藍より深き幽冥に咲く

温風

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死者

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 朝方にまどろんだ程度の眠りでは到底足りなかった。疲労の色は顔にも体にも濃く残る。
 藍鹿ランルーも本音をいえば戻りたくなどないが、老三ラオサンという人に話を聞きたかったし、蓮主れんしゅに恥をかかせたままなのも懸念が残る。ゆうべ藍鹿が抜け出した東門はすでに閉じられていたので、言い訳を考えながら南門に向かった。

 すでに太陽は天頂にあり、村には採蓮に励む人々の賑わいがある。

(誰か、私に老三殿を紹介してはくれないだろうか……)

 村と邸の境界まで来ると、ちょうど南門のあたりに人だかりができていた。
 おや、と思えば、門前に立つ石蓮子せきれんしと目が合った。石蓮子は蓮主の侍衛を務める若者で、岩の化身のような厳つい巨体の男だ。仏法守護の四天王にたとえるなら増長天が近いか。年齢はまだ二十前後らしいが、棍棒を手に周囲を睨む迫力は立派な武人である。

「待て」

 石蓮子は藍鹿を呼びつけるや否や、怒りを含んだ表情で見下ろした。

「お客人。東のへやでお休みではなかったか? 邸の外で何をしておられた?」
「……酔ったまま、外で眠ったようです」

 我ながら情けなくて涙が出そうな言い訳だ。あながち嘘でもないのだが、そんな言葉を信用できるかと石蓮子の顔に書いてある。

「蓮主が滞在を許したとて勝手にうろつかれては困る。今は特に。……疾く邸に戻られよ」
「人だかりができてますね。何かあったのですか?」
「……水簾閣の門前で、女が死んだ。前の村長の娘だ」


 南門前に仰向けで倒れていたのは前村長の娘、芳芳ファンファン
 年は三十手前頃。亡骸にはむしろが掛けられているが、長さが足りず、ふくらはぎから下がはみ出ていた。足首のあたりなど骨の形が浮き出そうなほど痩せ細り、遺体は履き物がなく、足は傷だらけだ。長患いでもしていたのか、村にいる他の女性と比べて明らかに健康状態が悪そうなのが気になった。
 村の人々はすでに埋葬の算段を話し合っていて、誰が何を分担するかを詰めているところだ。人垣の間から黙って眺めていた藍鹿は、素朴な疑問を口にした。

「あの……、捕吏は呼ばないのですか?」
「役人など来ない。近い役場でも歩いて二時辰よじかんかかる」

 石蓮子が答えた。監視でもするつもりなのか、藍鹿の近くに張りついている。

「ですが、ご遺体の女性には履き物がありません。野盗に遭ったとか獣から逃げてきたとか、何か事件性があるかもしれないでしょう?」
「あれは奴婢だからだ。村の持ち物にすぎん奴に履き物など誰が恵むものか」
「村長の娘さんだった方が奴婢……?」
「もう黙れ。村には村のやり方がある」

 女性の骸を前にした人々は一様に落ち着いており、女性が死んだ事実に納得しているような面持ちだ。彼女は奴婢であり奴婢とは物なのだから手出し無用と突き放されたら引き下がるしかなくなる。だが、二百人にも満たぬ小さな村の中でこの扱いはあまりにも冷酷ではないか。

「でしたらせめて、この方のご家族は呼んでさしあげては」
「……その子に家族はおりませんのじゃ」

 総白髪の老人が杖をつきながら現れた。右目が白濁している。

「水簾閣のお客人とはあなたですな。無事に村を出たいなら余計な詮索はせんことです」
「そなたこそ余計な言いがかりをつけるな」

 威嚇する石蓮子に、老人は悲しげに眉を伏せる。

「老三、そんな野郎に構うんじゃねえ!」

 間に割り込んだのは鼻に大きなほくろのある男だった。

「おれは知ってるぞ! おまえだ、おまえがやったんだろ余所者が!」

 ほくろの男が藍鹿を突き倒した。よろめいた藍鹿は尻餅をついた。腰も尻も衝撃をまともにくらい、声も出ない。男はさらに大声をあげる。

「見てた奴がいるんだよぉ! てめぇがおれの妻子に話しかけてたってな!」
「なっ、待ってください、身に覚えがまったく……わあぁ!?」
「おれの妻と子を奪おうたって、そうはいかねえぞ!」

 太陽を背負って立つほくろ男が、藍鹿めがけて鉈を振り上げる。

「う、うわああ!」
「おい、騒ぎを起こすな」

 石蓮子も止めようと動くが、勢いづいた男の行動は素早い。
 元々足に自信のない藍鹿はろくに走れず転んでしまう。一寸先に鈍く光る鉈が迫った。

「静まりなさい」

 凛と澄んだ声でただ一言。それだけで全員が動きを止めた。
 蓮主だった。彼女は長い絹の裙を風になびかせて現れた。
 門前におちた沈黙を真っ先に打ち破ったのは、興奮冷めやらぬ状態のほくろ男だ。

「蓮主、死者が出たのはそいつのせいだ。野郎、おれの女房や子供に近づきやがった! この村の女子供を惑わせようとしてるんだ!」

 藍鹿を敵視するほくろ男に顔も向けず、蓮主は石蓮子に目配りをする。石蓮子が男から鉈を奪い、両手を拘束した。
 蓮主は筵をかけられた遺体に近づき、告げた。

「青蓮が教えてくれたのだ。そこの者、女の右の踵をご覧。これがその者の天命だ」

 傍にいた村人が足元の部分の筵をめくった。

「あ、これは……蛇に咬まれた痕がありますな」

 蓮主が告げた場所、右足の踵には蛇の牙の痕があったようだ。藍鹿は「ひええ」と情けない声を出したが、周囲は「おお、蓮主様」と尊敬のこもった感嘆に満ちる。

「亡骸は東の塚へ運びなさい。穢れを村の内に留めるな。陽の高いうちに済ませるのだ」

 蓮主が厳しい声で指示を出す。役割分担はすでに出来ていたらしく、遺体は村外へ運ばれていった。

 藍鹿は近くにいた村人に訊ねた。

「こ、この村、毒蛇がいるのですか!?」
「……どこにでもいるだろ。そんなに心配なら水簾閣で毒消しをもらいなよ」

 呆れ顔をした村人は早々に農作業に戻っていった。

 ここでようやく蓮主がほくろ男に話しかけた。

「ところで黒児ヘイアル。おまえ、あたしの客に許しもなく手をあげようとしたね?」
「そ、それは」
「この失態、あんたの妻子から取り立ててもいいんだよ?」

 腕を組んだ蓮主に、男は青ざめて謝罪する。

「す、すまなかった! あいつらには何もしないでくれ!」
「おかしなことを言うね。村人を守るのは蓮主たるあたしの勤めだ。本分をわきまえて、これからも忠節を尽くすと誓うなら引いてやるよ」
「も、もちろんだ! 蓮花村は蓮主あっての村だ!」

 鉈を振り回していた男が、大猫を前にした小鼠のように萎縮しきっている。おまえも埋葬を手伝えと命じられて、すぐに東へ駆けていった。石蓮子も奴らの働きを確認するといって後を追う。
 周囲にいた村人は今やほとんどが採蓮作業に戻ってしまい、後に残ったのは藍鹿と蓮主だけとなった。

 蓮主は藍鹿に向き直ると、がらりと態度を一変させた。

「申し訳なかったわね、藍鹿様。村の男は荒くれが多くていけないわ。ほくろの男……黒児は妻子が他の男と話すだけでも我慢ならず、時には女相手にでも妬くのよ。突然あなたのような美男子が現れたものだから、悋気の虫が騒いだのだろうね。どうか許してやってちょうだい」

 美男子、という言葉をやけに強調した。艶と媚びが衣を着て動いているかのようだ。

「……誤解がとけたのならばよかったです」
「あなたのご事情は秘密にしておりますから安心してくださいな。良からぬことを考えるようなら、あたしにも考えがありますけれど」
「……私に何をお望みですか」
「あぁら、話が早い」

 ぱっと花開くように広がったのは、獲物をいたぶる残虐な笑みだった。

「取引しませんこと? 秘密を守る代わりに、今夜あたしの房に来て脚を揉んでくださらない?」

 もし断ったら、藍鹿が浄い体であるおとこではないと村中に触れ回る。
 舌舐めずりする蛇のように、蓮主は赤い口を開けて甘く囁く。

「あなたって虐めがいありそう」

 藍鹿はぐっと拳をにぎって耐える。最悪だ。最悪だが、まだ帰るわけにはいかない。まだ何もつかんでいないのだから。


 水簾閣に戻る前に、藍鹿は記憶を頼りに村の中を東へ西へ歩きまわった。そして総白髪の人物を見つけると迷わず声をかけた。

「老三殿、少々お話したいのですが」
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