藍より深き幽冥に咲く

温風

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舟旅

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 神都・煌安から大河を下ること五日。水の都、淡州の賑やかな船着場で、藍鹿ランルーは苛立ちを隠せずにいた。
 頑固そうな老船頭は、なかなか首を縦に振ろうとしない。

「ですから、そこをなんとか……」
「ダメだっつってんだろ!」
「あ~もうっ、いったい何がダメなんですか!」

 丁寧に頼もうが船賃に色をつけようが、突っぱねられる。とうとう苛立ちが爆発した。

「私は『蓮花村れんかむら』に行きたいんですよ!」

 藍鹿は三十手前の小柄な青年である。
 瞳がくりっとした杏眼で可愛げのある顔立ちだが、髭の全く生えない、つるつるの卵肌のおかげで、実年齢より若く見られてしまう。
 早い話、あなどられやすいのだ。せめて虎か狼のような体格であればよかったのだが、あいにく凡庸な痩せ型だ。
 絹麻で織られた着衣は色合いこそ上品だったが、繰り返し洗濯したおかげで草臥れており、お世辞にも金持ちの着物には見えない。科挙合格を目指す苦学生と言われたほうがしっくりくる。
 実際生活に余裕はないし、今も貯金を切り崩して旅をしているのだが。
 ただ、清潔感のある凜とした姿勢は少々庶民離れしていた。これは長年の宮仕えで培われたものだ。

 そう、藍鹿は――
 家族を養うために自ら進んで男の性を捨てたが、理不尽な理由で身に覚えのない罪を着せられ、後宮を追放された。市井に放り出されたあとは知人のつてで私塾の助教の職を得て、童子を相手に簡単な教本を手ほどきしながら、つましい暮らしを送ってきた。
 体の事情はなるべく隠して生きていくつもりだ。
 子を成せないことは不孝であり、人ではないとみなされ、差別や嘲笑の的となる。おかげで旅に出るのも一苦労だったし、旅に出てからも振る舞いには気をつけてきた(公衆の浴場を避ける、囲いのある便所を選んで用を足す、など、涙ぐましい努力を重ねている)。

 そうまでして旅に出たのに、道半ばで足止めをくらわねばならないとは。
 藍鹿の焦りなど知るはずもなく、額に深い皺を刻んだ船頭は、なおも首を横に振り続けた。

「ダメっつたらダメだ! あの村は好かん!」
「好き嫌いで仕事を選ばないでくださいよ、悲しいんですけど! 若者に対する嫌がらせか何かですか!?」

 いったい何が不満なのか理由を教えてくれと、船頭に詰め寄った。

「あの村は……村長が死んでからおかしくなっちまった。あんたも関わるな。身の安全が保証できねえようなとこに客を行かせるわけねえだろうが!」
「だったら……なぜ私の朋友ともはその村へ行ったんですか」
「なんだと?」
「私は、友人を捜しているんです」

 そこで初めて老船頭は顔を上げた。太く白い眉がかすかに持ち上がる。
「あんた……それを先に言え」

 藍鹿の友人の名は、柳玄リウシュエン。朗らかに笑う大男で、藍鹿とは正反対の性格だったがふしぎと馬が合った。前職からの腐れ縁の仲であり、まさに莫逆ばくぎゃくの友。そんな友人が音信を経ち、すでに三月みつきが経とうとしている。

「柳玄は、金や女で揉めるようなやつじゃありません。勝手に音信を断つなんてらしくない。最後に届いた文に『蓮花村』という地名が書かれていました。今はそれだけが頼りなんです」

 話しながら徐々に語気が強まっていく。藍鹿は竹の杖を握りしめ、船頭に詰め寄った。
 柳玄は自分の都合で姿を消すような放埒な性格ではないうえに、少々おせっかいな面もあった。大家族で育った気のいい男なのだ。神都を離れた折に、何か面倒ごとにでも巻き込まれたのかもしれない。
 船頭の老人はしかめっ面を崩さず、真っ白な髭を手で撫でつけた。口を開きかけ、かすかなためらいを覗かせたのち、重苦しいため息をひとつ零してから藍鹿に向き直った。

「春の大雨で淡州はどこも川が溢れてな。あの村もそうだった。家屋や舟の修繕に人手が必要だった。周囲のやつらは怖がって近づかねえから、わざわざ都から人を呼んでたよ。あんたの知り合いもそのうちの一人だったんだろう。陰口は嫌いだが、あそこは……不気味な村だ。人捜しとはいえ、長くはいねえほうがいい」

 結局、老船頭が折れる形で舟を漕ぎ出した。

 船着場からは淡州の巨大な湖、養花潭ようかたんの美しい風景を一望できる。
 湖を中心に築かれた広大な水路網は、近隣に点在する天然の河川を繋ぎ合わせて作られた。水路と陸路が渾然一体となった名勝であり、交易と旅の拠点だ。
 橋の上には土地神の祠や竜王廟が設けられ、川をゆく舟や人々を見守っている。

 穏やかな水面を細く裂くように棹を巧みに操り、太鼓橋の下をくぐり抜け、街並みに別れを告げた。

 水辺を渡る風は肌に心地いい。
 半刻も進めば、川の両岸に天高くそびえる奇岩群があらわれた。
 舟の進行方向をぼんやり眺めていた藍鹿だったが、草すら生えぬ岩の峰の頂に、強烈に視線を引き寄せられた。

(人影……あんな高所に?)

 視力は自慢できるほど良くはないが卑下するほど悪くもない。ふしぎな力に導かれるように、遠くからでも人の姿がくっきりと浮かびあがった。
 孤高に佇む人物は男のようだが、体の線が若々しい。せいぜい二十半ばか。藍鹿と年が近そうだ。
 背中でゆるく束ねた長髪が風に揺れ、浮世離れした印象をもたらしている。
 修行中の武人が着るような白い衣に臙脂の羽織、黒い帯。手首にはさらしを巻いて矢袖にしている。青みのある白い肌と切れ長の目が神秘的だ。
 その鋭い瞳が突然、藍鹿を捉えた。
 川と峰、ふたりがいる場所は天と地ほどの距離がある。それでも、確かに矢のような視線が藍鹿の体を貫いている。
 ひやりとした風が舟を揺らした。藍鹿はたまらず膝を抱えて丸くなり、舟底に身を屈めた。

「なんだ急に。船酔いか?」
「いえ、あの……岩山の上に人が」

 藍鹿は一度船頭を振り向き、また顔を戻して岩を指さそうとして絶句した。謎の人物は影も形もない。きょろきょろと周囲を見回す藍鹿に、老船頭は可哀想なものを見るような顔を向けた。

「あんな断崖絶壁、人が登れるもんか。鳥か雲の影と見間違えたんじゃないかい。騙されやすそうな顔してるもんなあ」
「顔は関係ないのでは!?」
「しっかりしろよ。ダチを連れ戻すんだろ?」

 喝を入れられてしまった。
 意外にも面倒見のいい老船頭は別れ際、帰りの舟の算段までつけてくれた。

「いいか。七日後の巳の刻、同じ舟でこの川を通るからな。見かけたら声かけろや」
「はい。友を連れて帰ります、かならず」

 舟を見送り、藍鹿はおかの道をしっかりと踏みしめた。
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