神託にしたがって同居します

温風

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「…………でね、この細字タイプのペン先には、滑りのあるインクが最も相性がいいと思うんだよね。分かるかい、セオ? これはけっして感覚的な話じゃないんだよ」

 机いっぱいにお気に入りの文具を並べ、ガブは至福の笑みを浮かべている。

「僕ら文官は速記体という書体を使うんだけど、このインクを使うと非常に滑らかに書けるわけ。驚いたよ。インクひとつでこれほど書きやすさが変わるんだ。というのも、ペン先をつくった職人が構想したのは……って、セオ、僕の話聞いてる?」
「……うん、半分くらい?」

 ガブは性格がマニアックで、何事も深めたがる質だ。仕事道具のペンやインクへのこだわりは尋常ではない。最近手に入れたという文具類の自慢を長々と聞かされ、俺は気が遠くなっていた。

「あ、そういえばセオ、おめでとう」
「は?」

 話題がどこか分からぬところへ飛んだ。

「エイダン様の騎士団長昇進だよ」
「騎士団長? ……なんの話だ?」
「もしかして……聞いてない?」

 ああ、と素直に頷く。

「本当に?」とガブは眉を寄せて、重ねて訊く。
 でも知らないものは知らないのだ。

「君のパートナーの話だよ? 大出世だよ?」

 ガブの顔が引きつっている。この世に自分の出世をパートナーに話さない人がいるのか。信じがたい、という表情だ。

「出世……エイダンが……?」

 そう言われて思い浮かんだのは、エイダンのあの多忙さだ。昇進の話があったからなのか。
 でも俺は一度だってそんな話、聞いたことがない。
 どういう顔をしたらいいのか分からなくて、うつむいた。

「だ、大出世ってのは言い過ぎかな! エイダン様のことだしなぁ……順当な道とも言えるよね、うん!」

 ガブが自分の発言を訂正しはじめている。
 分隊長から団長へ。近衛騎士のトップだ。立派だと思う。おめでとうと言いたい。だけど、

「……なんも聞いてねえ」

 生活にも大きな変化をもたらすであろう出世というイベント。それについてなにも伝えられていないのって、まるで「人生に干渉するな」と壁をつくられているみたいだ。

「セオ、ちょっと確認するよ。二人は付き合ってるんだよね? つまり、番になる前提で」
「つがい……?」

 番になる前提なんて、俺たちには存在しない。
 すうっと胸が苦しくなって、心が冷えてゆくのが分かった。

「番になんか、なれっこないだろ。だって俺は……」

 ただのベータで、おまけに異国の出だ。
 視線を外しただけで、ガブは俺が何を言おうとしたのか察したらしい。聡い幼馴染は痛ましげに顔を歪める。
 おまえがそんな顔をすることないだろ、と笑おうとしたけど、できなかった。

 あ、具合悪い。

 そう思ったら息が苦しくなって、足元がぐらついた。この感覚は以前にも味わったことがある。
 疎外感ってやつだ。
 手を伸ばそうと、声をかけようと、俺はいないのと同じ。いつもひとりぼっちで宙に浮いているような、今にも風に吹かれて流れていきそうな。さびしい気持ちでいっぱいになる。

 めまいに耐えかねて、咄嗟に肘かけにもたれかかった。
 鼓膜に綿でも詰め込んだように、遠いところからガブの声が聞こえる。

「セオ、君、大丈夫か!? 体の具合が」
「平気。ちょっと熱っぽいだけ」
「熱……って、それマズいんじゃない? 医局へ行こう。知り合いの医官がいる。すぐにでも診てもらうべきだよ!」
「大げさだな。ただの風邪だよ。ほっといてくれ」

 心配そうに伸ばされたガブの手を振り払った。

「悪い、今日は帰るわ」
「セオ……」

 表情を曇らせたガブを目の端で認識しながら家を辞し、ふらりと表通りまで出る。
 エイダンの家には戻りたくない。
 裏切られた気持ちだった。
 だけど、俺を裏切ったのはエイダンだろうか? それとも、地母神の神託?

「……はなから期待してなかったもんな、神託なんて」

 これまで百パーセントの確率でカップルを成立させてきた地母神様も、異国出身の俺のことは読みが外れたんだろう。
 神様に存在をゆるされるのは、アルファかオメガだけ。ベータはお望みじゃないってこった。
 あーあ。どこかで膝を抱えて丸くなりたい……。

 ふらつく体で向かった先は、職場である芸術院だった。






「どうしたんじゃ? 気もそぞろじゃな」
「老師……」

 芸術院の研究室の床にべたりと座り込み、民族楽器の弦を張り替えていた。が、張り替えようとしては間違え、一からやり直してはまた間違えるを繰り返し……結果、作業にちっとも終わりが見えないという駄目すぎる時間を過ごしていた。

「気の乱れは旋律の乱れ。おぬしの鬱屈は他の者にも影響する。今日は弦に触れぬほうが良かろう」
「す、すみません」
「だいたいのう。今日はおまえさん、休みのはずじゃったろうに。きっちり休まんかい」
「そうなんですけど……家にいるのはなんか嫌で……」
「なにかに集中したいのであれば、わしの採譜でもするかね?」

 老師の提案に、一も二もなく頷いた。

「そうさのう……久しぶりに、ダルシマーでも引っ張り出すかの」
「いいですね。老師のダルシマー、大好きです」

 俺の言葉に、老師は目元をほころばせた。老師の瞳は淡い水色をしている。
 老師はオメガだ。
 しかも俺と同じ異国からの移民。
 約半世紀前、戦火を逃れてこの国にやってきたと聞いた。
 アルファの伴侶がいたけど死に別れ、子供も流れてしまった。今はもう発情期は来なくなったという。戦時中の怪我のせいで、ずっと杖をついているが、今も現役で音楽教育に携わっている。
 奏者というより研究職に近いけれど、楽器の腕も素晴らしい。民族楽器の権威のようなお方だ。

 ダルシマーは、遊戯盤のような台に張られた弦を、大小のハンマーで叩いて奏でる。
 老師が生み出す妙なる調べは、頭と心を落ち着かせ、内省を促した。知らず知らずのうちに、ペンを握った俺の手がだらりと下がる。もはや採譜そっちのけで聴き入っていた。

「わしの甘美な音色を前に悩み事か。贅沢なやつじゃ」
「す、すみません!」
「原因はパートナーかの?」

 老師が片眉を持ち上げる。

「いいえ……問題は俺、かな。俺の存在っていうか」
「セオ。おぬし、自分の来し方のせいで及び腰になっているのではないか?」
「……それも、あります」

 老師は深々とため息をついた。小さい子供を叱るように、白く太い眉を寄せる。

「この爺は数十年前からこの国にどっしり腰を下ろしておるんじゃがのー」
「あの、移民だから障壁があるって言いたいんじゃありません。老師にまで肩身の狭い思いをさせようとか、そういうつもりは……」

 やたら早口になって手を振った。が、なにを言っても、じとっとした視線を注がれる。
 結局、言葉を並べ立てるのは自分の気持ちを見つめるのが怖いからだ。とうとう俺は観念し、額に手を当てた。
 熱が少し上がってきたようだ。

「だって……番えもしないのに……ベータがアルファのパートナーになる意味なんて、ないでしょう?」

 誰にも言うつもりはなかった。
 自分で「番えもしない」と言葉に出した途端、じわりと景色が歪む。喉が狭まり、声がつまって、胸が苦しくなる。
 惨めになると分かっているから、気軽に口に出せる問いじゃない。けれど、行き場がない想いは抜けない棘のように、ちくちくと、いつまでも心を責め苛んだ。

 世界はダイナミクスで答えを出す。
 俺がどんなにエイダンを好きで、エイダンと一緒にいたいと望んでも――エイダンにとっても世界にとっても、それは望ましい関係ではない。

「ベータがいくらアルファを想ったって……なにも実らない。こんな気持ちに、意味はないんです……」

 エイダンはきっと優秀な子孫を残すだろう。
 そんなこと誰も言わないが、言われないからこそ、誰よりも俺自身が分かってしまう。

 俺は本当の意味でエイダンのパートナーにはなれない。

「俺が……ベータでなければっ……」
「そうか。それがおまえさんの」

 頬を熱いものが流れる。顔を見られたくなくて目を伏せた。
 老師は杖をつき、寄り添うように傍にきて、俺の背を撫でる。老師の手は細くて小さい。でも優しいだけではない、力強い手だった。

「アルファとオメガは……運命だなんだと特別な扱われ方をすることはあるがな。わしはベータの、性に振り回されぬあり方を羨ましく思っておるよ。昔、西の地方ではオメガは狩られることがあったからのう」
「狩られる……?」
「男型女型にかかわらず、オメガは優秀な子を孕む。強い国への献上品にと捧げられることもあったんじゃ。もっとド田舎に行けば、縁起物として人柱になったりとかの。人間扱いされぬ歴史のほうが長かった。……ろくなもんじゃないわい、尻は濡れるしのう」

 最後のおどけた言い方に、不謹慎ながらもブホッと噴き出してしまった。

「昔話はこれくらいにしよう。わしが思うに、おまえさんはもっとパートナーに胸の内を語るべきじゃぞ。一度でうまく行かなければ、もう一度。二度でも三度でも。どちらかが歩みよれば、もう片方も影響される。わしらが奏でる楽器の、共鳴弦のようにの」
「共鳴……ですか」

 共鳴弦とは、奏者が撥や弓で触れなくても、弾いているかのように震える弦のこと。それらはやがて深みのある、ひとつのハーモニーをつくる。

「人と人との共鳴は、ベータ同士でもオメガ同士でも起こりうることよ。そうでなくては社会は成り立たんじゃろ。おまえさんは、おまえさんの苦しさをパートナーにぶつければよい。悩みも弱さも、分かち合ってこそのパートナーよ」
「ろ、老師……」

 ゆらりと目の前が霞んだ。
 体から力が抜けてゆく。

 エイダンに会ったら、なにから話そう――俺は、エイダンと話がしたい。

「老師……あの」
「いやー、わし、名言残してしもうたのう。作家になる道もあったかもしれん。のう、セオや、そう思わんかね?」

 老師が髭を手櫛でとかしながら笑っている。俺も笑おうとしたけど、見慣れた教室の風景が急激に反転した。

 ――え、なんで? これ、どうなってんの?

 老師の杖がカツンと高い音を立てて床に落ちる。
 そこで俺の意識はぶつりと途切れた。


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