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告白
しおりを挟む西の支流を目指し、藍鹿と菁野は蓮花村を後にした。
川辺の草に初秋の午前の透きとおるような陽光が降り注ぐ。悪路を覚悟して出発したが、運河に繋がる西の街道には被害らしい被害は見当たらない。道と並行して流れる小川はやや増水し濁っているものの、流れはゆるやかだった。
二人とも酷い格好だ。
着物はもちろん泥だらけ。帯には枯れ草や小石が挟まっているし、顔や髪にも土がこびりついている。顔を洗いたくとも清らかな水がないので、生乾きの衣の袖でごしごしと拭うのがやっとの有様だ。
藍鹿の足どりは重かった。後ろ髪を引かれる理由は柳玄の遺骨だ。出立の直前まで藍鹿はどうにか柳玄の骨を見つけたいと望んでいたが、捜索が叶う足場ではなく、苦悩の末に断念した。
「……ねえ、そろそろ休憩しようか?」
菁野が心配そうに声をかけるが、ふるふると首を振った。出発してそれほど経っていない。
「すみません。わかってはいるんですが……思い切れなくて」
のろのろ歩きに付き合わせている負い目もあり、口を開くのも遠慮がちになる。藍鹿は明るい表情を取り繕うが、声が掠れて、うまくしゃべれなかった。
菁野は頭の後ろで両手を組み、記憶を浚うようにつぶやいた。
「……彼、消える前に満足そうにきみを見てたよね。恨みに囚われて変わり果てた姿になる幽鬼もいるけど、彼の魂は澄んでいた。藍鹿のことを待っていたんだと思う。力尽きて消滅したんじゃなくて、行くべきところに旅立てたはずだ」
それに死者にも生者の思いは伝わるものだよ、と菁野は穏やかに続ける。
「遺骨がなくても、彼の形見の鹿がある。気持ちをこめて線香を灯せば喜んでくれるよ」
少しの沈黙を挟み、藍鹿は突然激しくしゃくりあげた。
「私っ、私は……後悔してる……。もっと、早く旅に出てれば……、便りがないのをもっと重く受け止めれば……どこからやり直したら柳玄を救えたのかって……」
「後悔するのはきみだけの特権だ。でも自分を責めてはいけないよ。だって、きみの手は彼に届いたんだから」
肩に手をかけ、藍鹿の頭を抱き寄せる。
「きみは亡き友の魂を救ったんだ」
このうえなく優しい声で言われて、素直に菁野の胸を借りる。
目のまわりに淡く残る涙の痕にまた新しい涙が滲んだ。
「……わからないんです」
藍鹿は弱々しく言い、鼻を啜った。乱れた鬢が頬にかかる。
「柳玄が泥棒に加担したこと……彼が大罪人だとは、信じたくなくて」
「本人にしかわからない事情もあるさ。友だから、藍鹿が大切だから……何も伝えなかったんじゃないかな。外から完璧に見えたとしても、人の心の内側は魔境のようなもの。複雑な綾模様には死んだからといって容易に踏み込めるものじゃない」
「……そう、ですね。わかったつもりでいたのは私の傲慢です」
柳玄とはいろいろな話をした。一時期は身を寄せ合うようにボロい家屋を借り、生活を共にした。藍鹿は友のすべてを知った気になっていたが――そういえば互いに家族の話はしなかった気がする。藍鹿には藍鹿の事情があったし、それは柳玄も同じだったろう。
大きな寂寥感が胸を塞ぎ、藍鹿は目を閉じて何度か深呼吸した。菁野は急かさず、さりげなく話の続きを待っている。藍鹿は、袖の中にしまった木彫りの鹿にそっと握った。
「私は……彼の優しさや笑顔を覚えていたい。池で柳玄が私に伝えてくれたのは……恨み言じゃなくて、彼の真心だったから」
「それでいいと思うよ」
菁野が微笑んだ。
旅の終わりが近づいている。
藍鹿は言いようのない切なさを感じた。
こんもりと茂った雑木林の近くで休憩をとった。
路傍の岩に腰を下ろして靴を脱ぎ、逆さまに振る。泥水を吸った靴はなかなか乾かず、細かな砂が足指の間に入り込んで不快だ。靴を陽の光に晒しながら、藍鹿は紅葉しはじめたばかりの木々を眺めた。
「……あの村の人たちは、これからどうなるんでしょう」
「前途は暗雲だろうな。彼らは蠱毒に蝕まれて長い。これからの人生、その代価を払う日々が待っている。村は暴力や諍いが絶えなくなるし、収穫もままならない。不当に得てきた利益の数だけ失うものがある。ある意味、檻の中の囚人より酷かもね」
「そうですか……そうじゃなくちゃ……」
憎しみが細かな砂のように降り積もっては崩れていく。村の再建にどうにか光明を見出そうと動き続ける黒児や老三、生き残った人々を励まそうと袖をまくる金夫人を素直に応援することはできなかった。彼らは生きているが、柳玄は死んだ。彼らは友の死を勘づいていたのに口を閉ざし、なかったことにしようとした。
「いい気味だなと……早くツケを払えと、罵ってやりたかったんですけど」
許すつもりはないが、藍鹿はどこかでまだ彼らの人間性を信じたいと思っている。人がいいというより、恨み続ける気力がないのだ。菁野は手首の黒い晒し布を撒き直しながら、それでいいんだよと肯定する。
「人を呪うのは藍鹿には合わない。忘れて過ごすくらいでちょうどいいんだ。残った人たちは嫌でも自分の罪に直面する。少しは苦しんでくれなきゃ俺だって納得できないさ」
「青蓮は……あなたが贈った花ですもんね」
あの青い蓮は永遠に失われた。村人の欲望によって歪められた青い蓮花。伴侶に捧げた愛の花を、花蛇王は自らの手で世界から葬った。菁野の目的は果たされたのだ。
藍鹿は菁野の心を推しはかるように、真正面から彼の美しい双眸を見つめた。
「あなたは、いつも私を答えに導こうとしていた。あなたがいなければ、私は何もできませんでした。柳玄の幽鬼にも会えなかった。菁野、あなたには感謝してもしきれません。私たち……ここでもうお別れですか?」
「えっ?」
菁野は目の淵が裂けそうなほど瞠目し、信じられないという表情で硬直した。
「……違うんですか?」
「藍鹿は……俺を捨てていきたいの?」
「捨て……え?」
なぜそうなる。
見つめ合った二人は戸惑いながら「え?」「え?」と考えの読めない短いやりとりを何度か繰り返した。藍鹿は仰々しい咳払いをし、行き違いを解消しようと試みる。
「あなたは目的を果たしましたよね……? ということは、私に付き合う理由はなくなった。それで、その……この辺でお別れするのかな、寂しいなーと思ったんですよ。私には帰る場所がないので、ここで別れたら私はひとりになりますから……」
「えっ、待って。藍鹿は神都に戻るんじゃないの?」
「先のことは何も決めてないんです」
私塾の仕事は非常勤だし、藍鹿は天涯孤独の身だ。
「実母は私が生まれてすぐ死にました。父も商売が成功して数年後には亡くなった。父の後妻と彼女の連れ子――つまり、血のつながらない継母と義妹と三人で暮らしていたんですが……」
父の死後、継母は長男の藍鹿を気遣ってくれたのだが、当時の都には恐ろしい流行り病が猛威を奮っていた。商売は傾き、金策に苦しんだ。
「ある年、私たち三人は揃って病に倒れました」
薬が買えないから耐えてくれと頭を下げる継母が、裏でこっそりと義妹に薬を融通していたのを知った。腹を痛めて産んだ我が子のほうが可愛い、生き延びてほしいのだといって、藍鹿を切り捨てたのだ。家族と思っていたのは藍鹿だけだった。
本心を知ってしまえば諦めもつく。藍鹿は都合のいい選択肢に飛びついた。
「継母や妹のためだと口では勇ましいことを言って家を出ましたが、陽物を切り落として宮殿に奉職を求めたのは……逃げただけなんです。誰にも愛されない家庭から、嘘の家族から、逃げたかった」
家から逃げたいが故に男の証を切って捨てた。情けない動機でも宮中で出世できたら胸を張って生きられた。だが運命のいたずらか、前世の業か。藍鹿は追放され、今は荒涼とした川縁をのたのたと歩いている。
「後日、知り合いから聞きました。『長男が身を売ったせいで恥ずかしい。責められるのは残された私たちだ。金ができたら真っ先に転居する』……と、継母が愚痴っていたそうです。私は救ったつもりでいました。感謝されると思ったのに、私の選択は二人を追い詰めた」
藍鹿の奉職が決まってまもなく、母と妹は流行り病で急逝した。和解のしようがない。……損なわれたものは二度と元に戻らないのだ。蓮主に共感はしたくないが、彼女の痛みは藍鹿にも少し理解できる気がする。
「そんなわけですから、神都に戻ったところで、私には帰る場所がないんです。柳玄もいなくなった今、私が消えて悲しむ人もいない。たとえるなら……ちぎれた草と同じですね。水に流されて果てるのを待つだけの身だ」
ぎこちない笑みで話を締めくくったが、藍鹿は菁野の顔を見れなかった。
「だったら」
菁野が短く切り込んだ。
「だったら俺がきみを拾うよ。俺が拾えば、ちぎれた草でも根を生やせる。一緒にいれば寂しくないし、ご飯も美味しいし、冬も寒くない。悪くないと思わない?」
菁野が勢いよく身を乗り出し、藍鹿の両手をぎゅっと握りしめる。藍鹿はぱちぱちと瞬きをして、おずおずと訊ねた。
「もしかして……私を口説いてるんですか?」
「質問に質問で返さないでよ、そうだよ、口説いてるよ!」
菁野がやけくそのように言い返した。目尻の端がほんのりと紅色に染まっている。
「も、もっと口説いてください、嬉しいから!」
早口で答えた。頭がふわふわして、胸はどんどん高鳴って、対処に困る。まともに菁野を凝視できず、視線がうろうろと彷徨う。そんな様子を菁野は長い睫毛をゆるりと持ち上げ、しげしげと眺めた。落ち着きなく体を揺らす藍鹿を見つめ、くすりと忍び笑いを漏らした。
頬をぷくりと膨らませた藍鹿に睨まれたが、気にしない。整った顔には次第に鮮やかな喜びの色が広がった。
「俺に口説かれるの、嬉しい?」
笑い含みの声で訊かれれば、藍鹿は恥ずかしさを誤魔化すようにコクコクと小刻みに何度も頷いた。菁野はその返事にふわりと頬をゆるめた。そして両手で衣の襟を正すと、藍鹿の前で片膝をつく。
「ど、どうしたんです……?」
「藍鹿。ひとつ、俺の告白も聞いてくれないか?」
戸惑う藍鹿の前に跪き、菁野はいつになく神妙な面持ちでそう告げた。
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