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 廻廊の前方に、部下と談笑するゼノンの姿がある。ぎくりと身を固くしたパヴェルは、咄嗟に柱の陰に身を隠した。

 ゼノンが、きらきらして見える。

 理由はわからない。
 部下の話に耳を傾けるゼノンは、穏やかに眉を下げて笑っている。上質な紺の上衣と、胸には絹の優美なクラヴァット。いつもと変わらぬ服装のはずだが、ゼノンの存在だけが、パヴェルの目に眩しく映る。

(おかしい。絶対何か裏が……トリックがあるはずだ!)

 訳もなく光って見えるとしたら、それはもう──いやいやそんなバカな、と激しく首を横に振り、浮ついた思いつきを否定する。ちょっと疲れているのかもしれない。
 パヴェルは雲を踏むような、ふわふわした気持ちで仕事に戻った。



 その日の夕刻。パヴェルは確認のサインをもらうため、ゼノンの元に書類を持っていった。
 宰相の私邸を出る際、すれ違った高官から「補佐官殿に渡してくれ」と押し付けられたのだ。自分で行けや、と舌打ちしたくなるのをかろうじて抑えるのは大変だった。誰か褒めて欲しい。

 だるい足取りで執務室へ向かうと退勤時間はとうに過ぎていて、ゼノン以外は誰も残っていなかった。
 書き物をするゼノンは、パヴェルに気づいているのかいないのか、難しそうに眉を寄せたまま机から顔を上げもしない。これ幸いと前髪の隙間からじっとゼノンを観察して、やがて、「あーそっか」と小さく頷いた。
 謎は解けた。パヴェルは満面に天使のような笑みを湛えた。

「……補佐官様。あんた、こめかみのあたり、白髪になってません?」

 暗闇で塗り潰したように艶のない、ゼノンの長い黒髪。マットな質感の中に混ざった、ほんの僅かな白い糸。
 パヴェルの観察眼は微細な違和でもたやすく拾い上げる。ゼノンがきらめいて見えたのはこの白髪が原因だろう。白髪というより銀髪といった方がより適切かもしれないが。
 ゼノンがはっと顔を強張らせ、耳の少し上を手で抑えた。わかりやすく狼狽えている。

「色男がだいなしですねぇ」
「……何やらうるさいが、空耳かな?」
「いででで! いだいいだい、ごめんなじゃい、ゆるじでぐだじいぃ!」

 ゼノンが屈強な手でパヴェルの頭を両側から挟み込む。岩をも穿つような圧力を掌底から感じて、パヴェルは素直に謝罪した。間近から射抜いてくる琥珀色の瞳は、猛禽を思わせる鋭さだ。
 解放される時、さらりとパヴェルの髪を撫でられた気がしたが、頭部への衝撃でびくびくしていたパヴェルにはどうでもよかった。

「いったぁ……補佐官様の手、まじで岩みたいっすね?」

 図体がでかいだけでなく、力まで強い。元騎士であると聞いてから、その腕っぷしには納得しかない。肉体言語に頼りがちなのも騎士だったからなのだろう。こんな屈強さをひけらかす上官、他にいたら免職ものだ。
 パヴェルはお仕置きされた頭をさすって、むすっと眉をよせた。

「そういや白髪って血の巡りが悪くても増えるんすよね。公衆浴場でも行って、のんびりしてくればどうです?」

 ゼノンが激務なのは誰の目にも明らかだ。健康上のアドバイスのつもりでそう言った。そしてそのままくるりと踵を返し、退出しようと扉へ向かう。だが、ゼノンの机脇にある本の山に爪先をぶつけてしまい、それが引き金となって本の山が派手に雪崩を起こした。

「うわっ」

 パヴェルもよろめいて、近くの棚に手をついた。その衝撃で、棚の上の物ががちゃがちゃと音を立てる。一瞬ひやりとしたが、割れた物はないようだった。
 ただ、がパヴェルの手の傍にこぼれていた。近くに乳鉢が置いてある。何かをすり棒で細かく砕き、粉にしたものだろう。
 最初は固形の墨かと思った。匂いが違う。絵画に用いる顔料とも似ているが、それとも違う。だが化粧品特有の匂いがする。
 むかし、色街でも嗅いだ記憶があった。だ。

「あんた……髪、黒く染めてたのか?」
「私としたことが油断した」

 ゼノンの行動は清流のように穏やかで迅速だった。
 音もなく席を立ったかと思えば次の瞬間、パヴェルの背後に覆い被さるように現れ、腕を強く掴まれた。口に詰め物をされ、両腕は後ろ手にされて封じられ、上体は棚に押さえつけられる。続けて背に体重をかけられ、完全に動けなくなった。淀みなく制圧された犯罪者のような体勢だ。

「っ……!?」
「おまえが見つけたものは、誰にも言うな」

 うなじに息がかかり、パヴェルの肌がぞわりと粟立った。

 ゼノン宰相補佐官。元騎士で、宰相を支える俊英。
 本来の髪色は白。理由は不明だが、染め粉で髪を黒く染めている。
 結びつかなくてよいはずの点と点が、パヴェルの中で繋がろうとしていた。

「おまえは何も知らない。見なかったことにすればいい……」

 さらりと流れる黒髪がパヴェルの視界を掠めた。
 月も星もない孤独な夜の帷。その隙間から窺うようにパヴェルを見つめる琥珀色の瞳。不安そうに揺れているゼノンの瞳だけが、彼の心を知る一条の光だった。
 後ろから威圧され、脅されているはずなのに、艶やかにきらめく琥珀色の虹彩に目が吸い込まれそうになる。というより、見惚れていた。

 手の拘束が少しだけ緩んだ。
 パヴェルがもごもごと口を動かせば、顎に手がかかり、口の詰め物を抜いてもらえた。ゼノンが胸に着けているクラヴァットだった。美しい絹の地にはパヴェルの唾液が薄く染みていて、双方に気まずい空気が流れる。

「……『白鷹はくよう』って、あんただったんだ」

 同僚が話していた戦の英雄。三文小説の登場人物みたいな人間が、こんな身近にいたとは。

「黙れ。頼むから黙ってくれ。……おまえが知って得するようなことは、一つもない」

 押し殺したような声で囁かれる。
 隠しきれない哀切な響きを含んだ訴えは、懇願に近かった。
 パヴェルの鼻腔をふわりと、上品な香りがくすぐった。聖堂の香とも貴婦人の香水とも違う、清涼感のある匂い。

「この部屋、お香とか焚いてます? なんか上品な匂いがするけど」
「いや。そんな趣味はない、が……それは、たぶん……」

 その先を言いかけてゼノンはためらい、結局、言うのをやめたようだった。しびれを切らしたパヴェルが続きを問いかけても、頑なに黙りこくる。腕はまだ後ろ手に拘束されており、背中にはゼノンの体温が貼り付いて離れない。
 ただ刻だけが過ぎてゆく。
 パヴェルはだんだん全身が火照りだし、精神的に痒くなってきた。

「……~っ、わかった、わかりました!」

 我慢できずに叫んだ。驚いたゼノンが動揺して、ぱっと手を離す。

「誰にも言わないって約束するから! いくら何でも俺だって人の秘密を言いふらす趣味はありませんよ! それより、その……『おまえ』って呼ぶの、そろそろやめてくれません?」
「は?」
「名前で呼んだらどうですかって話ですよ、俺のこと! じゃあ、お先に失礼しまーすっ!!」

 ゼノンと棚の間から器用に体を滑らせると、パヴェルは振り返りもせずに部屋を飛び出した。しゅたたたた、と軽快な足音が廻廊に響く。
 残されたゼノンはしばらく突っ立っていたが、ぎくしゃくと動いて机に戻り、魂が抜けたようにどかりと腰を下ろした。

「……おまえも人のこと言えないだろうが」

 ぼそりと呟くゼノンの声は、パヴェルまで届くはずもなかった。
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