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幼い頃の記憶を拾いあつめて
わたしの夜逃げ
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離婚が成立した後はそれなりに平穏に過ごしていた。私はバイトを始め、勉強もそれなりにやっていた。たまに兄がこちらの家に訪れるようになっていた。どうやら、その後兄は父のところを出て、一人暮らしをしているらしい。側から見ても挙動がおかしく、母は兄を精神病院に連れて行こうとしたが、兄は頑なに行かず、生活保護を利用しながら1人で暮らしていた。
そして、高校3年生になった私は、歳が11個離れている歳上の彼氏ができた。私にとっては2人目の彼氏。でも母には黙っていた。
何故かというと、両親も10個ほど歳が離れており、母は結婚生活が上手くいかなかった理由として歳の差を1つの理由として挙げていたからだ。
私は母に交際を反対されると思ったのだ。私は当たり前かのように母を信頼していなかった。だから言わずに黙っていた。
だが、高校3年生の夏休みもあと1週間ほどで終わってしまう頃。大きな事件が起こってしまった。何度も帰りが遅くなる娘の事を怪しいと思ったのか、母は私の部屋をくまなく漁り、引き出しの奥にしまってあった1枚の写真を見つけたのだ。
私が大事にしまっておいた写真は、私と彼が笑顔で写っているシーパラダイスで撮ってもらった写真だった。
バイト終わり23時頃に帰ってきた私に、母はその写真を見せながら詰め寄った。諦めた私は全て肯定した。付き合っていると。11個歳上だと。
母はヒステリックに叫び始めた。夜中だというのに。「嘘ついていたのね!?」と。そして叫びながらも尋ねてきた。「セックスは?もうしたの!?」と。それに私は肯定した。
ー瞬間。
母は更にヒステリックになり叫び、私の大事な写真を握りつぶし、その辺に投げながら「汚い!!」と私に向かって大声で叫んだ。
そして、床に落ちている服や物を私に投げつけた。殴られた。椅子も投げつけてきた。何度も「汚い!汚れている!」と叫びながら。そして「もうえりかのこと見たくない、お父さんのとこに置いて行けば良かった。」と言った。その時、偶然家にいた兄が間に入ってくれたおかげで、それ以上殴られることは無かった。
後から知ったのだが、キリスト教(カトリック)では結婚する前に男女が交わるのは禁止とされているようであった。私の母は礼拝にこそ忙しくて行っていなかったが信者であり、私も洗礼(信者となる事)を受けていた。だから母は結婚もしていないのにセックスすることを「汚い。」と言ったのだ。
笑っちゃうよね。そんな事をいう母親は学生の時に兄を妊娠したのが分かってから父と結婚したんだから。
あの時の母が私をみる眼は忘れられない。母は自室へ入って鍵を閉めて篭った。私は何度も呼びかけるも、私の話に聞く耳を持たなかった。そのうち、夜中であるにも関わらずピンポーンとチャイムが鳴った。
母は自室で警察を呼んでいたのだ。そして母は勝ち誇ったような顔をして警官に尋ねた。「これは犯罪でしょ?」と。警察はこう返した。「いえ、犯罪にはなりません。」と。母は頭を掻き毟って座り込んだ。私は18歳であったが故に咎められなかった。
私もまた、交際している彼に連絡をいれて、警官を交えて、彼と母の最悪な邂逅となった。その場に居合わせた兄が意外な事に1番冷静でその場を取り持ってくれたが、私はほぼ放心状態だった。母が散々投げて身体に当たったところが痛いはずなのに心の方が痛かった。
その場は兄のおかげで一度おひらきとなったが、翌日からが1番辛かった。私の自室には母の洋服などが置いてあり、顔を合わせる度に毎回暴力を振るったり、私には分からないタガログ語(フィリピンの言語)で小言を言ったり、時には私がいないかのように無視をするのだ。
その時私は食事できていたかどうかさえ覚えていない。母がいない隙を狙ってむさぼり食べていたかもしれない。ずっと布団の中に潜り込んで隠れていたかった。流石に堪えた私は「家を出よう。少し距離をとらなければ駄目だ、しんどい。」と思った。
私は助けを大人に求めた。
家を出たいと思った私が助けを求めた先が、 例のNPO法人のRさん。
私は布団に潜り込んだまま母に聞かれないように小さな声で事情を話した。Rさんが手助けをしてくれるとのことで、日時を合わせた。
私はとりあえずの荷物を詰めて、近くのマクドナルドでRさんと合流した。私は家を出た。まずNPO法人の事務所が敷地内にある、
教会の方が管理している部屋に少し滞在できる事になった。東京タワーがすぐ近くで見れるような都会だった。
彼の家に逃げ込む選択肢も私の中ではあったのだが、Rさんに諭された。「それは得策ではない。」と。更に火種を増やしてしまうかもしれない。まだ冷静さがあった私は教会の方にお世話になった。
それから、法人内のフィリピン人の方が母を説得し、通訳をしてくれながら事務所内で何度も話し合いの場が設けられた。今思うと母子の間に通訳が入るなんて笑える話だ。
話し合いの最中に母が感情的になってくるとサポーターとして通訳してくれている方が間に入り、私には分からないタガログ語で話して母をなだめていた。母もタガログ語を話しながら、時折私を指差す動作が見られ、私は何を言われているのか分からない事が不安だった。
母との話し合いは難航した。気付けば夏休みが終わり、私は教会の部屋から学校へと通った。勿論、定期は無い。自費で払った。
「いつまでも教会の部屋には滞在できない。」と言われ、Rさんより児童相談所に行って話を聞いてもらい、児童養護施設に入るか、高校生でも(保証人がいなくても)入れるライトハウス(DVを受けた人などが逃げ込めるシェルターのような所)で一人暮らしをするかの2択を迫られた。
やはり私は彼と一緒に居たかったのだが、それを口にするとRさんより「母子の関係のことだから。」と説得され私はライトハウスに入る事を選択した。
当時の私は児童養護施設に対してよく知らず、入所すると自由に携帯を使えなくなってしまうのではないか、と思っていた。それに、入所したとしても居れるのは高校卒業までだと思っていたのだ。(大体はそうであるが…)それなら、とライトハウスを選択した。
土日を利用して私は都心部にあるライトハウスへ場所を移した。保証人が不要な分と立地的にも、家賃はそれなりにかかる。月々8万ほど。プラスで水光熱費も自分で支払う。私はライトハウスを出た後にでも返済する事を約束し、入居した。(後に大学生の時に全て支払いを終えた。)
学校へ行くのに随分遠くなり、通うのに必死だったし、何より実家の近くで行っていたバイトが出来なかった。たまに金曜の夜に彼の家で寝泊りし、バイトをして日曜にライトハウスに戻る、という生活を送った。
初めての一人暮らしだが、自分のことは全て自分で出来た。昔から自分のことは自分でしていたので特に苦労はしなかった。洗濯•掃除は勿論、都心部のスーパーは何処もかしこもなにかと物の値段が高かったので食費の事も考えて自炊もした。その時はむしろ1人が心地よかった。
初めて水光熱費をコンビニで支払った時には「生きるのってこんなにお金がかかるんだ。」と感じ、大人になった気がした。この経験は現在の一人暮らしにも役立っている。
気付けば季節は秋になり、冬に差しかかりそうになっていた。夏休みに家を出た時はまさかそんな長丁場になるとは思っていなかったので、冬物を一切持ってきていなかった。NPO法人でバザーの売れ残りで何とか長袖は見繕っていたが、それだけでは凌げなくなっていった。
新しく買う訳にもいかないので、私は何とか勇気を出して母に電話し、冬物を取りに行きたい旨を伝えた。そして指定された日時に私は自分の家に鍵を差し込んだ。が、ドアチェーンが掛けられていて入れなかった。母がそれに気づき、その隙間越しに何かを言ったが私は聞き取れなかった。そのまま一旦ドアが閉まった。
当時住んでいたアパートは構造が面白く、アパートなのだが中に階段があり、二階建ての構造になっている。ドアが閉まってドアチェーンを外してくれるかと思いきや、共用部分に面している2階部分の窓が開いた。
そして、あろうことか母は2階の窓から、共用部分の廊下に向かって私の荷物を投げて落としていったのだ。最初何が行われているのか理解できなかった。
ボトボトと私の物が落ちてくるのを見ながら、私は何とも形容しがたい絶望感を感じた。
持っていくのに距離がある為、必要最低限のみを厳選したかったのに、母はほぼ全ての荷物を落としていったのだ。私には家に入る資格さえ与えられなかった。そして、こうも感じた。”私の帰る場所は無くなった“のだと。何とも形容しがたい感情。母との関係修復の先が見えなくなり、進むであろう道が真っ黒に見えた。
私はとりあえずリュックや袋に無造作に突っ込まれた服たちを駐車場の隅へ運んだ。量がありすぎて2回に分けて往復して運んだ。そして彼に頼み車で来てもらい、彼の家で厳選し、残りは彼宅へ置いておいてくれることになった。
高校卒業間近頃になって、やっと母は話し合いの場で前向きになってきた。私の話を聞いてくれるようになってきた。私は大学に進学したいが、手続きにあたって必要な書類の中に、母の印鑑や署名等が必要なものもあり、それも応じてくれるようになった。
私は進学にあたり、入学金30万円など自分では払えなかったので、免除してもらえるよう、必要な書類と小論文を書き送付した。合格し、免除された時にはホッとした。奨学金の手続きや申請も自分で行った。母は私の進学にあたりお金を1円も出してはくれなかったし、私も頼りたくはなかった。そもそも生活保護受給しているので無理な話だけど。
高校の仲間に夏休みからこれまでの全ての事情を話した時は、皆私の事を応援してくれた。いつもとは逆からくる電車に乗って登校する私の異変に気付いてくれた。北海道の大学に進学した部活の先輩は、じゃがいもを送ってくれたりしてくれた。幸いなことに私は高校時代の友達にとても恵まれていた。
そして、約6ヶ月のライトハウスでの生活を終えて、遂に私は母の元へ戻る時がきた。NPO法人の理事であり、母がよくお世話になってる司祭と共に。母は私の大好きなシニガン(フィリピン料理)を作って、“あの日”のことがまるで嘘だったかのようにドアを開けて歓迎してきた。
そこにRさんの姿はなかった。私は道中司祭に話を聞くと、どうやら母は「えりかをRにとられた。」と思い激昂していたようだ。私が望んで家を出たのに。
私は本当は戻ってきたくなんてなかった。でも、進学の為には我慢せねばならないと自分に言い聞かせて取り繕った。
そして、高校3年生になった私は、歳が11個離れている歳上の彼氏ができた。私にとっては2人目の彼氏。でも母には黙っていた。
何故かというと、両親も10個ほど歳が離れており、母は結婚生活が上手くいかなかった理由として歳の差を1つの理由として挙げていたからだ。
私は母に交際を反対されると思ったのだ。私は当たり前かのように母を信頼していなかった。だから言わずに黙っていた。
だが、高校3年生の夏休みもあと1週間ほどで終わってしまう頃。大きな事件が起こってしまった。何度も帰りが遅くなる娘の事を怪しいと思ったのか、母は私の部屋をくまなく漁り、引き出しの奥にしまってあった1枚の写真を見つけたのだ。
私が大事にしまっておいた写真は、私と彼が笑顔で写っているシーパラダイスで撮ってもらった写真だった。
バイト終わり23時頃に帰ってきた私に、母はその写真を見せながら詰め寄った。諦めた私は全て肯定した。付き合っていると。11個歳上だと。
母はヒステリックに叫び始めた。夜中だというのに。「嘘ついていたのね!?」と。そして叫びながらも尋ねてきた。「セックスは?もうしたの!?」と。それに私は肯定した。
ー瞬間。
母は更にヒステリックになり叫び、私の大事な写真を握りつぶし、その辺に投げながら「汚い!!」と私に向かって大声で叫んだ。
そして、床に落ちている服や物を私に投げつけた。殴られた。椅子も投げつけてきた。何度も「汚い!汚れている!」と叫びながら。そして「もうえりかのこと見たくない、お父さんのとこに置いて行けば良かった。」と言った。その時、偶然家にいた兄が間に入ってくれたおかげで、それ以上殴られることは無かった。
後から知ったのだが、キリスト教(カトリック)では結婚する前に男女が交わるのは禁止とされているようであった。私の母は礼拝にこそ忙しくて行っていなかったが信者であり、私も洗礼(信者となる事)を受けていた。だから母は結婚もしていないのにセックスすることを「汚い。」と言ったのだ。
笑っちゃうよね。そんな事をいう母親は学生の時に兄を妊娠したのが分かってから父と結婚したんだから。
あの時の母が私をみる眼は忘れられない。母は自室へ入って鍵を閉めて篭った。私は何度も呼びかけるも、私の話に聞く耳を持たなかった。そのうち、夜中であるにも関わらずピンポーンとチャイムが鳴った。
母は自室で警察を呼んでいたのだ。そして母は勝ち誇ったような顔をして警官に尋ねた。「これは犯罪でしょ?」と。警察はこう返した。「いえ、犯罪にはなりません。」と。母は頭を掻き毟って座り込んだ。私は18歳であったが故に咎められなかった。
私もまた、交際している彼に連絡をいれて、警官を交えて、彼と母の最悪な邂逅となった。その場に居合わせた兄が意外な事に1番冷静でその場を取り持ってくれたが、私はほぼ放心状態だった。母が散々投げて身体に当たったところが痛いはずなのに心の方が痛かった。
その場は兄のおかげで一度おひらきとなったが、翌日からが1番辛かった。私の自室には母の洋服などが置いてあり、顔を合わせる度に毎回暴力を振るったり、私には分からないタガログ語(フィリピンの言語)で小言を言ったり、時には私がいないかのように無視をするのだ。
その時私は食事できていたかどうかさえ覚えていない。母がいない隙を狙ってむさぼり食べていたかもしれない。ずっと布団の中に潜り込んで隠れていたかった。流石に堪えた私は「家を出よう。少し距離をとらなければ駄目だ、しんどい。」と思った。
私は助けを大人に求めた。
家を出たいと思った私が助けを求めた先が、 例のNPO法人のRさん。
私は布団に潜り込んだまま母に聞かれないように小さな声で事情を話した。Rさんが手助けをしてくれるとのことで、日時を合わせた。
私はとりあえずの荷物を詰めて、近くのマクドナルドでRさんと合流した。私は家を出た。まずNPO法人の事務所が敷地内にある、
教会の方が管理している部屋に少し滞在できる事になった。東京タワーがすぐ近くで見れるような都会だった。
彼の家に逃げ込む選択肢も私の中ではあったのだが、Rさんに諭された。「それは得策ではない。」と。更に火種を増やしてしまうかもしれない。まだ冷静さがあった私は教会の方にお世話になった。
それから、法人内のフィリピン人の方が母を説得し、通訳をしてくれながら事務所内で何度も話し合いの場が設けられた。今思うと母子の間に通訳が入るなんて笑える話だ。
話し合いの最中に母が感情的になってくるとサポーターとして通訳してくれている方が間に入り、私には分からないタガログ語で話して母をなだめていた。母もタガログ語を話しながら、時折私を指差す動作が見られ、私は何を言われているのか分からない事が不安だった。
母との話し合いは難航した。気付けば夏休みが終わり、私は教会の部屋から学校へと通った。勿論、定期は無い。自費で払った。
「いつまでも教会の部屋には滞在できない。」と言われ、Rさんより児童相談所に行って話を聞いてもらい、児童養護施設に入るか、高校生でも(保証人がいなくても)入れるライトハウス(DVを受けた人などが逃げ込めるシェルターのような所)で一人暮らしをするかの2択を迫られた。
やはり私は彼と一緒に居たかったのだが、それを口にするとRさんより「母子の関係のことだから。」と説得され私はライトハウスに入る事を選択した。
当時の私は児童養護施設に対してよく知らず、入所すると自由に携帯を使えなくなってしまうのではないか、と思っていた。それに、入所したとしても居れるのは高校卒業までだと思っていたのだ。(大体はそうであるが…)それなら、とライトハウスを選択した。
土日を利用して私は都心部にあるライトハウスへ場所を移した。保証人が不要な分と立地的にも、家賃はそれなりにかかる。月々8万ほど。プラスで水光熱費も自分で支払う。私はライトハウスを出た後にでも返済する事を約束し、入居した。(後に大学生の時に全て支払いを終えた。)
学校へ行くのに随分遠くなり、通うのに必死だったし、何より実家の近くで行っていたバイトが出来なかった。たまに金曜の夜に彼の家で寝泊りし、バイトをして日曜にライトハウスに戻る、という生活を送った。
初めての一人暮らしだが、自分のことは全て自分で出来た。昔から自分のことは自分でしていたので特に苦労はしなかった。洗濯•掃除は勿論、都心部のスーパーは何処もかしこもなにかと物の値段が高かったので食費の事も考えて自炊もした。その時はむしろ1人が心地よかった。
初めて水光熱費をコンビニで支払った時には「生きるのってこんなにお金がかかるんだ。」と感じ、大人になった気がした。この経験は現在の一人暮らしにも役立っている。
気付けば季節は秋になり、冬に差しかかりそうになっていた。夏休みに家を出た時はまさかそんな長丁場になるとは思っていなかったので、冬物を一切持ってきていなかった。NPO法人でバザーの売れ残りで何とか長袖は見繕っていたが、それだけでは凌げなくなっていった。
新しく買う訳にもいかないので、私は何とか勇気を出して母に電話し、冬物を取りに行きたい旨を伝えた。そして指定された日時に私は自分の家に鍵を差し込んだ。が、ドアチェーンが掛けられていて入れなかった。母がそれに気づき、その隙間越しに何かを言ったが私は聞き取れなかった。そのまま一旦ドアが閉まった。
当時住んでいたアパートは構造が面白く、アパートなのだが中に階段があり、二階建ての構造になっている。ドアが閉まってドアチェーンを外してくれるかと思いきや、共用部分に面している2階部分の窓が開いた。
そして、あろうことか母は2階の窓から、共用部分の廊下に向かって私の荷物を投げて落としていったのだ。最初何が行われているのか理解できなかった。
ボトボトと私の物が落ちてくるのを見ながら、私は何とも形容しがたい絶望感を感じた。
持っていくのに距離がある為、必要最低限のみを厳選したかったのに、母はほぼ全ての荷物を落としていったのだ。私には家に入る資格さえ与えられなかった。そして、こうも感じた。”私の帰る場所は無くなった“のだと。何とも形容しがたい感情。母との関係修復の先が見えなくなり、進むであろう道が真っ黒に見えた。
私はとりあえずリュックや袋に無造作に突っ込まれた服たちを駐車場の隅へ運んだ。量がありすぎて2回に分けて往復して運んだ。そして彼に頼み車で来てもらい、彼の家で厳選し、残りは彼宅へ置いておいてくれることになった。
高校卒業間近頃になって、やっと母は話し合いの場で前向きになってきた。私の話を聞いてくれるようになってきた。私は大学に進学したいが、手続きにあたって必要な書類の中に、母の印鑑や署名等が必要なものもあり、それも応じてくれるようになった。
私は進学にあたり、入学金30万円など自分では払えなかったので、免除してもらえるよう、必要な書類と小論文を書き送付した。合格し、免除された時にはホッとした。奨学金の手続きや申請も自分で行った。母は私の進学にあたりお金を1円も出してはくれなかったし、私も頼りたくはなかった。そもそも生活保護受給しているので無理な話だけど。
高校の仲間に夏休みからこれまでの全ての事情を話した時は、皆私の事を応援してくれた。いつもとは逆からくる電車に乗って登校する私の異変に気付いてくれた。北海道の大学に進学した部活の先輩は、じゃがいもを送ってくれたりしてくれた。幸いなことに私は高校時代の友達にとても恵まれていた。
そして、約6ヶ月のライトハウスでの生活を終えて、遂に私は母の元へ戻る時がきた。NPO法人の理事であり、母がよくお世話になってる司祭と共に。母は私の大好きなシニガン(フィリピン料理)を作って、“あの日”のことがまるで嘘だったかのようにドアを開けて歓迎してきた。
そこにRさんの姿はなかった。私は道中司祭に話を聞くと、どうやら母は「えりかをRにとられた。」と思い激昂していたようだ。私が望んで家を出たのに。
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