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五話・たったひとつの願い
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しおりを挟む事が起こったのは学園を卒業する前の年。
最終学年のカリキュラムを眺めていると、後ろから覗き込んできたレイラが口を開く。
「ゼンも来年には卒業なのねえ」
「まあね」
「進路はもう決めたの?やっぱり軍部なんでしょ?憲兵?騎馬隊?」
「そうだなあ」
俺はレイラの横顔をチラリと見た。サラサラな髪が一瞬俺の頬を擽り目を細める。
本当に綺麗になった。欲目抜きに彼女はこれ以上にない美しい女性に育っていた。しかし中身は少女の頃のまま擦れることもなく純粋。まあ、擦れた所で今更自分の彼女への気持ちは変わる気がしないけれど。
「そうだな、そろそろ、レイラと結婚したいかな」
一般的には少し早いけれど、王族の女性なら早すぎるということもない。
レイラはこちらを見て目を丸くすると突然吹き出した。
「ぶっ、あーっはっは!ゼンってば永久就職狙いなのー!?」
そしてひとしきり笑った後、満足したのか何事もなく去って行った。
そして翌月にはフランシスと交際を始めていたのだった。
え―――・・・・・
『一生私が一緒にいるからね』
『結婚しようね』
あの約束は一体なんだったのか。俺の中では宝石を磨くように大切にしてきた約束をこうもあっさり忘れられるなんて。
確かに子どもの口約束だったし真に受けるべきではなかったのかもしれない。レイラにとってはごっこ遊びの延長で出てきた言葉だったんだろう。
だけど、なんだか軽い結婚詐欺に遭った気分だ―――。
レイラとフランシスはとてもお似合いの恋人だった。見目も華やかで家の格も俺よりずっと釣り合っている。
ただ、フランシスは少々遊び人というか、やることなすこと全てが派手だ。遊びも、人付き合いも、お金の使い方も。そんな刺激的な所が新鮮でレイラが惹かれているんだろうけれど、結婚に向く男かと言われるとそうではないと断言できる。
「ねえ、ゼン!今度フランシスが象に乗せてくれるんだって!」
楽しみだと喜ぶレイラに頬が緩んだ。男として嫉妬心がないわけではないけれど、彼女が笑っているから俺も笑みを返す。
「象なんてどっから取り寄せる気なんだあの人」
「南部商人から買い付ける約束したんですって」
「へえ」
笑っているから、レイラを手に入れられない心の痛みに蓋をする。後はレイラが幸せになってくれればそれでいいのだと、自分に強く言い聞かせた。
「あのね、婚約したの」
ある日突然部屋に駆け込んできたかと思えば「ほらー!」と見せびらかしてくる薬指の光輝く指輪。さすがに俺は一瞬言葉を失った。
「そうか、とうとう結婚か・・・」
おめでとう、と言うとレイラは手の見せたまま笑顔で頷いた。
「父様と母様にも見せてくるー!」
そしてドタドタと音を立てながら嵐のようにレイラは去って行った。色々とあっという間だったな。フランシスと付き合うまでも婚約するまでも。
大丈夫だろうか、と不安になる。
恋愛は人付き合いの中でも一番難しいと思う。数多いる異性の中で二人が互いに惹かれ合うだけでも奇跡。しかしお互いに人間だから完璧からはほど遠く、全て理想通りとはいかないから不満や我慢を受け入れ飲み込まなければならない。
うまく結婚までたどり着けたとしても、その後も良い関係を続けられるとは限らない。必要になるのは努力と我慢。
レイラはまだそこまで深く考えていない。レイラにとっての結婚とはごっこ遊びの中の世界のまま―――。
フランシスと結婚しても彼は仕事に精を出すタイプではない。遊び歩いて中々家には帰って来ないし、おそらく女性との付き合いを自重することもない。
自分の理想とは違うフランシスの姿を知ってもレイラはずっと笑っていられるだろうか。もしも彼女が泣くようなことになったら・・・。
「レイラ、フランシスとの結婚は考え直した方がいいと思う」
「なんで?」
きょとん、とした顔で俺を見上げてくるレイラ。
「女性関係の噂が耐えない。浮気されたらどうするんだ?」
「そんなのただの噂でしょ?フランシスが浮気なんてあり得ないわよ、私のこと大好きだもの。
彼は友人が多いから勘違いされやすいのよね」
その表情には結婚に対する不安や戸惑いは一切感じられない。思った通りレイラの中で結婚とはごっこ遊びの頃のまま何も変わっていなかった。
「本当にあいつでいいのか?」
「だってフランシスといると楽しいんだもの」
「理想通りの結婚でなかったとしても?」
レイラは少しだけ目を大きくしてケラケラと笑った。
「理想通りだから結婚するのよ」
レイラ、そうじゃない。そうじゃないんだ。フランシスはレイラが思っているような人じゃない。結婚は思い通りに行くほど簡単なものじゃない。
いくら諭しても彼女は聞く耳を持たない。一度夢中になったら周りが見えなくなるのはレイラの悪い癖だ。
このままではレイラが傷つけられてしまう。よりにもよってあんな、レイラよりも自分を優先するような自分勝手な男に。断腸の思いで彼女から身を引いたのに、何故あんな男にレイラを盗られなくてはならないんだ。
嫉妬心を閉じ込めていた蓋が、グラグラと煮えたぎって抉じ開けられる音が聞こえた。
女が集まる場所は匂いが好きじゃない。特に娼舘は気分が悪くなるから嫌いだ。
「へえ、珍しいねえアンタが頼み事なんて。まあ同僚のよしみでやってあげないこともないよ。金額次第だけど」
「50でいいか」
口も爪も真っ赤な女性は俺を上目使いで見つめるとニヤリと笑う。レイラに似ている・・・とまではいかないけど、なんとなく顔立ちに彼女の面影がある。彼女ならフランシスも気に入るだろう。
「口止め料も込みで?」
「いや、倍出す」
彼女は不審そうに眉を寄せた。
「えらく割のいい仕事だね」
「まあな」
じゃあ頼んだから、と一刻も早く新鮮な空気を吸いたかった俺は外へ出た。
こんなことをしたら取り返しのつかないことになると、頭では分かっていても止められない。己を突き動かすのはレイラへの愛情か、それともフランシスへの嫉妬心か。
もしもバレたらレイラに嫌悪の表情を向けられるかもしれない。しかし嫌われるかもしれないけれど、他の男に泣かされるよりはマシだと悪魔は耳元で囁き続ける。そしてその悪魔の言葉に魅入られてしまった俺はもう引き返すことができなかった。
「レイラ」
裁縫の針を口に咥えたまま「んー?」と返事をするレイラの膝上には、白い総レースのドレスが完成間近の姿で置いてあった。
「話がある」
「なによ、そんなに改まって」
控えていた侍女たちに目配せをすると、ゾロゾロと連なって部屋の外へ出て行った。急に気配が寂しくなった部屋にレイラは何事かと片眉を上げて俺を見る。
「さっき、フランシスが部屋に女性を連れ込むのを見た」
「友達なんじゃない?」
「友達にキスするのか?」
レイラはしばらく黙ったまま、みるみる目を大きく開いていく。
レイラはあくまで無言だった。表情からはなんの感情も読み取れないほど真顔で淡々と馬車に乗り、フランシスの屋敷の門を潜る。
「困ります!レイラ王女!只今フランシス様はご不在で・・・!」
止めようとするフランシスの使用人の言葉を無視して通り過ぎ、通い慣れたフランシスの部屋の扉を開く―――。
静まり返る空間は痛いほどに凍りついた。
「・・・フランシス?」
フランシスは計った通りベッドで事の最中で、彼はレイラに気づき慌てて隣の女を布団で隠す。しかし自身の裸体は隠しようもなく真っ青な顔をしてワナワナと震え始めた。
計画通りとはいえ、ここまで生々しい現場に遭遇するとは。
レイラは大丈夫だろうか。
不安になってレイラを視線だけで盗み見ると、彼女は口を開いたまま固まった後、急に興味を無くしたように踵を返した。
当然婚約は破棄となりフランシスとは別れることになった。もっと泣いたり怒鳴ったりするのではと思ったが、腹は立てても取り乱すようなことはなく。
「はーっ、嫌なもん見ちゃった!でもフランシスは僻地に飛ばしちゃったしもう顔を見ることもないでしょ!」
レイラはひと仕事終えたかのような清々しい表情。
さすがに驚いた。あんなに仲が良かったのにこうもあっさりと捨ててしまえるとは。
「本当にいいのか?一応、やり直すっていう選択肢もある」
「やめてよ!もう顔も見たくないのに!」
そうか、レイラにとっての恋はこんなに簡単に切り捨てられるものだったのか。
理解すると同時に戦慄する。もし俺がレイラと恋仲になっていたら、フランシスのように俺はやがて憎悪の対象になっていたかもしれない。そしてもう二度と会うことも叶わないという、最悪の結果になりえることに気がついた。
いいや、知っていたんだ。母が出ていったあのときから、愛の誓いはあっけないものなのだと。人の心は生きている限り移ろう。
俺にとってのレイラは人生の恋であり愛でもある。いつか失うかもしれないなら、いっそのことレイラへの想いが伝わらなくても構わない。
どうせ罪を犯した俺にはもう彼女の伴侶になる資格はない。ならば命をかけて彼女の笑顔を守り抜こう、彼女が人生の最期の最期まで笑っていられるように。どんなに自分が空っぽでもレイラさえ笑っていてくれれば俺は生きていけるから。
罪を犯した俺に残ったものは、彼女が生涯幸せであるというたったひとつの願いだけだった。
レイラが兵たちを連れて引き上げた後。
部屋へ戻り先ほど彼女が居たベッドに触れれば、シーツには微かに彼女の熱が残っていた。
「レイラ・・・」
傷つけてごめん。でもきっとレイラなら大丈夫。夢見がちだとどんなに他者に謗られようが馬鹿にされようが、己の理想を追い求め続けることができる強い女性だ。今までに何度失敗して傷ついても自分の足で立ち上がり前へ進んできたのだから、今回も彼女はちゃんと立ち直れるだろう。
俺はもう二度と彼女の笑顔を見ることは叶わない。それでもいいんだ、これが自分の選んだ道だ。彼女を欺いたあの時からいつか訪れると思っていた天罰が今下されただけ。
覚悟はしていたが、やはり心臓がはち切れそうなほど苦しい。レイラが差し伸べてくれた手を取れなかった悔しさと、最期まで彼女の側にいられないという無念さ。
全てを失った俺に残されたのは彼女と過ごした記憶だけ。これからの人生は彼女との思い出だけを糧に生きて行くしかない。現実は思っていたより残酷で苦しいものなんだな。
―――せめて、どうか、レイラが生涯幸せでありますように。
シーツに残る彼女の熱が少しでも長く留まるよう、両手で鷲掴んで握りしめた。
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