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狼の章
百牙1
しおりを挟む山間の小さな平地に、小規模な農地と数件の家屋が建つだけの集落。井背里と呼ばれるここに、知る人ぞ知る魔術師田坂京子は居を構えていた。他の住人は田坂の弟子と助手しかいない。畑には食料の他に術式に必要な植物が植えられ、飼われる家畜も生贄としての側面を持つ。ここは田坂の、そして魔術のための集落である。
田坂は約四年前にそれまでの拠点を捨て、一年間の放浪生活を経てこの地へ来た。脱走した知悠が敵方に情報を漏らすと想定したためだ。田坂は用心深い性質で、今日まで不自由なく暮らし集落を興すだけの財力も持ち合わせていた。
田坂は呪術を主力商材としている。悪夢や幻覚、幻聴という精神攻撃等。怪我や病気といった、もっと直接肉体へ訴えかける攻撃もできる。そして呪殺も。知悠がいる間は人狼を用いて殺していた。
そういう仕事の性質上、他人の悪意には人一倍敏感であった。集落と公道をつなぐ一本道にはセンサーとカメラが設置されていて、出入りを厳重に管理している。前以て自分に悪意を向ける者の接近を感じていた田坂は、侵入者ありの報告を冷静に聞いた。
山の北側の山道を一台のクーペが走っていた。家を出るときにはピカピカだった車体が、路面に散乱した落ち葉や小枝のせいで薄汚れている。ハンドルを握る知悠は殺害を決意していた。あれを殺して呪いが解けるとは考えづらかった。もしそうだとしたらあの用心深い女が自分を側に置いていたのは矛盾する。リスクを冒してまで裏をかくタイプでもない。解呪の方法はないというのが知悠の予想だ。
脇に逸れる砂利道の手前で知悠は車を止めた。道を横切って渡された一本の鎖の真ん中には「この先私有地 立入禁止」と記された看板が下がっている。ここが一般社会と魔術師の領域の境界線だ。鎖を外そうと手を伸ばした知悠は顔を顰めた。動物の臓腑でもなすりつけたのだろう。鎖に黒い汚れや肉片のようなものがこびり付いている。陳腐な脅しを地面に投げやって、知悠は奥地へと車を走らせた。
集落の畦道に差し掛かったところで住民が前に飛び出してきた。投げつけられた手斧がフロントガラスを突き破る。物騒な歓迎だ。脱輪させてしまった車を乗り捨て、知悠も畑に植えられた背の高い作物に紛れた。変身して五感を研ぎ澄ます。匂い、影、風向き、異音、鳥や虫の様子、殺気。周囲の全てに気を配って。
幼い自分を苦しめた狩りを、知悠はいつしか楽しむようになっていた。初めて喜びを感じたときは罪悪感に苛まれ、自分が恐ろしくて泣いた。やがてその葛藤も薄れてしまう。獲物を追い詰めると強くなった気がした。疾走すれば自由になれた気がした。狼になればなんでもできるみたいで気分が良かった。
知悠に喉を食いちぎられた人間は、泥と動物の死体で作られた操り人形だった。次々と現れる操り人形は、少しの傷でも人の形を保てなくなり崩壊した。田坂から離反したときと比べたら造作もない。自分が強くなったというより敵が弱いように感じた。弱い術者は弱い人形しか操れない。優秀な弟子はあのときほとんど殺した。同じくらい優秀な人材はそう簡単に集められまい。保井からの報告では、井背里が機能し始めてから半年も経っていない。まだ充分に体制が整っていないと見ていいだろう。知悠は危な気なく人形を片付けていった。
井背里には二つのものが充満していた。一つは捧げられた生贄の饐えた匂い。もう一つは魔術の違和感。魔術を行使すると、本来なかったはずの事象を無理やり捻じ込まれたせいで世界に歪が生じる。人外はそれを敏感に察知することができた。かつてはこの空気が常で麻痺していたが、久々に感じると気持ち悪い。
その二つが強まる方へ足を動かすと、生垣に囲まれた小さな平屋の和風建築へと辿り着いた。人型に戻り玄関の引き戸を開ける。辺りを飛び交っている大量の蠅が、なぜか中には入ってこない。広めの取次の奥の板戸の向こう側から、胸が悪くなるような気配を感じる。板戸を引くと、床の間に設置された祭壇に向かって田坂が正座していた。こちらからは背中しか見えないのに、口角を上げてぎらついた目をしているのがわかる。強い臭気で鼻があてにならなくなってしまった知悠は、一歩一歩慎重にターゲットへと近付いた。
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