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第1章 出会い

Act.1 小田原挟撃戦(アンナ)

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 自分が今、どこにいるのかも分からなかった。
 先程から散発的にどこからか戦闘の音がしている。

 その日は激しい雨が降っていた。分厚い積乱雲と鬱蒼うっそうとした木々によって太陽光は遮られ、昼間だというのに足元も見えないほど暗かった。おまけに、雨によって地面がぬかるんでいて、山中の足元はかなり悪い。

 アンナ=カトリーン・フェルトマイアーは、姉妹スールの姉である各務原かがみはら ななかに手を引かれながら、荒れる箱根の山中を歩いていた。だが、地面から突き出した木の根に足を取られて転び、足をひねってしまった。

「……いたたっ!」
「大丈夫? アンナ」
「ええ、この程度大したことは……っ!」
「……少し休んだ方が良さそうだね」

 ななかはアンナを近くの小さい岩の上に座らせると、雨に濡れた銀色の髪をかきあげながら周囲の状況をうかがった。

 そこまで難しい作戦ではないはずだった。御殿場にあった大型魔物の巣は東京高専横浜分校の反転攻勢によって前年にはすでに片付けられており、この小田原挟撃戦は小田原や箱根山中に未だに潜む雑魚魔物を掃討するのみだと思われていた。
 だが、不測の事態に備えて、横浜分校の主力に加えて征華からも多数の魔導士が派遣されたにも関わらず、未だに魔物の殲滅には至っていない。そればかりか、突然の豪雨と想定外の大型魔物の襲来によって、ななかたちは共に戦っていた征華本隊からはぐれてしまい、こうして山中をさまようことになってしまったのだった。

 ななかはそこら辺に生えた50センチ四方ほどの大きな葉をむしると、アンナの頭に乗せる。山の雨は冷たく、ずっと打たれていると激しく体力を奪ってしまう。雨宿りする場所もなく、傘なんて持ってきていない今、ないよりはマシだろう。

 だが、アンナの心中は不甲斐ない思いでいっぱいだった。ななかは近々序列1桁のシングルナンバーになると言われているほどの実力者。彼女だけであればもっと早く安全な場所を探して避難することができるはずなのに、1年生の未熟者の自分が足を引っ張っている。そういう負い目があったのだ。

(……これ以上、ななお姉さまの足を引っ張るわけにはいきませんわ!)

 アンナは意を決して口を開いた。

「お姉さま……」
「どうしたの? 寒い? あと少しだから頑張ってね」
「違いますわ! お姉さま、わたくしを置いて先に行ってくださいまし!」
「アンナ……?」

 ななかは目を丸くしてアンナの顔を凝視した。可愛い妹の顔は悲痛に歪んでいた。彼女は覚悟を決めている。そして恐らく、最愛の姉と別れること……死ぬことに対する恐怖があるのだろう。
 雨が降っているせいで彼女が泣いているのかはよくわからなかったが、ななかにはどうでもよかった。

「行ってくださいまし、はやく! ここにもじきに魔物が来ますわ! お姉さま1人だけなら逃げ切れます! だから……」
「ごめん、ごめんね……私の力不足で、妹にそんな辛い思いをさせて……」

 こらえきれなくなったななかはアンナに抱きついた。お互いの体温で、冷えきった身体がいくらか温かくなった。

「大丈夫。二人で助かろう! さっきこの下に明かりが見えたんだ、きっと横浜分校のベースキャンプだよ。そこまで行けば大丈夫! ……立てる?」
「お姉さま……?」
「ちょっと待ってて」

 立ち上がろうとして、痛みに顔をしかめたアンナを手で制すると、ななかは、自身のボロボロになった制服のスカートの部分を手でちぎり、アンナの足に巻いていく。特殊繊維でできた布は、ボロボロでも割としっかりとしており、十分に包帯の役目を果たしてくれそうだった。


「これでよしっと……」

 下着が見えそうなほどスカートが短くなってしまったななかは、恐縮するアンナの手を引っ張って無理やり立たせ、肩を貸しながらゆっくりと山を下りていく。「もう少し、もう少しだよ」と声をかけながら、お互いの体温だけを頼りに、とっくに体力の尽きかけている身体にムチを打ちながら、二人の少女は生きるために歩を進めた。

 やがて、少し開けた場所に出た。そこには横浜分校のものと思われる『横高』という紋の入ったテントが数多く立てられており、中に明かりがついているものもある。

 助かったと胸を撫で下ろした二人だったが、すぐに違和感に気づいた。──静かすぎるのだ。

「横浜分校の方々はどこへ行ってしまったのでしょうか……?」
「……いや、どこにも行ってないみたいだよ」

 ななかが指をさす。その先に視線を向けると、テントの外に横浜分校の制服を身につけた人物が倒れていた。──1人ではない。至るところに横浜分校の魔導士が地に伏している。ななかは近くに倒れていた男性魔導士に近づき、首筋に手を当てて首を振った。

「死んでる」
「そんな……!」
「魔力が吸われてる。……魔物の仕業で間違いないだろうね」

 本来前線のバックアップをするべきベースキャンプがこんな有様。通信網や補給は絶たれ、誰がどこにいるのかすら分からない状況。分断された生徒たちは組織的な抵抗ができずに各個撃破されている状態なのだろうか。

「まだ微かに熱がある。もしかしたらまだ近くに敵がいるかも……」
「お姉さま!」

 キョロキョロと周囲の様子をうかがっていたアンナが突然声を上げた。見ると、日が落ちて一層暗くなってきた周囲に、光るものがポツポツと浮かんでいる。魔物の目だ。
 距離はそれほど近くないが、二人は完全に囲まれていた。

「やっぱり、敵がベースキャンプの明かりを消さなかったのは、落ちのびてくる私たちみたいな魔導士を逃がさないための……!」
「どうやら分析してる余裕はないようですわよ……」

 前方からのっしのっしと大きなものが地を踏む音がする。そして、闇にギラッときらめく赤い一対の瞳。──大型の魔物だ。

(さすがにこれほどの敵をわたくしとお姉さまで相手するのは無理ですわ。おまけにわたくしは手負い、お姉さまもほとんど魔力を使い尽くしている……万事休すですか……)

「お姉さま。わたくしが魔物を引き付けますから──」
「ダメ!」

 ななかはアンナの手をしっかりと握りながら首を振った。魔物たちはこちらを警戒しているのか、遠巻きにしながらジリジリと包囲を狭めてきている。どうやらななかとアンナを一筋縄では倒せない相手と踏んで実力を見極めているようだ。

「ダメだよアンナ。あなたは勇者なんでしょう? 勇者が死んだら誰が魔王を倒すの?」
「し、しかし……わたくしなんかよりもななお姉さまの方が何倍も強いのに……」
「それは私の方が経験値があるから。でも才能はアンナの方があると思う──まあそんなのは関係ないの」
「……?」
「私は妹のアンナが大切だから、アンナを守る。……それだけ」
「……そのセリフ、わたくしに妹ができたら言ってあげたいですわ」
「言ってあげて。使用料はとらないから」
「ふふっ、ではわたくしはお姉さまを守りますわ」

 アンナが笑って拳を構える。ソフィーから学んだ空手の構えで、周囲の魔物に注意を向けた。
 ななかは背中に差していた両手剣を引き抜くと、真っ直ぐ大型の魔物の方に刃先を向けて正眼に構えた。


「雑魚は任せた。私は大型を狙うから」
「了解しましたわ!」

 ななかの声にアンナが応じたのと同時に、周囲から無数の魔物が二人に飛びかかってきた。体長1メートルほどの狼型の魔物だ。どおりで暗い山中でも高い機動力と攻撃力を誇っていたらしい。
 アンナは構えた両拳に雷の魔力を乗せると、飛びかかってきた魔物の1匹を掴み、そのまま地面に叩きつけた。

「くたばりなさいまし!」

 ドッと地響きのような衝撃を放って魔物が地面に埋まる。続けて背後に迫っていた魔物を裏拳で撃ち抜き、痛みをこらえながら回し蹴りを放って吹き飛ばす。彼女の規格外のスピードとパワーはひとえに勇者の血から受け継いだものであり、彼女の象徴であり強みだった。

「はぁぁぁぁぁっ!!」

 アンナが怪我をものともしない勢いで小型の魔物をちぎっては投げちぎっては投げしているうちに、ななかは大型の魔物の目の前まで迫っていた。10メートルほどの巨体を誇るそれは、ずんぐりむっくりの体型をしており、口元に牙がのぞいている。猪型の魔物だった。そして、その猪はななかが目の前に迫っていても、全く動じていなかった。

「──なめんなっ! ブリザードランスッ!!」

 ズガガガガッ! と轟音を立てながら、ななかの放った巨大な氷柱が猪を串刺しにした。猪はグォォと苦悶くもんの声を上げながら地面に倒れた……が。

「くっ、足りないか……」

 魔物はその中心部に存在している魔核まかくを破壊しなければいくらでも再生してしまう。ななかの攻撃は、どうやら猪の魔核を捉えきれていなかったようだった。

『ウォォォォォォッ!!!』

「まずい! 仲間を呼んでる!」
「しゃらくさいですわっ!」

 近くで遠吠えのような魔物の鳴き声を聞いて、ななかとアンナの表情が険しくなった。アンナも大勢を相手するので手一杯で、なかなか昏倒させた魔物にトドメをさせずにいる。

「アンナ、携帯端末は持ってる?」
「ええ……圏外ですが」
「ふもとの集落まで行けば電波が入るはず。……行って助けを呼んできてくれる?」
「しかしお姉さまは……」
「魔物がアンナを追ってこないように、ここで足止めをする」
「……一緒に逃げようって約束しましたのに!」
「一緒に逃げるために、確実な方法を選んだだけだよ! このままだと二人とも死ぬ。アンナが助けを呼んできてくれたら、私も助かるかもしれない。……アンナにかかってる」
「わかりましたわ。その代わり約束してください。──必ず生きて帰ると」
「約束する! だから行って勇者さん!」


 ななかは今まで見たことないような悲痛な表情をしていた。死ぬつもりだとアンナは思った。が、ここでアンナが残ったとしても結果は変わらないだろう。ましてや、手負いのアンナにはこれだけの魔物の足止めは荷が重すぎる。だとしたら、少しでも可能性のある方に賭けるべきではないだろうか。
 そう結論づけたアンナは、ななかの言葉を信じてふもとを目指して走り出した。当然、アンナを追いかけてこようとする魔物もいたが、ななかがそれを許さなかった。

「──八大精霊、絶対零度ぜったいれいど氷雪ひょうせつ永久とわのスノーホワイト。なんじ真名まなもっ氷獄ひょうごくの扉を開き、無窮むきゅう深淵しんえんへといざないたまえ! 『無限氷獄エターナル・コキュートス』!!」

 両手剣を地面に突き立てて叫ぶと、ビシビシと空気が震えるほどの冷気が辺りを包み、起き上がろうとしていた猪や、アンナを追おうとしていた狼たちが一斉に凍りついた。


「お姉さま! お姉さまぁぁぁっ!」

 アンナは最愛の姉を残し、泣き叫びながら一心不乱に山を下りたのだった。
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