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狼の章
百牙2
しおりを挟む「帰ったか、百牙」
「俺をその名前で呼ぶな」
田坂が人狼の呪いと共に勝手につけた名だ。百牙と呼ばれる奴隷はもういない。積み重なった憎しみが蛇のように身の内を這いずり回って、早く殺してしまえと五月蠅く急き立てる。だがまずは対話だ。昢覧からの頼まれ事をこなさなくては。
「いったいお前はなんなんだ? お前みたいな人間は他に見たことがない。魔術師とはなんだ?」
まだ魔法を疑わない年齢であのような体験をさせられた知悠にとって、魔術は宇宙や命と同じように身近にある不思議の一つに過ぎなかった。昢覧に言われるまで忌まわしいそれを知ろうとしたことがない。
「離れている間に少しは世間を見てきたようだな」
ようやく後ろを向いた田坂は、素っ裸で立つ百牙を見ていつもの薄笑いを浮かべた。田坂が常に保っているこの表情は自信の表れで、思考を読まれないための仮面でもある。田坂は百牙の態度を訝しんでいた。復讐のためやって来たにしては殺気が少ない。これの性格ならすぐに飛び掛かってきそうなのにそうはせず、あれだけ毛嫌いしていた魔術について今さら教えろとは。らしくない。別の魔術師に捕まって、そいつの犬となって探りを入れに来たといったところだろう。逃げても結局それかと思うと笑みが深まった。
「質問に答えろ」
「いいだろう。古来から人は死後の世界というものを信じてきた。天国、地獄、ミクトラン、エーリュシオン、ヘルヘイム……魔術師も目に見えるこの世だけが世界の全てではないと考えている。この世の外には違う摂理をもつ世界があり、そこには意思と知性を備えた者が存在する。神か悪魔か、正体は知らん。仮に魔術の神、魔神と呼ぼう。この魔神と意思の疎通ができることが魔術師としての必要最低条件だ。
術師は魔神に供物を捧げる。動物でも植物でもなんでも構わないが、死んでいるものは駄目だ。命あるものでなくてはならない。魂だけが世界を渡れるからだ。供物を受け取った魔神は、それに見合っただけの力を魔術師に授ける。力は呪文によって発動し、常識では有り得ない様々な事象を実現させる。これが魔術であり我ら魔術師だ」
田坂が語った内容に嘘偽りはない。入門者が始めに教えられる基本中の基本。知られても痛手にならない。知悠は目を瞠った。魔神とは想像していた以上に大仰だ。
「弟子入りしに来たのか? これまでの行いを深く反省するなら考えてやろう」
「ふざけるな、誰がおまえなんかに!」
「なんと酷い口を。おまえの両親はずっと女の子を欲しがってた。知悠は女の子のために用意された名前だ。妹が生まれ、邪魔な子供は捨てられた。私はおまえの命の恩人だ」
「嘘をつくな。俺は捨てられたんじゃない。俺はさらわれたんだ」
「惨めなおまえに価値を与えたのは私だ。名前までやったのに恩知らずが」
「黙れ!!」
知悠にも田坂の思惑が手に取るようにわかった。こいつはまた自分を奴隷にするつもりだ。馬鹿にして怒らせて、手を差し伸ばせば騙される可哀想な子供だと思っている。威嚇を弱者の虚勢だと嘲っている。その思い上がり、勘違いが自分を怒らせているのに。
「人狼の呪いを解く方法はあるのか」
「あるとも。殺すことだ。私の目算では百人で足りる。百牙。百の命に牙を立てる者よ。それが名付けの由来だ」
奪った命を数えていたのは初めだけだ。考えたら生きてはいけなかった。次の殺しで呪いが解けるかも知れない。知悠は人生の四分の三を人狼として過ごしてきた。自分が自分でなくなる恐怖に言葉を失くす。初めての変身で錯乱し泣き喚き暴れ狂ったのは遠い遠い過去の悪夢。美しく強靭な獣の肉体は今や誇りだ。大切な人が宝物のように大事にしてくれる狼を、知悠自身も愛している。
「おまえはここへ何をしに来た。百牙、もう一度私の下につくと言うのなら解呪の儀式をしてやろう」
「儀式が必要なのか」
「それができるのは呪いをかけた私だけだ」
次の瞬間、知悠は田坂の喉元に食らいついた。人狼でありたい。それが知悠の答えだ。床を蹴ると同時に始めた変身が終わったのは獲物を捕らえた後だった。なにか違和感を覚えてよくよく見てみれば、倒れているのは全く別人の亡骸だった。前脚で押さえつけていた胸から赤黒い液体が零れている。開いてみると中には心臓が三つ詰め込まれていた。黒ずんでいて臭い。息絶えてから数時間は経過している。
身代わりだ。強い異臭はこれを誤魔化すためのものだった。床下かどこかに腐肉が仕込んである。苛立った知悠は祭壇を蹴散らした。外を窺うと、猟銃を携えた住人がわらわらとこの平屋に駆け寄って来るのが見える。今度は生身の人間たちだ。外に飛び出した知悠は、手薄な集落の奥ではなく敢えて人の多い元来た道の方へと走った。井背里の山に入るのは危険だ。どんな罠が仕掛けてあるか分からない。
時速七十キロで駆け抜ける狼は誰にも捕らえられなかった。うねる山道でも速度は変わらない。あっという間に井背里を脱し林に飛び込む。追いかけてきた魔術師の弟子たちは、何事もなかったかのように佇む木々や風で先端を揺らす蔓しか見ることができなかった。
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