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16話・私の誇り
(1)
しおりを挟むルイスの主張が正しいのはわかっていた。全部彼に任せてしまえば良かったのに、全てを委ねて甘えることができない私はつくづく可愛くない女だなと思う。
やっぱり、部屋に戻って謝ろうかな。
何度も廊下で立ち止まっては歩いてを繰り返し、ルイスに謝罪しようか迷い続けるが決心はつかない。私一人でジタバタしたって解決できるわけがないのでいつかは謝らなきゃいけないんだけど、今すぐという気分にもなれなくって予定通り温室へ向かうことにした。オリヴィアさんたちと話したら少しは頭も冷えるかしら。
何かの間違いだったらいいのにと今でも思う。お母様は亡くなっていなくて、ミランダ様は神官の策略にハマって殺してしまったと思っているとか。それとも殺したと勘違いしてるけど本当は生きていてお母様は神官に捕まっているとか。もしくは本当に神官とお母様が結託していてどこかでこっそりと暮らしているとか。
馬鹿馬鹿しい現実逃避だってことは十分承知しているけど、もしかしたらという思いは消せない。
だけど本当はお母様がもう居ないことをなんとなく察している自分もいる。あのお母様が男と逃げるなんて変だと思っていたし、世界一の大国であるドローシアの陛下の力を持ってしても行方がわからなかったのだから。あれだけの権力や人脈、資産を持っていながら手掛かりを掴めないなんておかしかった。
あの陛下の目を掻い潜れるならよほど辺鄙な場所か特殊な場所に違いない。例えば―――
「・・・んなわけないか」
温室へ向かう途中、少し回り道をして遠くから神官庁を眺めた。離れた場所から見ると不思議な造りをしているのがよくわかる。相変わらず人の気配はないし、神官たちは中で一体なにを行っているんだろう。
誰の姿も見えない神官庁から興味が失せたので、再び歩いて温室へと歩き始めた。方向転換をして雪がチラチラ降る屋外へ出てしまったので、神官庁の周りをグルッと回る羽目になり、ガラス張りの廊下を遠目に見つつ先を急ぐ。こんな感じの廊下を必死に走り回ったなと昔を懐かしみながら。
物静かな場所なので私が歩くたびにジャリジャリと砂を踏む足音が妙に響いていた。このまま誰にも出会わずに済みそうだな、と思い始めた頃、ヒラリと靡く紺色のスカートが視界の端に映った。
―――スカート・・・?
ここは神官しか入れないはず。ドローシアの神官は男ばかりで衣装も白いローブで統一されているのに、神官庁の中をスカートを履くような女性が歩いているはずがない。
まさかと思い私は走ってガラスの向こうに見える女性の後を追った。
「待って!待って・・・!」
彼女は歩いているというのに、私が走って追いかけても何故か追い付けない。ガラスの向こう側へ必死に話し掛けても声は聞こえてるはずなのに振り返ろうともしない。
「待ってください!お願い!」
何故追い付けないの、何故こちらを見てくれないの。
私はあの人を知っている。遠くからでも、ほとんど姿が見えなくても、見間違うはずがない。誰よりもその姿を追いかけてきた、大好きだったんだから・・・。
―――良かった!生きてた!生きてたんだわ!
私は視界を滲ませながら必死に彼女を追い続ける。しかし神官庁の廊下はガラス張りで侵入できそうな場所がなく、私はただ外側を走り回ることしかできない。
なんとかして彼女を外に連れ出さなければ。神官庁内はザフセンの独裁体制、この機会を逃したらもう二度と会えないかもしれない。捕まっているのならば助けなければならないし、そうではなくても彼女が現状を知ったら戻ってきてくださるかもしれない。
とにかく、外にお連れしないと!
「待って!お母様!」
とうとう廊下の窓からは見えなくなり、私はどこか中に入れそうな場所を探した。普通の人はここで諦めるかもしれないけれど私は違う、以前に一度中へ入ったことがある。入れる場所を知っている。
腰高の窓がある小部屋はすぐ近くだった。前のように窓の桟に足をかけて、ひとつ大きく深呼吸してから中へ飛び込んだ。
ルイス、ごめんなさい。次に会うときはもう生きていないかもしれないわね。
小部屋から廊下へ飛び出すと、既に遠くへ行ってしまっているだろうと思っていたお母様の後ろ姿を見つけて驚く。ところが喜ぶ前に彼女は角を曲がって再び見えなくなってしまったので私は慌てて後を追いかけた。
先ほどのように姿は見えるのになかなか追い付けない。追い付けると思ったのに気がつくとお母様はずっと先を行っていて、私はまるで導かれるように神官庁の奥へと進んでいく。
たくさん走ったはずなのに神官には一人もすれ違わなかった。息が苦しくてゼエゼエと喉を鳴らしながら扉の中へ飛び込めば、突然陽の光が降り注ぐ屋外へ出たのでびっくりする。いや、屋外とは言っても中庭のような場所だ。暖かな庭の中央に大きな木があって、その下にはお母様が座りこちらを見て微笑んでいる。
「お母様!私、シンシアです!覚えてらっしゃいますよね?」
急いで駆け寄り、彼女の目の前で膝をついた。
「ええ、もちろんですよ」
「お元気そうでよかった・・・!」
本当に本当に本当にお母様だ。私は嬉しくて、まるで子どものようにお母様に抱きつく。温かくて優しい匂いがして、泣きそうになりながら笑った。
あなたもね、と言いながら私の頭に手を乗せるお母様。
「こんな所に来ては駄目でしょう。まったくあなたは、相変わらず猪みたいで可愛いこと」
私はびっくりして目を上げた。今までお母様からの愛情を感じることは多々あれど、可愛いなどという褒め言葉を言われたのは初めてのことだったから。
「あの・・・お母様。えっと・・・あっ・・・」
何から話せばいいのかわからず言い淀んでいたが、その間もお母様は穏やかな顔で私が話すまで待ってくださった。
「あの話は本当ですか?神官の男と駆け落ちをしたっていう・・・」
「そんなことはどうでもよいことです」
「よくありません!だって私、亡くなったって聞いてっ・・・!」
訳が分からない。皆は書置きがあったのだからお母様は神官の男と逃げたのだと言うし、ザフセンはミランダ様がお母様を殺したのだと言っていた。何が本当で何が嘘なのか。
私は縋り付くようにお母様に詰め寄って問う。
「神官と駆け落ちしたと思っている民がドローシアに怒っているんです!だからこうして私がドローシアへ・・・。今は一時的に落ち着いていますが、でもミランダ様が捕まってしまって、神官から脅されてて。
神官たちはグレスデンへ武力を持って政治に介入する気なんです。だから・・・」
混乱して上手く説明することのできない私を見守るお母様は何一つ口を挟まなかった。けれど私が再び言葉に詰まった時、彼女は私の両肩に手を置いて話しかけてくる。
「大丈夫ですよ」
たった一言。その言葉を言われたら私は何を言っていいのかが全くわからなくなってしまった。何が大丈夫なのかもわからないまま、何を伝えればいいのかもわからなくて。
「シンシア、大丈夫です。貴女は大丈夫」
「なにが・・・ですか・・・。だって私どうすればいいのかわからなくて・・・」
「貴女の行いは愚かなこともある。でも決して間違いではありません。貴女はいつでもグレスデンの王女として相応しくあり続けている。―――貴女を誇りに思います」
私はまたびっくりして声が出なくなった。こんなこと言われるなんて思わなくて、嬉しくて涙が出そうになりぐっと奥歯を噛み締める。
実際に私がグレスデンの王女として相応しくあるのかはわからない。ただ私はお母様の背中を追い続けていただけだ。
「それは、お母様が立派な方だったからです。私はお母様の真似をしているだけ・・・。相応しくあれているのならば、それはお母様が素晴らしかったからで・・・」
あなたがいなければ今の私は居なかった。誇りという言葉はお母様にこそ相応しい。
「いいえ、たぶん私はグレスデンの王家にはあまり合わない人間だったと思います」
「まさかっ」
「なんで私こんなに苦労しているんだろうって、ずっと思っていましたから」
私は目を丸くして閉口する。当たり前のように他人に奉仕していたお母様は、今まで文句の一つも仰っていなかったのに。
「大変、でしたか・・・?」
「ええ、もちろん。姫として担がれたってお腹は膨れませんし欲しいものも手に入りません。王妃として必要とされても霜焼けになった手の痛みは治らないし、髪の毛の手入れだってままならない」
とても興味深い言葉だった。普段からニコリとも笑わないし何事にも厳しい方なのに、髪の毛の手入れだなんて普通の女性みたいなことを考えていたのねって。
「それでもグレスデンの王家に生まれたからにはと、誰よりも自分に厳しく生きてきました。ただ自分はよくても苦労しかない生き方を我が子にまで強制するのはとても辛かった」
お母様は思い出すように目を伏せて続ける。きっと彼女が思い出しているのは寒くて貧しいあの国での生活だ。
「我が子に与えたい食料を他人に渡すのは、母親としてとても辛いことです。できるなら温かい場所でお腹いっぱいに食べさせてあげたかった。労働なんてさせず、子どもらしい普通の暮らしを送らせてあげたかった」
「お母様、でも私は・・・」
苦労だなんて思わなかった。普通の子どもになりたいだなんて思わなかった。だってお母様が私にとっての目標だったのだから、少々の空腹や労働なんて私にとっては試練でしかない。
お母様は私の目を見て深く頷く。
「そうなんです。貴女だけは私たちとは違った。先祖から押し付けられた生き方を、私たちには苦痛でしかなかった生き様を、ありのままに受け入れられる子だった。苦労を苦労だと思わず、誰の手も平等に握り、惜しげもなく努力し続けられる。
私は貴女に救われたんです。シンシア」
「え?」
「貴女がいたから私は私の人生が間違いではなかったと確信が持てた。王家の人間として恥ずかしい行いはしてきませんでしたが、本当にこんな人生でよいのかと自問自答し続けていたときに、貴女の存在が私の生き方を肯定してくれた」
私の髪を撫でて微笑むお母様。
「シンシアを産み育てることができたのだから、私の人生は間違っていなかった」
目頭が熱くなり、お母様の服の裾を強く握って俯いた。こんなに大切に想われていたなんて知らなかった。お母様にとっての一番はずっと国民で私は二の次だと思っていたのに、私の存在が誇りだと思っていてくださっていたなんて。
「私もお母様の子として生まれたことを誇りに思います」
そしてこれからもお母様の背中を追い続ける。クラー王妃という素晴らしい人物に少しでも近づけるように。例え心の中では苦しみもがいていたとしても、やっぱりお母様が私の目標であり憧れだ。・・・私だけではなく民にとっても。
できたなら、もし可能であれば、私のこれからの人生をお母様に見守っていて欲しい。ただの我儘だけどお母様が傍に居てくださったらと願わずにはいられない。
「あの・・・お母様はグレスデンに帰るおつもりはありませんか・・・?」
再び辛い暮らしを強いられることになるから、もし彼女が望むならこのまま神官庁の中で新しい人生を生きて欲しいと思う。
でももしそうでないならば私と一緒にここから出て欲しい。
お母様は小さく息を吐くとほんの少しだけ口角を上げて言った。
「私の心はいつまでもグレスデンにあります」
グラッと目の前が揺れた。何が起こったのかよくわからないまま、全身から力が抜けて自由が利かなくなる。まるで薬を飲んだかのような強烈な眠気が来て私は必死に抵抗したが目は半分も開かない。
どうしようと混乱していると中庭に入る扉からザフセンが飛び込んできて、私たちの顔を見た後に真っ青になって立ち尽くす。
ああ、駄目だ、見つかってしまった。逃げなきゃって思うのに何故か起き上がれない。
「な、な、なに・・・っ」
彼はワナワナと歪んだ唇を震わせて私たちを見下ろしていた。
私は倒れてしまいザフセンがやって来たというのに、お母様は動じることなく淡々とザフセンに向かって言う。
「この子に何かあれば私たちが許しませんよ」
どうしよう、もう目が開かない。頭が重くてどんどん思考が闇の中へ沈んでいく。
私には抗う術もなく、あっという間に意識が遠のいて行った。
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