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老三
しおりを挟む「お客人様……早う、村を出てゆきなされ。わたしに言えるのはそれだけですじゃ」
老三は六十過ぎ。村の長老格だ。
右目はもう見えていないらしく、時々目を細めて藍鹿を見上げる。他の村人が警戒を強めて藍鹿と老三の間に入り込むのを片手でいなし、二人だけで話そうといって池に背を向けた。
「長老扱いをされとるが、わたしは命を拾ってここまで生き延びただけ。元は村長の家の下働きをしておりました。あの娘……蓮主とはその頃からの古い知り合いです」
杖を片手にゆっくり歩きだした老人に、藍鹿も歩調を合わせる。
「老三殿、あなたは人足の世話役だったと蓮主様から聞きました。その時のお話を聞きたいのです」
「おお、そうでした。彼らは……言い方は悪いが、金を出して呼び集めた烏合の衆でしたからな、あまり期待はしていなかった。だが真面目な仕事ぶりの者もいて、思った以上に丁寧な良い仕事をしてくだすった。ご休憩には水簾閣を使用してもらいました」
「水簾閣に滞在を? 彼らがどの房を借りたかわかりますか?」
訊きながら、藍鹿は水簾閣の構造を思い出してみた。「日」の形をした邸は真ん中にある垂花門を境に、奥院と前院に分かたれている。奥院は蓮主や侍従、侍衛の住まいがある。前院には厨房や貯蔵庫があり、村人との寄り合いにも使用される、半ば公的な空間だった。
「わたしの記憶では……人足らは十五人の大所帯で、何人かごとに分かれてご滞在いただいた」
「奥の院も使われたのですか?」
「まさか。ご案内したのは南門に近い前院の房です。なにしろ人足は男所帯ですから。酒が入ると中庭で宴会を始める。何度か注意させていただいたが……爺が何を言っても暖簾に腕押しでしたな」
左右の眉尻が困ったように垂れ下がった。老三からは好好爺という印象を受ける。
藍鹿は本題を切り出した。
「人足の中に柳玄という男がいませんでしたか? 熊のような体格の男で、私の朋友です。私は彼を捜してこの村へ来たのですが」
「そうでしたか……。申し訳ないが、名までは把握しておりませぬ。だが、偽名を使われる方も多かったはず。都で厄介事を起こし、ほとぼりが冷めるまで地方に潜伏するなどと豪語する御仁もおったのでな。それに人足は皆様、体格に恵まれておった。だいたいが熊っぽい。あなたの友がいたのか確認できる術はわたしにはござらぬ」
「では彼らの行き先に心当たりは? 蓮花村を出たらどこへ行くとか何をするとか言っていませんでしたか? ……私は三月前、文をもらったのです。友はこの村で働いていて、文には仕事が長引いていると書かれていました」
藍鹿は藁にもすがる思いでまくし立てたが、老三の口は次第に重くなった。
「資材が足りず、予定より滞在が長引いたのは確かですが……彼らは屋根や舟の修繕を見事やり遂げてくださった。それ以上のことは……悪いが、何も知りませぬ」
収穫の少なさに藍鹿は落胆を隠せなかった。少し悩んで、話の向きを変えることにする。
「そういえば村の外で祠堂を見つけました。荒れ果てていましたが、村長一族の祖霊を祀っていた廟だそうですね」
「あんなところまで行ったのかね?」
老三の顔にはありありと驚きが浮かんでいた。藍鹿は何気なさを装って話を続けた。
「酔い覚ましに歩いていて、たまたま見つけたのです。あの祠堂の立て直しは依頼しなかったのですか?」
「あそこは二十年前……村長が亡くなって以来、ずっとあのままですじゃ」
「二十年前!?」
老船頭に聞いた時から、村長が死んだのは去年か一昨年の話題だと思っていた。まさか二十年も昔の出来事だったとは。
「では二十年前からずっと――蓮花村は村長不在でやってきたと?」
「村長が死んだ頃、蓮主はまだ十五、六の小娘でした。蓮主は青蓮が村を導くと告げ、実際に助言に従うと病や獣害が消え、忠実を誓えば収穫が約束された。村は潤っていきました。村人は彼女を崇めた。村長などいらぬ、蓮主さえ居ればよいと意見が一致するのに時間はかからなんだ」
「村長は不要、ですか。では、これからも祠堂は朽ちるに任せるのですか?」
「……手入れなどすれば怒りを買う」
老三は白い口髭を震わせた。老人が恐れているのは蓮主の怒りか。
「ですが、老三殿は桃林の世話もされているのですよね?」
これは菁野から貰った情報だったが、老三は敬服した面持ちで藍鹿を見つめ返した。
「桃林のことまでご存知でしたか……。村の鬼門を守る桃林の管理は、蓮主から直々に頼まれておりますからな。お客人、もう詮索はおやめなさい」
「老三殿、あなたも芳芳を見ましたよね。私は生前の芳芳を知りませんが、彼女だけが奴婢と言われ、履き物すら許されていなかった。小さな村で彼女ひとりだけが……衝撃でした。恐ろしいとすら思いました。あなたは可哀想とは思いませんか? あなた方は手を差し伸べようとはしなかったのですか?」
「……わたしらはそれを受け入れた。受け入れた以上、何を言う資格もありますまい」
老三の横顔には苦悩が見えたが、口調には強い決意が窺えた。藍鹿も責めるつもりはなかったので、それ以上の追求はやめる。
「東の丘には幽鬼が出ると聞きました。村長一族の亡霊だと思いますか?」
「どうでしょうなぁ」
老人は目を細めて遠い空を見上げる。青空に浮かんだ大きな雲が太陽を遮っていた。
「村の東には誰も行きたがりません。村長の幽鬼が出たとしても喜ぶ者はおりませぬ。芳芳の死で一族は死に絶えました。あちらにも言い分があるだろうが、死して後の平安すら許せぬほどに蓮主の恨みは深い」
そこまで一息に話すと、ふっと視線を地面に落とした。
「二十年前、わたしたちの村は変わるべきでした。そして実際、大きく変わった。けれど、そうした大きな力は人を狂わせてしまう……」
「大きな力……?」
つかめない柳玄たちの行方。
破壊された村長一族の祠堂。
強い力で村をまとめた蓮主の存在。
謎の多さに翻弄されて、思考がまとまらない。
きっと老三はもっと知っている。だが、そのすべてを藍鹿は引き出せずにいる。焦りともどかしさで息苦しくなってくる。
「村長はいったい何をしたのです? 祖廟を壊されるほどの悪事を成したのですか?」
「……わたしなりに蓮主には恩義を感じております。これ以上はお話ししかねる。あなたは、一日も早く村から去ってくだされ!」
老三は鬼気迫る表情で藍鹿の肩を揺さぶった。
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