーブのかかった髪が背中に伸びている。前髪や脇の髪もきちんとコテで巻かれて、くるんと丸まったところが愛らしい。まばらに差した白い花が彩りを加え、遊びを持たせたハーフアップはお姫様みたいにも見える。

「えへへ、嬉しい。かわいい」

 後ろに伸びた髪にそっと触れてみる。いつもより髪質が柔らかくて、どこか温かい感じがした。心までぽかぽかする。
 かわいい、嬉しい。わたしみたい。天使みたい。鏡の中の自分は満面に屈託のない笑顔を浮かべて、愛や幸せを零しているみたいだ。もっと幸せな気持ちになった。

 ディアンシャのほうを向くと、彼は円かに目を細めて、穏やかな表情でわたしを見ていた。少し眉を持ちあげ、色っぽく細めた眼がおどけたように言う。

「ハグする?」
「うん!」

 白いタキシードを着たままの彼に抱きついて、そのあと頬を合わせ、リップ音を立てた。体を離して笑いかける。

「ディアンシャ、ありがとう!」

 彼は目を瞬き、わたしの肩を掴んでさらに遠ざけた。

「勘弁しろよ……、ほんと」

 溜息を吐いてそっぽを向いている。

「え、ごめんね? 嫌だった? 天使同士では、お別れのときやお礼を言うときに頬にキスするんだよ?」
「あー、ね。はいはい」
「ディアンシャ?」

 いつまでもこちらを向かない彼に、首を傾げて膝を揺すった。眼が合う。

「俺もお礼したい。頬にキスしていい?」
「お礼? ディアンシャも? まぁ、それならいいかなぁ……」

 密着するわけじゃないし、ただ挨拶に使われるだけの仕草だ。彼は肩を引き寄せて、頬に唇を寄せた。ひやりと僅かに湿った感触にどきりと胸が響く。リップ音じゃなくて、本当にキスしたの!? まぁ、そういう人がいないわけじゃないけれど……。

「首筋にもキスしていい」
「首? どうして?」

 悪魔のあいだでそういう挨拶があるのかな。

「まぁ……首なら……」
「耳は?」
「耳?」

 ワントーン声が落ちる。ディアンシャは変なこと言うな。

「耳にしてどうするの?」
「だめ?」
「まぁ……。耳も別に、いいけど……」
「ありがと」

 彼はもう一度頬に口づけて、つぅ、とそのまま肌に沿って滑らせた。冷たい温度が首筋に回る。スタンプのようにデコルテにキスを何度も落としていく。ちゅ、と甘い音がするたびに翼が震えた。片側の首を鉤爪の生えた指が抑えて、少し傾けられる。また頬のほうまで唇を沿わせた。ぞわぞわする。擽ったい。
 耳にキスをすると、そのまま耳朶を柔く食んだ。

「かわいい。ほんとにかわいい」

 囁き声が甘い吐息と一緒に鼓膜を擽る。柔らかい羽根が心臓を撫でるように、甘美な疼きで全身が粟立った。うう、照れるよ。そんな言い方しないでよ。そのあと、冷たい舌が焦らすように耳を舐めあげた。

「ひゃ、あ……」

 耳の裏側にキスを落とす。ちろりと啄くように唇が何度か皮膚を擽って、ザラつきのある舌が柔らかく舐めた。

「ぁ……でぃ、でぃあん、ひゃ」
「そんな声出すなよ」

 冷たい低音が耳打ちをする。右の首を触っていた指が口に入った。親指の鉤爪がわたしの舌を啄き、顎の裏側や頬の裏を撫で滑っていく。

「ん。は、やん……。ぁ……ねぇ……」
「セラエル、ありがとうな」

 和やかな言い方に体が蕩けそうになる。彼はもう一度頬に優しくキスをして、解放してくれた。
 体が熱い。ドキドキする。何をされたのかよくわからなかった。知らない感情が心に渦巻いている。
 どきまぎしながらキスをされた首筋を摩ってみる。

「今の……なに?」
「お礼」
「悪魔流の?」
「んー……ディアンシャ流」

 てきとうにはぐらかすので、あんまり考えないことにした。彼がお礼と言うならそうなんだろう。たしかに嬉しかったし……いや、嬉しかった? むしろ緊張したような気もするけど……。まぁいっか。
 その日はわたしもディアンシャも、最後に着た服で過ごして遊んだ。

 
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