もう子犬と呼ばないで

温風

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 衝撃の文箱を発見してから数日後。
 ハウは『ある計画』を実行するべく、パン職人ユールの家を訪れた。

「なあ、ハウ……考え直さないか?」

 ユールはハウの友人だ。がっしりとした体つきだが、気は優しくて力持ち。毎朝暗いうちから起き出して、親父さんと一緒にたくさんのパンを焼く。
 頭に生えた大きな二本の角は、鹿族の成人の証だ。

「悪いことは言わない、スヴェル様とちゃんと話し合った方がいいって」

 いつも穏やかに微笑んでいるユールだが、今は太い眉をへなへなと下げて途方に暮れた顔をしている。

「現実的じゃないよ、家出なんて」
「家出じゃなーいっ! 出奔と言ってくれ!」

 ハウが猛然と反論すれば、ユールは気圧されて仰け反った。
 そう、『ある計画』とは、神殿からの出奔だ。

 ハウは仕切り直すように軽く咳払いして、荷物から一枚の薄布を取り出した。心から欲しくて求めた品ではないが、使うとしたら今このときを置いて他にはない。

「しばらく変装しようと思うんだ。衝動買いした羽衣があるんだけど、ユール、これどう思う?」
「羽衣? 準備いいな……あ、でも女物だぞ」
「そう、そこなんだよ! 女装することで、スヴェル様の目を掻い潜れると思うんだ。私は元々小柄だし、何とかなるはず!」
「何とかはならねえだろ、純粋に無理だろ」

 ユールは即座に却下した。友人が何を言っているのか理解したくない、という態度だった。「もっと真面目に考えてよ!」とヘソを曲げるハウに、呆れたような視線を向けた。
 ハウの目元は少し浮腫んでいる。
 泣いたり笑ったり、張りきったり落ち込んだり。今日のハウは落ち着きがない。

「だって……」
「神殿を出ようなんて、いったい何があったんだ?」

 ユールは膝を折り、目線の位置を合わせて話すよう促した。ハウはふたりの話を盗み聞きしたことを打ち明けた。気づいてしまった自身の恋心や、美しい蝶に抱いた嫉妬も、何もかも。

「あのひとのこと、優しい声で『フィン』って呼ぶんだ。それを聞いてしまったら、どんな鈍いやつでも気づく。私があの方にとって何なのか」

 言ってしまってから、ぐすぐすと鼻を鳴らした。

「スヴェル様にとって私は『哀れな子犬』なんだ。そんなやつが恋だの愛だの……不敬にもほどがある。けど、自分の気持ちを押し込めて黙ったまま暮らすのもつらい……今が潮時なんだ。この気持ちが露見してしまう前に、私は姿を消したい!」

 大粒の涙が視界を揺らした。
 ハウが泣きつけるのはユールしかいない。ユールだけは、種族が違おうとも力の差があろうとも、ハウを下に見たりしなかった。たったひとりの大事な友達だ。

「泣くなよ。スヴェル様は優しいお方だ。おまえが惚れるのは自然な成り行きだと思う」

 背中をぽんぽんと叩かれた。
 天狼が慈悲で神殿に迎え入れたポメ族の子ども。恋愛対象になるどころか、一人前の男として見てもらえない。
 だからハウは神殿暮らしを終わりにしようと思った。交流はないが、産みの親の元へ身を寄せれば僅かでも生活の活計にありつけるかもしれない。

「しかし、お相手があのフィン様とは……」
「何か知ってるの?」

 顎を指で挟むように支えながら、ユールが背を丸めた。眉根を寄せて、ううむと唸る。

「あのひとは蝶族の中でも特別なんだよ」

 中性的な美貌の持ち主で、浮いた話は両手の指では足りぬほど。おまけに次代の蝶族の長候補でもあるという。見目だけでなく中身まで優秀ときては、太刀打ちできる者などそうはいない。
 ユールは腕を組み、天井を見上げた。

「悩んで何もしないより、行動した方がスッキリするかもな。うん、乗りかかった船だ。おれはハウの気が済むまで付き合うよ」
「ありがとう、ユール!」
「というわけで……この花白粉を塗れ」

 ユールは作り付けの棚をごそごそと漁って、丸い軟膏入れを取り出した。繊細なガラス細工の容れ物で、ユールの趣味にしては違和感がある。

「勘違いするな。これはおれの母ちゃんのだ」
「そ、そうか。いや、そうじゃなくて……お化粧までしなくても」

 いいんじゃない? と遠慮しようとしたところで、ユールが「甘い!」と身を乗り出した。

「絶対必要だからな。仕上げに香水も振りかけておけ。おまえの体、スヴェル様の匂いがぷんぷん付いてんだぞ」
「え、そうなの? 全然わからないよ」
「麻痺もするだろうさ。おまえら、あんだけ毎日くっ付いてるんだから」

 ユールは腰に手を当てて、ゆるゆると頭を振った。
 何はともあれ準備をしようと支度に取り掛かる。頬や鼻柱に散るそばかすを隠すため、顔にいい匂いのするクリーム状のものを塗ってもらった。
 化粧の途中、ユールが「うわぁ」と絶句して額に手を当てた。

「想定外にやばいかもしれん」
「どういう意味?」
「女装が似合いすぎる……これじゃ、どこぞのお姫様みたいだ。おれはハウが男だって知ってるけど、この姿でおまえを野に放つのはちょっと危険な気がしてきた」

 ユールが頭を抱えてぶつぶつ言い出した。が、悩んでも無駄と悟ったのか、「おれの友達には意外な才能があるようだ…」などと頷き、遠くを見つめる目をした。
 そんな才能、毛ほども嬉しくない。

「ハウはきれいな顔してるもんなー」
「ふん。いい歳こいて、どうせ童顔ですよ」
「そういうんじゃなくて……ま、いいか」

 ユールの協力を得て慣れない身支度を終え、手と手を取り合い、店を出ようとした矢先──ふっと陽が翳った。天候が急変したらしい。不審に思って空を見上げれば、突風とともに白銀に青混じりの毛並みが目に飛び込んできた。
 そこにいたのは全身に殺気を漲らせたスヴェルだ。
 空から降り立った天狼はこちらを半眼で睥睨し、はなはだ遺憾である、というようにフンと鼻を鳴らす。

「わかるように説明しろ」

 大地が震えるほど低い声で要求した。
 ハウの隣にいたユールが小さく息を呑んだ。

「は、ハウが家出するって言うので、断りきれなくて、その、手伝いをですね……」
「家出じゃありません! これは出奔です!」
「あほかっ! いいから家出っつっとけや!」

 思わずツッコミを入れたユールを、スヴェルがひと睨みして黙らせた。ハウは睨まれるくらい慣れっこだから気まずげに目を逸らしただけだったが、ユールには降って湧いた災難でしかない。ふえぇと喉の奥で喘ぎ、早くも涙目になっている。

「しばらく子犬の様子がおかしいと思っていたが……パン屋の息子。貴様、どういうつもりだ。俺の子犬に何をする?」
「な、何もしてないですよぉ! あ、あの、お願いですから、こいつのこと怒らないでやってください。スヴェルの旦那のことであれこれ思い詰めて暴走しただけで」
「ほう? 子犬の家出は俺のせいだと?」

 スヴェルが逞しい腕を組み、険しい顔をさらに凄ませた。白銀の毛並みがざわりと逆立つ。ハウはその迫力に負けまいと「家出じゃなくて出奔です!」と主張を繰り返す。
 ユールは冷や汗を浮かべながらも、事態の収拾を試みた。

「あぁ~、もう、これ以上は勘弁してください。ここはうちの店先です、呑気なパン屋なんです。天狼様に営業妨害されたとあっちゃ、うちの親父がぶっ倒れちまう。後のことはおふたりで、神殿に帰って話し合ってください!」

 ユールが地面に膝をつき、勢いよく頭を下げた。その拍子に、猛々しい二本の鹿角が根元からばきっと折れる。

「ユール! 角が……っ!」
「生え変わる頃合いなんだよ。気にすんな」

 ユールが頭を下げたまま、優しく言う。
 ハウも、ごめんなさいと震える声で謝罪を告げた。友人に尻拭いをさせた自分は、救いようのない愚か者だ。

「……ご迷惑をおかけしました。神殿へ帰ります」

 スヴェルは旋風とともに獣形に変身し、背にハウを乗せ、四肢で路面を蹴った。白銀の獣が空へ向かって浮上する。

「子犬だからと自由にさせていたのは失敗だったな」

 どことなく不穏な物言いに「穏便に話し合ってくださいよ~!」と、土気色をしたユールが心配そうに地上から叫んだ。





 帰るなり放り込まれたのは、神殿の片隅に立つ石造りの貯蔵塔だ。
 目の前にはスヴェルの分厚い胸筋が鎮座している。背中は石壁に押し付けられ、左右は逞しい腕によって退路を塞がれ、逃げも隠れもできない。気まずくて視線を逸らすと顎を掴まれて、息がかかるほど近くまで顔を寄せられる。
 薄暗い倉庫の中で、ハウは厳しい追求を受けていた。

「もう一度訊く。俺のどこが不満なんだ?」

 目をまっすぐ見つめながら訊ねた。薄い唇の隙間から僅かに犬歯も顔を出す。細く尖った歯に目を遣ると、狼の獲物になった気分がした。

「……スヴェル様に不満などありません」
「だが、女装してまで逃げようとした。子犬のくせに生意気な真似を」

 だしぬけに言葉が途切れた。スヴェルが、不躾と思えるほどの視線をハウの体に注いでいる。何が興味を惹いたものか、しげしげと観察されているらしかった。

「おまえ、ひらひらした服が好きなのか?」
「そういうわけでは……」
「逃げるために用意したか。気に入らん」
「あっ、ちょっ……ぎょぁぁあ~っ!?」

 言葉にならない悲鳴をあげた。無表情のスヴェルが羽衣をびりびりと引きちぎったからだ。
 蝶の翅模様の羽衣は見るも無惨な残骸と成り果てた。下に着ていた麻のシャツも爪で引き裂かれ、襟元のボタンがどこかへ弾け飛んだ。貧相な胸元が露わになる。
 自分の好みで選んだ羽衣ではなかったけれど、服を破かれた衝撃に仰天して体の力が抜けた。へなへなと座り込んでいると、胸元を隠す間もなく、体の上にのしかかられた。スヴェルの行動はじゃれつく大型犬を彷彿とさせるが、唐突すぎてちょっと怖い。

「子犬に翅などいらんだろう」
「あ、あのっ」

 体を退けようとするが、びくともしない。
 腹から下にどっしりと乗り上げられてしまえば、ハウの力ではひっくり返せなかった。諦め悪く上半身だけでもがいていたら、手首を取られて組み敷かれた。
 スヴェルの顔が近づいて、首筋に息が落ちた。

「あっ……」

 触れられたわけでもないのに切なく疼く感覚が肌に走って、びくりと体を震わせる。無性に恥ずかしくなって、ぎゅっと目を瞑った。手首を掴んだ手に力がこもる。
 次の瞬間、首にちくりとした痛みが走った。
 信じられない思いで瞼を開くと、スヴェルがゆっくりと顔を上げる。長い舌で、ぺろりと自身の牙を舐めた。その仕草で、喉元に噛みつかれたのだとわかった。

 スヴェルがまた身を屈めて、首筋に口を近づける。
 ハウは怯えた。手足をばたばたと動かすが、逃してくれなかった。

「い、いやっ……やだ、やめて!」
「子犬には首輪が必要らしい」

 二度目の牙は、一度目よりも深く刺さった。
 鋭い切っ先は皮膚を破る前に離れたが、それで追撃は終わらない。首にぐるりと印を付けるように、がぶがぶと続けて噛まれる。痛みはもう、甘噛みの域を超えていた。
 ハウのまなじりに涙が滲む。

「やだっ……あっ、ぅ……いやぁ……」

 震えるハウの体を押さえつけて牙を剥き、首に痕を刻んでいく。ひとしきり牙を立て終えると、スヴェルは身を起こした。
 思う存分お仕置きをしたのだから満足そうな顔をして許してくれるだろう。そう期待したハウだったが、乱れた髪の隙間から覗いたスヴェルの表情はひどく苦々しげだった。怒っているような、解決できない厄介ごとを抱えているような、悩ましげな面持ちだ。
 こんな顔をさせた原因が自分にあるのだと思うと、ハウは謝らずにはいられなかった。

「お、お許し、ください……」
「何に対する懺悔だ?」

 スヴェルの長い指が、弄ぶように噛み痕をなぞった。くすぐったいような切ないような感覚が込み上げて、びくりと肩が跳ねた。
 スヴェルはきっと、職務を放棄しようとしたハウの無責任さを怒っているのだろう。神殿守りの日々の仕事はいかにも雑用ばかりだが、天狼が心穏やかに過ごせるよう身辺を整えるのが神殿守りの使命だ。
 ここ数日のハウはお世辞にも上出来とは言い難かった。敷石の間から伸びた雑草を引っこ抜くのを忘れたままだったし、ベリーのジャムは煮詰めすぎて焦げついた。出奔することばかり考えていたせいだ。

「職務を投げ出したこと……後悔しています。スヴェル様が怒るのも、もっともです。これからはもっと仕事に励みますから……」

 ハウは許しを請いたかった。
 けれど、それ以上の言葉は紡げなかった。
 真っ向から注がれたのは、底冷えするような眼差しだ。いっそ冷酷と言っていいほどの、凍てついた黄金色の光。恐慌をきたしそうになり、言葉が詰まった。

「……仕事? そうか、仕事か」

 ふっと口の端を微かに持ち上げた。スヴェルの顔に広がったのは微笑みではなく、失望に似た表情だった。

「狼は、懐に入れたものを逃さない」

 スヴェルはそれだけ言うと、また無表情に戻った。
 ハウの上から退いて背を向ける。ひどく乱暴な手つきで扉を閉め、部屋を出ていった。がちゃん、と鈍い音が響いて、鍵をかけられたのだとわかった。
 この部屋は、中から鍵を開けられない。

「おまえの部屋は今日からこの貯蔵塔だ」

 扉の外からスヴェルからの通告が響いた。草木も凍りつきそうな冷酷な声音だ。

「ま、待ってください!」
「悪いが俺にも仕事があるのでな」
「スヴェル様! もう一度、お話を!」

 跳ねるような勢いで扉に飛びつき、拳でどんどんと叩いて訴える。けれど、スヴェルは戻っては来なかった。

 機嫌を損ねたというレベルではない。未だかつて、これほどの怒りを向けられたことはなかった。クビにされなかっただけ、ましというものだ。

(……スヴェル様に嫌われた)

 割れた水差しが脳裏をよぎった。
 主従関係も、あの水差しと同じだ。一度壊れたものは二度と元には戻らない。全身に冷たい水を浴びせかけられたようだった。
 話す機会も与えられず、ただ軟禁されて放っておかれるのは、あまりにもつらい。
 次から次へと真新しい涙があふれて、頭が割れそうに痛くなる。泣きすぎると頭痛を引き起こすらしい。

(わかってる。悪いのは私だ)

 今の状況は軽率に職務を放り投げ、逃げを打とうとした自分の弱さが原因だ。そうとわかっていても涙は涸れず、悲しくてやりきれない。

 近くにいられるだけで十分だと思っていた。それ以上を望むつもりはなかった。けれど、無垢な子犬のままではいられなかった。
 小さかったハウを庇護してくれた恩人。親よりも親らしいことをしてくれた大事なひと。この御恩は生涯をかけて返さなければ、という思いもある。

 たとえ元の関係に戻れなくても。
 それでも、ハウは。

(私は……スヴェル様が好き。好きなんです……)

 想うことはやめられない。
 膝を抱えてうつむくと頬を流れた涙が唇に滲んで、口の中まで沁みていった。涙の味に舌がぴりりと痺れる。

(……しょっぱくて、苦いな)

 心が痛くて苦しくて流す涙なのだから、美味しいはずもない。海の水の方がまだ滋味深く感じるだろう。

 この日からハウは貯蔵塔で時を過ごした。

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