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しおりを挟む「ずいぶんと貧相な男ですが、こいつは本当にオメガですか?」
「んだとぉ~っ!?」
ぶち切れながら、パヴェルは決意した。
目の前にいる傲慢そうな男を伴侶になど絶対するもんか、と。
「おまえみてーなクソ偉そうなアルファ様は、こっちから願い下げじゃああ~!」
「私も品性下劣なオメガとは暮らせない。同じ空間で息をするのも苦しくなる。では失礼」
「ぬんあぁぁぁ~っ!?」
怒れるパヴェルを涼しい顔で一瞥すると、相手の男は速やかに去っていった。
年は二十九。背が高く、身なりも上品。おまけに顔立ちにも恵まれた男は、宰相補佐官を務める俊才だという。
色街育ちで根っからの庶民が染みついたパヴェルとの共通項はほとんどない。
「俺はアルファになんか頼らねえ! 神託? そんなもん、お呼びじゃねーんだよ!」
隣で師匠が大げさなため息をついていた。
いやいや泣きたいのはこっちなんですけど、とパヴェルは師匠を恨めしげに睨む。
『悪いようにはしないから、黙って一緒に来ておくれ』
師匠があまりにも頼み込むのでおとなしくついてきたが、やってきたのは王宮に建てられた地母神を祀る聖堂だった。王宮の中でも特に神聖な場所に出入りを許されているのは、師匠が宮廷絵師を務めているからだ。
清らかな空気、静謐な空間。
パヴェルにとっても、地母神の聖堂は特別な場所だった。
くしゃみの出そうなお香の匂いに混ざって、すんすんと鼻を動かしたくなる良い匂いがふわりと薫ったが、それが何なのか確かめたいとは思わなかった。
パヴェルとパートナー候補との邂逅は、一瞬にして終わった。
聖堂の入口には、師匠が描いた地母神の壁画がある。パヴェルはそこで足を止めた。
慈悲深き、母なる神が祝福する世界。
地に咲く花々、人々の腹を満たす麦の穂。空をゆく鳥、日々を刻む太陽と月。
そこには、絶え間ない生命の営みと、めぐる命を感じさせる、絵巻物のような荘厳な壁画が展開している。
「……俺だって、こんな絵が描きたいんだ。なあ、頼むよ地母神様」
掠れた声を受け止めるものは誰もいない。
いくら慈しみ深い地母神様の神託だろうと、あんな性格の悪そうなアルファと番うのは絶対にごめんだ。国を護る神様だからって、パヴェルの人生を勝手に決めないでほしい。
呼び止める師匠を無視して、パヴェルは聖堂に背を向けた。
人間はみな、第二の性(ダイナミクス)を備えている。
男女の性とはまた別の形で顕れる第二性は、アルファ、オメガ、ベータの三つに分かれる。ほとんどの人間はベータとして一生を送るが、ほんの一握り、アルファとオメガの性を持つ者が生まれてくる。
アルファとは覇者の性。屈強な体に聡明な頭脳を持つ彼らは、その優秀さから国の要となる人材に育つ。
一方、オメガは産む性。芸術や医術などの繊細な分野で能力を発揮する彼らは、男であっても子を孕むことができる。アルファを伴侶とすることで、オメガは次世代のアルファまたはオメガを産む。
神に選ばれ、国に利益をもたらす存在。それがアルファでありオメガなのだ。
しかし両者には「発情」という厄介な特性があった。
オメガは成人すると三月に一度、発情期が訪れる。その間、約一週間は野の獣のように相手を求め、フェロモンで誘惑し、種を孕もうとする。
同じようにアルファもまた、オメガに当てられて発情し、性欲に支配される。
太古の昔には、我を失ったアルファたちが一人のオメガをめぐり殺し合う、なんて事件も頻発していたらしい。オメガの奪い合いが発生するたび、アルファもオメガも命を落としていた。
国は優秀な人材が失われることを憂えた。
その嘆きに応えたのが、この地を守護する地母神だ。
希少なアルファとオメガを保護するため、国は地母神と契約を結んだ。名もなき女神を国の護り神に祀りあげ、キャマハド──古いことばで「よき友」という名を彼女に送り、年に数度、お告げをもらうことにした。
それがこの国の「パートナー制度」の始まりだ。
神託で引き合わせられたアルファとオメガは、伴侶となり番うことを『推奨』されている。従わねば罰する、という横暴な制度ではないらしいが、驚くことに神託を告げられた者たちは、今までひとつの例外もなく、伴侶として結びついたと聞いている。
100%の精度を誇る神託など都市伝説だろうと普通は思う。
では、なぜお告げは成就するのか?
まことしやかに囁かれるのは、ただ一つの理由だけ。
慈悲深き地母神は、悩める民にこそ、その御手を差し伸べるのだ、と。
「パヴェル。もうおまえに仕事は回せない」
聖堂を出たあと、師匠に呼び出されたパヴェルは、正式に破門された。
「おまえがあのアルファ様と仲良くなってくれたら、わたしも安心できたんだがなあ」
「そりゃないですよ、師匠! 俺は、まあ、オメガですけど……アルファとくっ付ければいいやとか思わないでください。ぶっちゃけ傷つきます!」
パヴェルは誰よりも絵がうまい自負があった。しかし絵の師匠は首を振った。
見たままを描くだけでは不十分である、と。
「おまえの線は正直すぎる。素人が写実的な絵を描くのはいい。うまいとおだてられて、いい気分になればいい。それは罪ではない。だがな、わたしらの使命は至高の美を表現すること。目に映るままを描くだけでは絵師にはなれない。それは王侯貴族を顧客に持つ宮廷絵師として……仇となる」
パヴェルの筆は実直すぎた。放っておくと、モデルの首にできた小さなイボまで丁寧に描き込んでしまう。絵師として成り上がる精神があるならば、シミやシワは完全に無視して、臈たけた美人画に仕上げねばならない。盛って盛って盛り尽くすのだ。
しかしパヴェルは、注文と現実の折り合いを付けるのが致命的に苦手だった。
口では調子のいい言葉を吐けても、絵筆で嘘はつけなかった。
「掛け合ってはみたんだが……」
「俺、許してもらえなかったんすね」
師匠は言葉をぼかしたが、やがて小さく頷いた。
鋭い観察眼は時として人の本質を白日の下に晒してしまう。現実をそのまま絵に落とし込めばモデルの心を傷つける場合があるのだと、パヴェルは師匠に叱られて初めて思い至った。
肖像画を描かれる経験など庶民には一生縁がない。だから、描かれる側の気持ちなど想像しようとも思わなかった。
パヴェルがやらかした相手は、先代公爵夫人。現国王の大伯母にあたるお方である。
パヴェルは下塗りの段階で、彼女のシミの濃淡まで忠実に表現してみせた。そこまでなら何とかなった。仕上げの工程を、師匠が別の弟子に任せれば済んだ話だ。
ところが、肖像画の途中経過を目撃した公爵家の使用人が、給仕の際、ぽろりと話題に出してしまった。
『あの若い弟子は、お館様のお顔をどうされるつもりなのか』と。
意図したつもりはないらしいが、ほとんど告げ口である。
自分がどのように描かれたのか知った夫人は激怒し、パヴェルを破門するよう、師匠に圧力をかけた。
優しい師でも、こればかりは庇い立てできない。
雅を尊ぶ先代公爵夫人は、パヴェルの師匠を宮廷絵師に引き上げてくれた恩人だ。パヴェルのように市井から弟子入りした絵師には後ろ盾となる存在もおらず、いともたやすく首を飛ばせる。
師匠の門下に入って十年。着の身着のまま追い出されることはなかった。次の仕事を見つけなさいと言われて、退職金と紹介状も与えてもらった。
師匠は次の仕事が決まるまで工房に住み続けてよいと言ってくれたが、温情をかけられても今は惨めさが募るだけだ。どうせ出ていく現実は変わらないのだからとパヴェルは断った。
行く当てはない。懐に手を入れ、退職金の重みを確かめる。
とりあえず、飯と寝床と強い酒が欲しかった。
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