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血だまり2
しおりを挟むイディオルヌが復員したのは終戦から二ヶ月後のことだった。すぐに戻らなかったのは治癒士として奉仕活動をしていたから。帰国後どこにも寄らずフィンデリカを訪ねた。薄汚れた軍服が板についた兄を見て、存外立派に軍人をしていたらしいとフィンデリカは感心した。
「ふふっ、本当に入隊してたのね。嘘みたい」
「ひどいなあ。これでも一等衛生官に出世したんだから」
二人はよく冗談を言い合う。日常の上っ面を被せれば、尽きることのない喪失感と無力感が少しはましになった。イディオルヌが一旦先に一人で帰宅し、半年留守にした家を掃除した。書斎のドアは開けられなかった。兄に連れられて帰宅したフィンデリカは、半日の移動で疲れて熱を出した。粥は半分しか食べられなかった。
「兄さん、私、兄さんが帰ってくると思ってなかった。私なんか捨てて、そのままどこかに行くんだと思ってた。そのために徴兵に応じたんだって」
「ばかだなフィンデリカ。そんな事しないよ」
最初に徴兵に前向きな意見を出したのはフィンデリカだ。戦場で死ぬ者を一人でも減らすために。悲しむ人が少しでも少なく済むようにと。そしてイディオルヌは入隊した。妹がくれた建前は日を追うごとに褪せて、本心が露呈していく。逃げたい。でも、どこへ行こうと無駄だ。過去からは逃げられない。いつまでも付きまとって昨日のことのように蘇る。妹に気を遣わせて不安がらせて、愚かな自分にまた嫌気が差した。
「あのね兄さん、ほら、私って暇でしょ? だからね、ずっと考え事ばっかりしてて、それで、おぼろげだけど思い出したの。あの日兄さんは血塗れの父さんを抱いて名前を呼んでた。泣きながらハイヴェルインって。恋人を亡くしたみたいに」
熱に浮かされたと思って聞いていたイディオルヌは凍りついた。父への想い、それに父と二人でしていたことはフィンデリカには一生隠しておくつもりだった。
「父さんとの間になにがあったの」
「なにも、ない。僕たちはただ二人で、僕たちはただ、二人で」
動揺のあまり震える兄を見て、フィンデリカは長かった検証の終わりを悟った。
「私が父さんを死なせたのかも知れない」
「な……に……?」
「いつだったか父さんに、兄さんを特別扱いしないでって言ったことがあるの。そのときは知らなくて、兄さんが大事にされてるから少し焼きもちを焼いただけで、深い意味なんてなくて……でも父さんは怖い顔してた。兄さんたちはどうかしてる。でも死んでほしいとまでは思ってない……!!」
「泣かないで。フィンデリカは、なにも悪くないよ。まだ熱があるんだから寝なさい」
イディオルヌは逃げるように部屋を出た。立っていられなくなって廊下にうずくまる。
「ハイヴェルイン」
名を呼ぶと微笑んでくれる。愛おしい気持ちを伝えたくてキスをした。膝に乗せられるようになってしばらくしてから始めた習慣。ハイヴェルインの傷が少しでも癒されるように、心を込めて唇を合わせる。イディオルヌは十四歳になっていた。この頃には基本的な性の知識が身について、幼馴染が自分に何をしようとしていたのか理解していた。自分が今何をしているのかも。無邪気だったキスには熱がこもるようになった。実父とハイヴェルインはまったく似ていない。年齢もずっと若い。いつから彼を父ではなく一人の男として意識し始めたのか。気付けばそうなっていた。
「イディオルヌ」
ハイヴェルインはその日初めて化粧をしてドレスを着た少年の名を呼んだ。息子であり妻であり、そのどちらでもない曖昧な存在がイディオルヌとなった瞬間だった。ハイヴェルインが優しい目で自分を見ている。代役ではない、実在するイディオルヌを。愛されてると実感できた。
時々ではあるが二人で眠ることもあった。ただ腕に抱えられて横になってキスをして目を閉じる。それ以上の行為があることも知っていたが、ハイヴェルインはそれを求めてはこなかった。イディオルヌもハイヴェルインの温もりを感じていられれば、それで満足だった。
イディオルヌはハイヴェルインの自死の理由がわからなかった。自分に触れるハイヴェルインは幸せそうに見えた。あれだけでは埋められない空虚に支配されてしまったのか。この身を差し出してでも彼を繋ぎとめておけばよかったと、何度後悔したことか。
フィンデリカの告白で、自分の思いがとんでもなく的外れだったと気付かされた。彼は娘に秘密を知られたと勘違いして、背徳の罪の重さに耐え切れなくなって死んだに違いない。罪を犯させたのは、彼を堕としたのは自分なのに。誰にも悟らせずに死を決断して、実行してしまった。彼と苦しみから抜け出したくてしていたことなのに余計に苦しめた。名前を呼んで笑っていたかっただけなのに孤独にさせた。愛すれば愛するほど大きくなる代償に目を向けられなかった。あのような結末に追いやったのは他でもない自分だ。
ヌウォド家に引き取られたばかりの頃イディオルヌは孤独だった。世界は壁に掛かった絵のように、ただそこにあるだけだった。母に似た叔母が大きな癒しになっていたのは否定できない。本心を知るまでは大好きだった叔母。少なくともイディオルヌにくれた愛情は本物だった。なぜ実の娘にもそれを向けられなかったのか。叔母を不幸にしたのは自分自身だ。なのになぜハイヴェルインを苦しめたのか。
生まれてきた妹はかわいかった。自分のような置いていかれた子供と違って、全部持っていて輝いて見えた。母親を亡くしても彼女は明るく真っ直ぐに育った。意図的な部分もあったと思う。フィンデリカの笑顔が好きだ。父に似ていて泣きたくなる。
「おはようフィンデリカ。熱は下がったね。起きれる?」
自分を棚上げして心配する兄の目を、フィンデリカはまともに見れなかった。彼女の生活は倒れてから六年経った今日まで代り映えしない。やりたかった事は全部諦めて、時間が過ぎていくだけの毎日。父のためにした事で後悔はない。でも自死を選ばせたのが自分なのだとしたら、生きていく意味が見出せなくなってしまった。
「兄さん、私疲れた。もう終わりにしたい」
抑揚のない声だった。イディオルヌも淡々と受け止める。
「そう。話してくれてありがとう。僕もちょうど同じことを考えていたんだ」
イディオルヌとフィンデリカは目一杯おしゃれをして出掛けた。美術館に行って、劇場に行って、本屋に行って、カフェでケーキを食べて。偶然出くわした友達に手を振る。夜には花火を見上げた。
みんなでピクニックした丘に登って草の上に寝っ転がる。日差しがあったかくて、風が心地良い。母さんたちが作ってくれたサンドイッチを頬張る。父さんたちもいる。
静かな湖面に波紋を広げて水鳥が飛び立つ。立ち尽くしていると誰かが手を繋いでくれた。一人じゃないから、もう怖くない。
さあ、そろそろ家に帰ろう。
みんなが待ってる
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